放課後から四時間後。鴨重社長がお呼ばれしている食事会が(とどこお)りなく進んでいく。同席している令嬢は万事(ばんじ)に対し(おく)することなく、丁寧に接している。
 令嬢独特の優雅で凛とした笑み。伸びた背筋、揃え続けている両脚。食事マナーに、当たり前以上の配慮。令嬢はそれらを完璧に(しつ)けられているだけでなく、すっかりみずからのものとし、とても気楽に動いているように、俺――和泉敬斗には見えている。
「一度失礼いたします」
 フレンチフルコースのテーブルマナーなんて、俺は知らない。そういう点で言っても、鴨重紗良と俺は住む世界がそもそも違うんだと見せつけられるような……って、令嬢が席を立っている。先に扉開けとかねーと。
 慌てて動き出した俺だが、令嬢の視線が突き刺さる。う、ここは『お上品』にいかねぇとだな。俺のツマンねーミスのせいでこの場を台無しにするわけにもいかん。
 改めて背筋を正し、静かに深呼吸。足音をなるべくたてないように気を配って歩き、令嬢よりも早く扉に手をかけ、引き開ける。
「『お待たせいたしました、お嬢様』」
「ありがとう」
 音を立てないように注意しながら扉を閉める。フゥー、一家対一家(タイマン)の食事会なんて息が詰まりそうだ。俺がタイマンやるなら、四角いリングの中が一番いい。
「そこ段差あるから『お気を付けください、お嬢様』」
「は、ハイ」
 なぜか必須装備になっている黒レンズサングラスを左手で外して、胸元へスルリ。その手をそのまま差し延べれば、令嬢は右手を預けてきた。あれ、熱い。ほんのり汗ばんでいるような気もする。
「もしかして『緊張していらっしゃいますか? この会食』」
「えっ?! とっ。す、少しだけね、少しだけっ」
 段差クリア。そっと手を離す令嬢。
「初めてお会いする方だし、お顔とお名前とどんな経営内容だとか、覚えておかないといけないし」
 そう言い残して、高級そうなカーペット敷きの廊下をそそくさと行ってしまう。俺は黙って二歩後ろからついていく。
「別にお父様から覚えなさいとか言われてるわけじゃないけど、私が社長の立場だったら、できるだけたくさんの人のことを覚えておきたいと思ってるっていうか」
 へぇ、なるほどね。やっぱり今回も、ただのんびりとフレンチフルコースを堪能しているわけでもない、と。
「それより敬斗くん。お腹空いてるでしょ?」
「え?」
「私たちばっかり食べてごめんね。ただ後ろに立って、食べてるとこ眺めさせてるし」
 令嬢は半身を振り返って、眉をハの字にした。会食中に俺にまで気ィ使わなくたって。
「別に。どのみち減量中だからダイジョブ」
「この前みたく、人数もたくさんいる立食ならパンくらいくすねられるんだけど」
「クフッ! 平気平気。『お嬢様は(わたくし)めに構わず、どうぞご会食に集中なさってくださいませ』」
 俺が勝手に取り決めた『SP語』で話すと、令嬢はいつも耳やら頬を赤く染める。口を引き結んで、ピキンと緊張するわけだ。この反応を楽しんでるところもあるから、わざとSP語で詰め寄るときもある。さっきの帰り際みたいに。
 令嬢が一言二言残しトイレへ消えていったので、大人しく入口付近で待つ。腕組みでもしたいところだが、どこから誰に見られているともわからない。直立の正しい姿勢で突っ立っているワケだ。
「さっきの帰り際のやつ、な……」
 鴨重は確か、「敬斗の伴侶に相応しいと思ってもらえるよう、限りない努力を行えばよろしいわけですわね」とかなんとか言ってニコニコしていた。だがアイツは盛大な勘違いをしていると思う。だってそれってつまり、『俺の』伴侶候補に名乗り出たってことになっちまわねぇ? って思ってる俺です。
「どんな解釈したらそーなるんだ」
 まさか俺と『そう』なってもいい、なぁんて思っているわけでもあるまいに。アイツに限って。うん? うん、アイツに限って。うん。
「…………」
 意外と大きめでつぶらな瞳とか。血色良くて柔そうな頬とか、唇とか。
 つつくと精一杯で返してくる反応(リアクション)とか。案外簡単には折れないし(くじ)けないメンタルとか。
 結構な百面相で飽きなかったり。尊敬できるとこ、日に日に出てきたり。
抱き上げたときにびっくりしたのは、ウエストの引き締まり具合だったり。笑うと、かわいいなぁと、思わなくもなかったり――。
「――お待たせ」
「ぶわっ!」
 本物! 背後から声かけられてビビり倒す俺。滅多に背後(バック)は取られないのに。
「ど、ご、めんなさい、驚かした?」
「いっいやあのっ、だっ、か、考えごと……」
 スーハースーハーで調えて、「すみませんでした」と一礼。
「ホント? なら、いいんだけど」
 うん。真正面から見たら、コイツ結構かわいいんだよ。今だって随分な美じ――って! 俺は一体何を……。
「まっまま『参りましょうか』っ」
 ヤバい。気にし始めたら俺の顔面どうにかなりそう。まともにコイツの顔見られん。
ん? 待てよ。
 顔が見られないってのは、『恥ずかしいから』であって。じゃなんで恥ずかしいかってと、かわいいとか意識しちゃってっからであって。ってことは。やっぱり。
「ぐぬ」
 右掌で覆う俺の顔面。マジにもしかして、もしかしねぇ?!
「敬斗くん、ホントに大丈夫?」
 不意に引かれる左腕。ほに、とうっかりわずかに令嬢の胸元の柔いところに触れてしまった、罪深き俺の左肘。
「だあっだ、だっダイジョブ! ダイジョブだからっ」
「そ、そう? 無理しないでね、きっと減量中ってことは、食べてない、てことだよね? だから……」
「げっ、減量は、関係ないからっ。うんっ」
 なんとなく慌てて引き抜く、俺の罪深き左腕。んおお、なんだなんだ。突然意識づいて、なんかの感情がキテる。ヤバい気が、しなくもないこともないかもしれない。
「は、早く戻ンねーと、『社長がご心配なさりますよ』」
 裏返る声をようやっと落ち着けて、令嬢の顔からちょっとだけ視線を外しておく。触れられたとこ、不意にだが触れたとこ。なぜか「もうちょっと触れたい」とか思ってしまうのは、俺が一時的にどうにかなってるからだろうか。
「お、お手を、どうぞ」
 ダメだとわかってるけど、触れられたいし触れたい下心を(ともな)って左手を差し出す。胸から喉にかけてピリピリゾワゾワと高鳴るなにか。笑顔もぎこちないと思うが現在もうこれ以上の笑顔にはなれませんッ!
「あ、ありがと……」
 遠慮がちに、そっと右手をかける令嬢。ぐぅ、すべすべしてる。小さい。細い。俺の握力で握ったら大変なことになりそうだってことはわかる。で、下心で手を繋いだら、信じらんねーくらい心臓のバクバクが耳にこびりついた。
 まさか、もしや、もしかして。鴨重は普段からこんな気持ちなんだろうか――そんな風に錯覚してしまうほどに、俺は鴨重紗良を別角度から見始めていた。