令嬢……いや、俺のSP対象の鴨重紗良が朝一番に涙を浮かべて、俺――和泉敬斗に謎の助けを乞い求めてきた。
 SP歴はまだなんやかんやで二か月程度だが、こんなコイツを見るのは初めてだ。だから即座にただごとではないとわかって、慌てて席を立った。まぁ、それに、その。泣いてるコイツを友人たち(ABCども)に見せるわけにはいかねーと思って。
 コイツのそういうとこ知ってるの、俺だけでいいだろ。
「……こん、せら……」
「あ?」
 つい、聞き取れず首を傾げる。『蚊の羽音のような』ってのはこういうことかも。そんくらい細くて揺れてて聞こえにくい。
 すうーと深く息を吸って、俺をまるで睨むように鋭く視線を刺した鴨重紗良。
「私、結婚させられちゃうかもしんない!」
「け、っけ、結婚んん?」
 ボロボロボロ、とあめ玉みたいな涙をこぼして、しまいにはワっとその場にしゃがみこんだ。顔を覆って、俯いてただ泣いている。
「今週中にぃ、ふぇっ、お見合いしてぇ、それで決めるって話でぇっ、うえぇ」
「お、お見合いィ?」
 まさかの「助けて」の内容が、結婚だの見合いだのって。なんか肩透かしを食らった気がして、壁に押し付けていた左腕が脱力。ダランとぶら下げると、コイツの右耳を危うく(かす)めた。やべ、アブね。
「決めるって、なに決めるんだ?」
「知らないわかんないっ。でも、高校卒業したらっ、し、進学とかもしないで、取引先の良さそうなとこへ嫁げるように、じゅ、準備始めるかもって、昨日っ、言われたのっ!」
「な、なんだそりゃ……」
「もーっ、いまどきありえなぁい! ふえーん!」
 まぁ、確かにコイツが『いまどき』って思うのもわかる。
 未成年のうちから嫁ぎ先だのなんだのを考えさせられるなんて、ぶっちゃけ古い考えだと俺個人は思う。社会のなにも知らないうちから、コイツをどこだかの家に『縛って』しまうんだろう? 恐らく。
 世間体もある。家の名前もある。なにより、鴨重紗良には『令嬢』という立場がある。一度嫁いでしまったら、きっと簡単には離婚など出来るわけもないだろうし。
 そこまで考えて、俺の中の何かの感情がぐるんと渦を巻いた。よくわからんが、なんか……とにかくなんだかすごくモヤる。
「と、とにかく、そんな泣くな。落ち着いて社長(オヤジさん)に『嫌だ』って言やぁいいことだろ?」
「言えたらこんな風に泣いてないもん」
 拭いながら、しかし語気の強い鴨重紗良。多分これがコイツの素なんだな? と、今はどうでいいようなことが簡単にわかってしまう。
「ンじゃあ、俺にどうせっつーんだよ」
「助けてよう」
「何から? どうやって?」
「わかんないよ。とにかく私はこれ以上お見合いなんかしたくないし、好きじゃない相手と結婚なんて論外! それだけっ」
 それ以前の話のような気もするが。
 ふぅ、と聞こえない程度の一息を吐き出し、なるべく声色は明るくして「あのなぁ」と静かに言葉を始める。
「確かに『お嬢様』の身を護るのが俺の役割だけど、それはあくまでも『外敵から肉体が(おびや)かされないように』の話でだな。家の中のこととかは俺の許容外だし」
「肉体が脅かされそうだもん」
「いや、まぁそ……ううーん」
 チクショウ、いつも返しが絶妙なんだよな、お嬢様。
「け、けどそこは、俺の介入できるとこじゃねぇっつーかさ」
「…………」
 俯いたままのコイツにかける言葉を探して、あーでもないこーでもないと頭を働かせる。
「敬斗くんは――」
 乱暴に目元を拭う、鴨重紗良。しゃがんだ姿勢のまま、上目に俺を見つめてくる。
「――私がどうなっても、平気なの?」
「う」
 潤んだ瞳がいつになく頼りなくて、儚げだ。不安感がバシバシと伝わる。相当重大なことを突きつけられたんだろうことは、コイツのこの表情から誰だってわかることだろう。
 でも……でもな、お嬢様。
「『申し訳ございません』」
 そっと手を片方ずつ取って、立ち上がらせる。
「『鴨重家に関する問題は、たかがSPの(わたくし)めが介入できるものではございません』」
「…………」
「『この件の決定権や意見具申は、社長とご夫人と、ご令嬢のあなた様にのみ存在しております。おわかり、いただけますか』」
 そう。たかだかSPの、それもいち高校生のご身分の俺が、社長令嬢である鴨重紗良のお見合いや結婚に対して何を言えるわけでもないし、言っていいわけもない。
 それに、いくら温厚で理解あるあの社長(オヤジさん)とはいえ、一七歳ぽっちのクソガキのが首突っ込んでくるなんて、とんだ場違いだとか立場がどうたらとか思うんじゃないだろうか。俺が社長なら、きっと思う。
「…………」
「…………」
 互いの詰めた眉間を向かい合わせに、しばらくそこに沈黙が続いた。巡る想いや言いたい言葉は山のようにあるのに、しかしどれもが言葉として排出するにふさわしくない。
「『わかりました』」
 細く呟いた鴨重紗良は、俺から視線を逸らし、瞼に陰を落とした。
「もしかしたら、敬斗くんならなんとかしてくれるかもって思ったの。でも、それは私が変だった。そんなの、だいぶ図々しいことだった」
「いや、だからそれは……」
 コイツにそんな自嘲(じちょう)の言葉を言わせたかったわけじゃない。だが、鴨重紗良はなかなかに頑固だ。こうと決めたら意見を聞かずに、勝手に突き進んでしまう。
「困らせて、ごめんなさい」
「あのな、だから」
 ほらな。俺の手をスルリと振りほどいてしまった。
「鴨重っ」
 俺を一瞥もせずに、令嬢は教室へ戻っていく。
「あー、もうっ」
 ホントに融通きかねぇな。たとえば『なんか対策を一緒に練ってくれる?』だとか、そういうことは言えねぇのか。まぁ俺も同様にそういうことは言ってやれねぇのかってセルフツッコミで両成敗しとくけどさ。
「チクショウ」
 歯痒さばかりが奥歯に沁みて、ザリザリと襟足を掻き上げる。
「大体、お前のことで嫉妬していい位置にすら居られてねぇんだよ、俺は」