同じ頃。

「では、こちらをお召しになってくださいませ」
「はぁ」
 手渡されたのは、大きな白い箱。わずかに開けた隙間から見えたのは、黒いスーツ上下。それに、黒いワイシャツ、黒いネクタイに黒い靴下までくっついていて、まだ着てないのに既に墨でも浴びた気分がひしひし。
「お召し替えが済みましたら、ドアを開け、(わたくし)へお声かけくださいませ。お車までご案内いたします」
「あの、俺の着てきたこれ、どうしたらいいっスか?」
 俺より頭ひとつ分くらい背の低いメイドさんへ、そう訊ねてみる。「これ」と言いながら引っ張った襟首は、俺が家から着てきたジャージのそれだったわけだけど。
「そのままこちらのお部屋に置いておいてくださいませ」
 後悔を含んだ苦笑いを向ける俺へ、淡々と答えるメイドさん。
「ご依頼のお仕事が済み次第、和泉(いずみ)様にはこちらへお戻りいただき、お着替えを済まされてから、ご帰宅いただきます。それまではこの部屋に誰も入室いたしませんので、ご安心くださいませ」
「この鍵かけてけってことっスか」
「然様にございます。尚、ご帰宅の際に報酬をお渡しするよう社長より申し使っておりますので、お受け取りお忘れなきよう」
 そう言って、目の前のメイドさんは静かに会釈をして、俺がまっすぐに通された部屋の扉をゴトンと閉めてしまった。
「…………」
 今着ているジャージ上下の柔い生地を見下ろして、激しい後悔の溜め息を吐き出す。
 こんなの聞いてねぇ。のっけから服装に失敗した。マジカッコ悪い。最悪。場違いにも程度ってモンがある。
 だって、親父から言われた住所に建っていたのは、とんでもなくデカい洋風のお屋敷だったんだ。


        ♡   ◇


 俺――和泉敬斗(いずみけいと)は高校二年生。ボクシングをこよなく愛する、まぁカッコつけて言うと『拳闘男子』的な? 実家がボクシングジムをやってるのもあって、気が付いたらリングの廻りをウロチョロしてた感じ。
 そんな親父の経営するボクシングジムに『ウマいバイト話』が舞い込んだのは、二時間前のこと。
「えすぴぃのばいとォ?」
「そうそう、四時間ぽっちでいいんだと。お抱えのSPの人数が足らないってんで、今日だけ一人増員してぇとさ」
「はーん」
 親父のその話を、帰宅後すぐに上の空で聞き流していた俺。手をザバザバ洗っている俺の背後からニマニマと話をしてくるもんだから、鏡越しに問い直す。
「で? 親父が行くのか? そんなブヨブヨの腹タプつかせてんのにSPなんて勤まんのかよ?」
「いやぁ、オメーに任すってことで返事したんだわ」
「ハァ? なんで俺が」
 鏡に向かって目を見開いた俺。我ながらなかなかの顔面ぐんにゃり具合。同じタイミングで、親父も口を弧に上向ける。
「四時間で八万だとよ。悪かァねーだろ」
「けどそもそも、SPなんて勤まるわけねーじゃん、ただの高校生だぞ俺」
「はーん? ボクシング地区大会中学高校部門三年連続優勝経験者の和泉敬斗くん一六歳は、SPの肩書きとして充分だと思ったがねぇ?」
 不敵にニヤニヤと親父が笑う。なんともイヤらしいぜ、チクショウ。コイツ、絶対に提示された金に目が眩んだな?
 泡を流し終えて、蛇口を止めた俺は、ジトリと直接親父を睨む。
「大体、SPて何着るんだよ。なんかそれらしくて仰々しいもん、ウチにあんのかよ?」
「安心しろ。着衣支給だ。リース代だのもかからんらしい」
「リース?」
「レンタルみてぇなことのこった。とにかく」
 ガツ、と後ろから両肩を持たれる俺。
「ファイト! 我が息子!」
「ぬゎーにが『ファイト!』だってーの」
 そんなこんなで、手を洗い終えた俺はラフすぎるジャージに着替えて、ランニングも兼ねて家を出たってワケ。
「こんなお高そうな『スーツ様』で、マジに護衛なんかできんのか疑問だなぁ、オイ」
 お屋敷に着いた俺は、一旦親父に電話をかけている。何かの間違いだったんじゃねぇかとか、住所はマジに合ってんのかとか、そういうことを何度も訊き返した。まぁ結果的に電話口で親父が言ったのは「合っているから訪問しろ」とのこと。
「えっとォ? わ、ベルトまで支給されてる」
 震える指先で呼び鈴のボタンを押せば、地平線の彼方まで響き渡るんじゃないかと思えるような「ディーンゴーン」が鳴って、俺は二度目の後悔をしたっつーわけ。
「チ、親父め。靴のサイズまで教えやがったな。ピッタリかよ。なんか怖っ」
 マンガやらドラマで見るような、黒服ドレスに白いヒラヒラ付きのエプロンを巻いたメイドさんがマジで出てきて、自動で開いた門扉からお屋敷の中までを案内された。
 で、現在に至るという。
「着替え終わりましたァ」
 言われたとおり、俺は静かにドアを開けて部屋の外に声をかけた。さっきのメイドさんは会釈の後で、俺のネクタイの曲がりを直してくれたり、革靴の革紐の結び目を調節したりして、入念に見た目を調えてくれる。
「よろしゅうございます。それと――」
 立ち上がったメイドさんは、ピッと左人指し指で俺の目元をくるくる指す。
「――お目元、お忘れにございます」
「え、目元?」
 なんだ、目元って? 眉毛無いとかじゃないけどなぁ、俺。なんて思いながら自分の顔面をペタペタ。
「ご支給のスーツ一式の中にサングラスがございます。そちらも必ずお召しいただいております」
「サン、グラス?」
 そうだと言わんばかりに、メイドさんが深々と頭を下げてくる。
「あ、あの、いま持ってきます、待っててください」
 ダッシュ、アンド、ユーターン。
 手渡されていた箱の中に、確かにサングラスがひとつ残ってはいるけども。
「これも真っ黒」
 持ち上げたこれも、レンズもツルも真っ黒け。俺、正直顔面くらいしか肌色面積無いんだけど、サングラスかけたらもっと面積狭まるよ? 大丈夫? なんか逆に怪しくないですかね?
「か、かけました……」
 恥ずかしいな、サングラスなんてかけたことねーよ。
 しかし、そんな恥ずかしがりつつ照れくさそうにしつつ、かつちょっとカッコつけ気分な俺を一切気にしないメイドさんは、淡々と「鍵をおかけください」を俺へ刺した。
 虚しさ吹き荒ぶ胸の内をゴシゴシして、鍵をガチャリ。スーツの胸の内ポケットに忍ばせて、準備完了。
「では、お車までご案内いたします」
「あの」
「はい」
「俺、どなたのSPするんですかね」
「お聞き及びでない?」
「へ? え、あぁ、まあ」
 親父から訊いとくのを忘れていたボケボケの俺も悪いけど、それより教え忘れた親父もボケボケかよ、と内心で舌打ち。
「当お屋敷のご令嬢にございます」
「ごっ、ゴレイジョー」
「はい。雅やかでお優しいお嬢様でございます」
 そんな風にメイドさんに微笑まれた俺は、「だから真面目に護衛しろよ」と凄まれたような気持ちになった。
 聞いてねぇよ、こんなの!