昼休みが終わって間もなく、教室に一人で戻ってきた敬斗くんを見つけて、私――鴨重紗良は彼にギッギッとぎこちなさと葛藤しながらどうにか歩み寄った。
 深呼吸を散々してたら伊達ちゃんに「過呼吸かよ」と笑われたけど、そうでもしないといられないくらい緊張するもん。ただでさえ敬斗くんは推しだし、片想いの相手だし、ケンカしてしまった後だし、だからほら、気まずさとかいろいろあるじゃない?
 席についてどっかりと座った敬斗くんを見て、ちょっとだけ肩を跳ね上げてしまった。びっくりした……こんなに乱暴に座る敬斗くんは初めて見たから。
 ていうかこれ、いま話しかけていいの? むっちゃ機嫌悪くない? やだぁ、推しだけどめんどくさい……あ、いやいや、『めんどくさい私』に敬斗くんはいつもいつも付き合ってくれるんだから。私だって、敬斗くんに向き合わなくちゃいけなくないですか?
 ていうか、推しでこんなに悩めるのなんて、乙女ゲーム的に言えば『和泉敬斗ルート中盤』とかなのでは?! そろそろ一枚絵(スチル)イベントくるんじゃない? きっとそうだよ、うん! ほら、テンション上げてこう、鴨重紗良! 二か月前までの私にとっての敬斗くんは、視界に入るだけですべて特典一枚絵(スチル)だったじゃない!
「けえっ、敬っ、斗く、んっ」
 最っ悪。失敗した。わーもう前回分のセーブデータからやり直したいよう!
「かあっ、か、お嬢……鴨、おじ、えっと、鴨重」
 なんか、めちゃくちゃいろんな呼び方模索されている気がする。どぎまぎしてしまうのは私だけじゃないとわかって、ちょっとだけほっとしたような。
「あっあの、あーのその、朝は、その、ごむ、ごめんなさい。敬斗くんのこと、困らせたから」
 もじもじしていた手をほどいて、きちんと敬斗くんを向き直る。
「や、別にその」
「私、敬斗くんが言ってたこと、そのとおりだと思ったの」
「え?」
「ちゃんとパ――じゃなくて、お父様と話してみる。嫌なこと、ちゃんと言うから。だから――」
 笑って伝えたいのに、いびつになる頬。ビリビリとして、不自然になる。
「――だから今回は私、独りできちんとお見合いしてくる」
「え……」
 ど、どうして? どうして敬斗くんが、そんな難しい顔をするの?
 ツキツキする胸の奥。苦しい。やがてそれが逃げ場を探して、どんどん上がってくる。
「あの。私がちゃんと、自分独りで決着つけるから。勝手なワガママじゃなくて、『私の気持ちだってちゃんとあるんです』って」
「…………」
「自分の口で、言うんだからね?」
「…………」
 何とも答えてはもらえない。「そうかよ」とか「やめとけ」とか「ふぅん」とか。前なら小さくても相槌を打ってくれたはずなのに。

 もう、前とは違うのかな。
 私のこと、とんでもないワガママオジョーサマだと思ったかな?
 ひとまず伴侶に相応しいと思われるようなレベルの女の人にならなくちゃいけなかったのに、逆のことばっかりになっちゃったからかな。
 スタートラインにも立てない私に呆れちゃったかな。

 上がってきた苦しさは、涙点(涙の出口)から大きな粒になっていくつもこぼれ落ちた。あぁ、また泣き虫だと思われるかもしんない。マイナスポイントじゃん。
「いつ、どこで」
 締める言葉も見当たらないから、黙ってこのまま立ち去ろうと思ったとき、敬斗くんは低い声でそう訊いてきた。
「いつどこでやるんだよ、その見合い」
 やっと口開いたかと思ったらそれ? でも、気にしてくれてる、のかな。
 涙の陰に隠れて、私は戦場情報を呟く。
「枝、枝依中央ターミナル駅近くの、ホテル・ブルーダッキー。あれ、鴨重グループ(ウチ)の経営ホテル、だから」
「…………」
「そこの二五階っ、の、イタリアンレストランで。今週の土曜日、お昼一二時、から」
 拭えど拭えど、胸は苦しいままだし涙は止まらない。俯いている敬斗くんが何を思っているのか、ずっとわからない。
「なんで、その日のその時間なんだよ」
「え?」
 細く訊ねられたそれに、拭う手を止める。再び目の当たりにした敬斗くんは、えらく悲しげに見えた。やっぱりわからない、どうしてそんな顔をするの?
「行けないじゃん、俺っ」
「ど、どうして?」
「その日が、いままでずっと調整してきた試合なんだよっ」
「えっ?!」
 ウソ、なんてタイミング? じゃあSPを頼んだところで、どのみち断られてたってことじゃない。はじめから敬斗くんには、頼めなかったってことじゃない。
「な、何時から、どこで?」
「ウチのジムで、一〇時から、だけど……けど準備とか片付けとか、ホスト側がやんなきゃなんねーこともあるから、終了時間過ぎるの確定っつーか」
「そ、そう、なんだ」
 俯いて、視線を逸らした敬斗くんは、小さくかすかな舌打ちをした。
「しか、仕方ないよ。試合はずっと前から、決まってたもん。それに、そのために今、減量中じゃない」
「けど」
 ちょっと疲れて見えるのは、減量中だからもあるかもしれない。これ以上無理はかけられない。気丈にしてなくちゃ。
「大丈夫。お父様の黒服もついてくるだろうから、『護衛は間に合いますわ』」
 もう敬斗くんには、いつもみたいに軽い気持ちで居てほしい。私がしっかりしておかないと。
 敬斗くんの一番大事なボクシングの邪魔は出来ないし、一番したくない。だから、もう泣くのやめて笑っておかなくちゃ。
 私に目を向け直した敬斗くんへ、パーティー会場でよくやる笑み方をして見せる私。
「『だから、気にせず試合に臨んでください。よろしいですね』」
「鴨重、あのさ」
「『よろしいですね』?」
 敢えて強い口調で繰り返す。わずかに首を傾げて、口角はきちんと上げたままで。
 しばらくの後に、私からの視線を切って、敬斗くんは「……『かしこまりました』」と静かに頭を下げた。私はそれを見届けて、小さく会釈をしてからくるりと背を向けて、パーティーでの歩き方で自分の席へと戻っていく。
 お見合いに反対しているのは、マジで本気で私独りなんだ。土曜日の会場に集まる誰も、私に味方してはくれない。
「泣くな私。……泣かないのっ」
 私一人でこのくらいのことを処理できなくて、なにが令嬢よ。なにが後継ぎよ!
 きっとそういう試練なんだよね、神様、ご先祖様?