「美学、そして恋。」
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藤野香織_主人公/輪廻のバーテンダー
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彼_香織の元彼/行方不明
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川瀬綾花_香織の友達/毎日雑誌の編集者
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日向翔也_綾花の元彼
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早瀬凛_輪廻のバーテンダー、店主
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目次

プロローグ
一つ目 紅葉の季節
二つ目 哀恋の季節
三つ目 美学の季節
エピローグ
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プロローグ

もう枯れて、と嫌がっていた恋があった。
紅葉は落ち葉となる。そういう恋を、当時の私はしていた。
とある日の夜、彼は私の部屋に来ていた。当時は東京に来て間もない時期だったけど、バイトもしていたし、親からもお金を貰っていたので私の東京での生活は順調だった。
彼とは大学の頃に出会った。
とても自然に、互いに引き合うように私たちは恋人になった。私は幸せだった。
最近、彼が私に会う度に言う言葉がある。
「暇だね」って、とても丁寧に言ってくるんだ。恋人の私と居るのが辛い、ということなんだろうか。
彼に一度だけ聞いてみたけど、その時に彼はこう言った。
「いや、お前のことは好きなんだ。でもちょっと暇なんだよな。何かが欠けている気がするんだ。」
何かって何よって聞こうとする私の口を、私が止めた。だってそれを聞いてももっと悲惨になるだけだと思ったから。知らない方がいいと思った。
あの日もそうだった。彼は暇だって言ってくるんだ。私はそれに嫌気がさしているところだった。
何度も別れを切り出そうとしていた。その度に私の心は、私の口を塞いだ。そしてこう叫んだ。
「まだ好きなんでしょう?」
その通りだった。まだ好きだけど、そのことに嫌気がさしているだけだった。
紅葉を狩る。それを思いついたのはどうしてだろう。今ではよく覚えていない。
でも当時、付き合っていた彼とはもうあの日以来会っていないし、これからも会う予定はない。
彼はまだ行方不明だそうだ。私がやらかしたことではない。そう、違うんだ。
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一つ目 紅葉の季節

紅葉の季節だ。私の季節、だと私は勝手に呼んでいる。元カレと別れて丁度一年になる。
彼は未だに行方不明、ということになっている。何処にいるかは私も分からない。
「おーい、藤野!」
遠くから聞こえる呼び声。多分あいつなんだろう。そう思って振り向くと、そこには予想通りの人が駆け足で近づいてくる。
川瀬綾花。私の友達だ。私が信頼している、数少ない人でもある。
「おはよう、綾花」
私はそう言って、手を振る。その声が届いたかどうかは知らない。
「え? なんて言ったの?」
どうやら聞こえていなかったようだ。綾花は今、私の目の前にいる。
「聞こえていなかったなら別にいいよ。挨拶しただけだから。」
私はそう言って、スマホで時刻を確認する。
まだ8時半だ。まだ大丈夫。私は安心しながら言った。
「そういえば、こんなに余裕のある出勤って久々だね。」
「確かにそうねー。」
私は今、とある雑誌の編集部で仕事をしている。綾花と会ったのも、この雑誌社である。
漠然と思っていたファッションの世界。その現場で働き始めてから、私自身も前よりもっとオシャレになっていく気がする。気のせいかもだけど。
紅葉を狩る、その前日のことだ。
彼は私に「もう別れよう」って言った。
とても衝撃的なその言葉の後に、何が起こったかはよく覚えていない。
一つだけ言えるのは、その後から彼は行方不明になったということだ。
私はその日、何が起こったのかはよく知らない。でも私はこう思った。「いい気味だ」って。
私の職場である、毎日雑誌はとても自由な職場として有名だ。私もその雰囲気が気に入っている。
綾花は、私が入社する前からそこで働いていた。同い歳で性格も似ていることから、私たちはすぐに友達になった。今でもかけがえのない友達だと思っている。
「香織はさ。最後の恋人って覚えてる?」
綾花が突然、そのことを聞いてきたことがある。
あの時は「覚えてないな」って答えてしまった。彼のことを言ってしまうと、聞き返してくることは間違いなかったから。
綾花はそれ以上の追求はしていない。多分どんなに聞いても私が答えないと思ったからなんだろう。
本当はよく覚えている。忘れられるはずがなかった。あんなに好きになるのは、もう私の人生ではないと確かに言える。
今日も定時、6時になって私は会社を後にする。そういう所もこの雑誌社の長所だ。
久々に綾花と居酒屋に行った。今日は金曜日でもあるから、今週のストレスを一気に消したいと思いだった。
綾花も結構溜まっているに違いない。
「やっぱりあの編集長のことは好きになれないや。」
綾花がそう言った。私も同感だ。
普段はとても優しいのに、仕事になったら一気に厳しくなる。そのせいで私たちは、その編集長が満足するまで仕事をやらされている。
まあ、その業界では当たり前だけど、でも好きになれないのも仕方ないと思う。
そうやって話をしているとすぐに夜になる。黄金色の一日はすぐに深い闇に包まれる。

翌日、土曜日になった。やっとの休日に、不安と期待を抱いている。
綾花から連絡があった。今から会わないかって言われた。特に予定はなかったし、暇だったから会うことにした。
約束の場所は、とあるカフェだった。
そして今はそのカフェで綾花を待っている。
昨日の影響で二日酔いがあるけど、それはいつもの事だし、私は気にしないようにしている。
綾花は私と違って、お酒を飲みすぎた日でも二日酔いはない。そういうところが羨ましいと、いつも思っている。
私は、私の目の前にある桃のアイスティーを一口飲んだ。仄かな桃の香りが、とても心地よい。二日酔いの私には、有り難い甘さだった。
昨日の夜、恋愛相談をされた。それも綾花からだ。まあ、恋愛相談と言っても別れる別れないの話だ。
綾花は、もう1年ぐらい付き合っている彼がいる。でも最近は喧嘩ばかりで彼と会っても、残るのはストレスだけだと愚痴を言っている。
私は、昔の彼を思い出す。別れたがったあの人。今は元気かな。
「ごめん、待った?」
そう言いながら、綾花は私の方へ来る。私は言う。
「まあ、いいよ。私も暇だったし。」

眩しい日差しに照らされる、優しい昼間のカフェに私たちは集まっている。
昨日のストレスも、昨日の二日酔いもどんどん薄れて行く。
綾花は言う。
「それにしても、あんたはあの頃と全く変わってないね。二日酔いが酷いのも。」
それは確かにそうだ。ついさっきまで二日酔いで苦労してたし。
「まあ、そうだね。どんなに飲んでも二日酔いはしない綾花が羨ましいよ。」
「この前は焼酎三本くらい飲んだけど、次の日に起きて何ともなくて、私もびっくりしたんだよねー。」
お酒を飲んだ次の日に会ったせいか最初の話題は自然とお酒の話になった。
今日だけはこんな感じで休もう。そして来週から頑張ろう。

「そういえば、あんたは恋愛とかしないの?」
ちょっと敏感な話題である。どう答えればいいのだろうか。私がそう悩んでいると、申し訳そうに綾花は言う。
「あ、ごめん。」
「別にいいよ。私もそろそろ新しい人見つけたいと思っていたからさ。」
それは本心だ。いつまでも過去に縋っているわけにはいかない。だから探すんだ。新たな恋を。
「その方がいいよ。その内に忘れるよ、昔の恋なんてさ。」
綾花のその言葉に、私はその通りだと思った。
「綾花はあれからどうなの?」
「まあ、いつも通りの喧嘩の日々だよ。」
寂しそうに、綾花は言う。
私は暗い話題を余計に話してしまったと思い、
「私もごめん。こんな話題、話すんじゃなかった。」と言った。
綾花は、
「これでお相こ、ということで。」
「そうだね。」
こういう所が、綾花のいい所だ。どんな暗い話題も、愉快に流してしまう。
だから私は綾花と話していると、どんな暗い感情も消えてしまうような気がする。
「っていうか、綾花は紅葉好きなの?」
私の予想外の言葉に、少し不思議そうな視線を送る。まあ、仕方ない。
「私は、そうだな。好きだよ。」
綾花はそう言う。綾花は紅葉の人か。別にいいけとさ。
「私は嫌いだよ。あの人が思い浮かぶから。」
急に雰囲気は変わる。主に私のせいだった。
綾花は今でも、笑顔で言う。
「何それ、じゃあ、秋も嫌いだってことー?」
「そういうことに、なるかな。」
私は寂しそうな笑みを浮かべる。実際にそうだ。いきなりの寂しさに、心は涙を流している。
「でも、好きだよ。嫌いだけど好き。それが本心なんだ。」
その言葉は、私に言いかけているものでもあった。そう、彼のことは嫌いだけど好きって気持ちもまだ残っている。
恋は不思議だ。いつだってそうだ。

色んな話が行き交う中、いきなり綾花が言い出したことがある。
「今の彼氏のことも好きだけど、他に好きな人が出来ちゃった。」
それは自然なことだ。永遠に続く恋なんて、そんなのは幻に過ぎない。彼もそうだったから。
だから私は、
「それは別におかしなことではないと思うよ。」と言ってやった。
綾花は少し安心したような顔をしていた。
「やっぱりそうだよね。最近は喧嘩ばかりだったし、別れた方がいいのかなって思っているしさ。」
別にそんな意図で言ったわけじゃないけど、喧嘩ばかりで、自分が幸せじゃないなら別れるのもいい選択だと思う。
彼のことを思い出した。
恋の話をすると、彼のことがその度に思い浮かぶんだ。
どんなに否定しても、彼のことが素敵な人だったということは変わりないのだから。
空っぽの心に幸せを注ぎ込まれる、そんな恋をしていた。
今の私には遠すぎる恋だ。今の私が、あんな風に彼のことを愛せるかな。多分できないと思う。
だから思い出のままにしておくのが良いと思うんだ。彼との恋はもう終わったんだ。
「今日はありがとうね。」
その言葉を残し、私とは真逆の方に行く綾花の背中を見ながら私は携帯の時計を見る。現在の時刻は19時。中途半端な時刻だ。
また綾花のことは呼べないし、その彼氏さんに話を聞けるなら良いけどなー。
そんなことを思いながら、私は帰路に着いた。コツコツと、最近買ったばかりの赤いハイヒールが一定のリズムで音を立てている。
心が落ち着く音、だと思った。
風はやけに冷たい。九月の風は、まるで何かを伝えようとしているようだ。別れとか。
今日は異常なほど疲れが溜まっている。家に帰ったら、すぐにでもシャワーを浴びて寝よう。

「もしかして、藤野さんですか。」
後ろから、私を呼ぶ声がする。誰だろう。見慣れないその声に戸惑いながら、ゆっくりと振り向く。
そこには、男の人が一人立っていた。未だにその正体は知らないままだった。私は恐る恐る口を開く。
「え、誰ですか。私のこと、知ってるんですか。」
「僕は知ってますよ。綾花に写真見せてもらったこともあります。」
その言葉で私は気づいた。その人が、ついさっきまで一緒にいた綾花の恋人だってことを。
私は最後に確信を得るために、彼に訊いた。
「あなたは川瀬綾花の恋人、なんですか。」
「はい、そうですよ。」
やっぱりそうだ。私はようやく、今まであった警戒心を解くことができた。
「って、こんな所で何してるんですか。」
私は純粋に気になった。
彼は笑みを浮かべて、
「ただの散歩ですよ。」と答えた。
ただの散歩、か。本当かな。どこか怪しげに見える彼の顔。私は不安になる。
「それじゃあ私はもう行きますね。」
私はそう言って、その場を離れようとした。でもその時、彼はこう言った。
「ちょっと待ってください。」
今までとは雰囲気が違う。異常なほどの冷たさで、彼は言った。
「私に何かご用ですか。」
「ちょっと話したいことが、あります。」
近くの公園に、私と彼はいる。彼の名は日向翔也だそうだ。日向と私。不思議な組み合わせ、だと思った。
友達の恋人なんだし、こうやって会うのは普通かもしれない。でも私たちは二人きりなのだ。
そんなことはないと思うけど、もしこのままいけないことをしても私たちが言わなければバレないだろう。
私は言う。
「話したいことって、何ですか。」
「あ、綾花のことです。もし良かったら、タメ口で良いですか?」
タメ口か。私としてはまだそういう段階ではないと思う。
「今のままが良いです。タメ口はもっと親しくなってからにしましょう。」
彼は残念そうな顔をした。そんなにタメ口で話がしたかったのかな。
「はい、分かりました。それじゃあ、話の続きをしても良いですか。」
「はい、どうぞ。」

相談の内容は、簡単に言えば綾花との関係についての相談だった。
彼の話によると綾花とは最近は喧嘩ばかりしていて、彼はもっと穏便に過ごしたいけど、どうすればいいか分からない。つまりその方法を教えて欲しい、とのことだった。
ふん、難しいなと思いながら私は言う。
「まあ、思い浮かぶのは話し合うとかですかね。」
急にそんなこと言われても困る。それが率直な、彼の相談に対する私の感想だった。真面目に相談に乗るつもりだけどさ。
「何度も話し合ったことはあります。でも和解したと思えば、直ぐに喧嘩をしてしまうんです。僕はもうどうしたらいいか分からないんです。」
とても悩ましい相談だな。私がその当事者だったとしても、こんな風に悩んでいたと思う。
「それでも話し合うしかないと思います。一度でダメなら、何回でもやるしかないです。」
それが今の私が思う、最善の策だ。
彼は少し悩んで、
「まあ、分かりました。急にこんなことを聞いて、すみませんでした。」と言った。
顔は確かに、申し訳なさそうな顔をしていた。
私は言う。
「まあ、私も暇だったので別にいいです。他に話がないなら、私はもう行きますね。」
「はい、僕ももう帰ります。それじゃあ。」
そう言い残して、彼は公園を後にした。

今日はやけに疲れたな。そう思いながら、ベッドに横になる。そして考える。
彼の初印象は、悪くなかった。むしろ良い人だと思った。綾花とのことも、きっと上手く行くはず。
夜の公園で、一晩の経験。それだけで彼の全部を知ることはできないと思う。
でも私は、私の直感を信じることにしたんだ。もし裏切られても、それは仕方のないことだって分かるから。
そんなことを考えていると、綾花から連絡があった。
「もしもし、どうしたの?」
「あんた、彼に会ったの?」
問い詰めるように、綾花は言う。私は素直に答えることにした。
「うん、会ったよ。もちろん偶然に会ったけどさ。」
「そう。なら良かったけど。」
どうやら綾花は、私に嫉妬してしまったようだ。どうしてその考えに至ったのかは知らない。
「もしかして、私に嫉妬したの?」
「そ、そんなわけないじゃん。ただ聞いてみただけよ。」
これは図星だな。私は口には出さなかったが、そう思った。
それからの会話はとてもスムーズに、まるで波のように流れる。
「私が直接会ってみて感じたのは、悪い人って感じではなかったってことかな。むしろいい人に見えたよ。」
「根はいい人なのよ。だから付き合い始めたけどさ。どうしてこんな風になったんだろう。」
綾花はそう言って、ため息をする。複雑な感情が混ざり合ったものだ。
「私が思うのはただの誤解の重ね合わせ、なんじゃないの?」
「それもあるけど、それだけじゃない気がする。」
綾花が言うなら多分そうだろうけど、どうして喧嘩が増えたのかは会話が終わっても、私には分からなかった。
恋って、本当に複雑だ。
どれだけ仲が良くても、結局は喧嘩が増える時期がやってくる。その時期を乗り越えればそのカップルは長く続くけど、そのまま破局になるカップルも多い。
その分かれ道に、綾花は立っている。彼もまたそうだ。
その解は人それぞれで、私にもその解を知るのはとても難しいんだ。

私と彼の間に起こる喧嘩は、とても些細なことがきっかけになることが多い。
付き合って一ヶ月が経ったある日のことだ。
私は彼の部屋に来ていた。その日は土曜日で普段はバイトで忙しい彼だけど、週末だけはこうやってゆっくりと彼との時間を送れる。
彼は言う。
「さっきから気になっていたけど、あれは何?」
私は彼の指さす方を見る。そこには男の友達に借りた、映画のDVDが置いてあった。
私は言う。
「あ、あれはね、友達から借りたの。映画のサブスクとかで探したけど無くて、友達に聞いたらDVDがあるって言うからちょっとの間だけ借りたの。一緒に見る?」
彼の顔は一気に険悪になる。彼は言う。
「その友達って男の人?」
私は雰囲気がどんどん険悪になっていくのを感じた。私は慌てて、私の無実を訴える。
「あなたが思っているようなことはないよ。浮気なんかしないから。」
「嘘だろ、それ。」

それが一つのきっかけになり、私たちは喧嘩をした。結局、私の無実を彼が信じてくれて丸く収まった。
でも丸く治まっても、私の心にはまだ癒せない傷があった。高圧的な彼の態度に、嫌気がさす。
でもあんなに彼のことを思っていたことを思い出し、私が我慢するようにしていた。
でも彼が行方不明になる直前になると、私のその心はもう傷だらけになっていたんだ。だから私は。

夢の続きを、見たいと思った。彼との記憶を、未だに忘れられずにいる私は明らかに矛盾している。
彼のことは嫌いだ。高圧的だし、束縛は激しい。でもそんな彼を、私は確かに好きだった。それは確かだ。
いつから歪んでしまったのだろうか。

日曜日の朝、私は久々に映画を見たいと思った。
「ラブストーリー」という、とてもシンプルな題名の映画だ。彼はそういう映画は苦手だって言っていたけど、私が見たいと言えば一緒に見てくれた。その一つが、この映画だ。
今はもう私にとっては彼、そのものになった映画だ。久しぶりに見る、思い出の映画はどんな感じなんだろう。私は泣いてしまうかな。
結局、二時間の映画を一気に見てしまった。私の心は、別れた直後よりも平然としていた。やっぱり人間は時間が経てば慣れるもんだな、って思った。
その後は、ぐっすり眠った。この感情を忘れたくないと思った。突発的な感情だ。

私が目覚めたのは、深夜零時だった。とても中途半端だな。私は眠気を払うべく、シャワーを浴びた。どうしても日記で残したいと思った。この感情を。
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日記① 感情の話

久々に書きます。
本当は書きたくはありませんでした。日記を書いてると彼のことがどんどん浮かんでくるから、私は日記を書くのをやめていました。
ですが、今は何故かこの感情を書き留めたいと思っています。遠い未来。未来の私がこれを見てどう思うのか、私はとても気になります。それじゃあ、始めます。
これは感情の話です。

私には当時、付き合っている彼が居ました。
もう一年前の話ですが、今でも時々思い出しては複雑な気持ちになります。
当時の私は、どっちかって言うと嫌いな方でした。
束縛は激しいし、高圧的な彼の態度に嫌気がさしている所でした。
そんな彼が、突然いなくなったのです。行方不明です。

それからは、現実のようで夢のような日々を過ごしていました。
まだその悲しみを忘れられずにいた私は、必死に忘れようと大学の勉強をもっと頑張ったり、就活も私なりに頑張っていました。
その結果私は今の職場である、毎日雑誌に就職することになりました。

あれから数年が経った今、私は思います。
嫌いだったけど好きだってことを、気づいてしまったのです。
もう何もかも手遅れですが、もし彼にもう一度だけ会えるのなら伝えたいのです。この気持ちを。
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「おはようございます!」
私は出社し、そう挨拶する。私は自分の席に座る。また、編集者としての日々が始まる。
今日は新たな企画の会議がある日だ。企画が通ると良いな。
私が働く毎日雑誌は、他にもいろいろあるけど私が担当するのはファッション雑誌だ。
ファッションに、モデルの人といったプロの方には及ばないかもだけどある程度の興味と、服のセンスだってある方だと思う。

初めて、この雑誌社に入社したことを思い出す。
私の中で漠然と思っていた、編集部での仕事。もちろんその前に、編集プロダクションで経験を積んでから、私は今の雑誌社に申し込んだ。
最初の一年は、本当に大変だった。
仕事の内容は編集プロダクションで経験した、その通りの手順で行われる。
それでも一つの編集部で働くのは不安と期待が同時にあった。でも実際に編集部で働いてみて思ったのは、仕事は大変だけどやり甲斐もある仕事なんだとということだ。
仕事でミスをして、編集長に怒られたりもした。
その度に編集長の説教を聞かないといけないけど、その積み重ねがあったから今の私がいるんだと私は信じている。
もっとクオリティーの高いものを書かないといけない。
そんなプレッシャーに、押しつぶされていた新人の私は毎日がまるで地獄のようだった。
本当の地獄ではないが、それよりもっとタチが悪い。

今は入稿前の、一番忙しい時期だ。
私はむしろ、この忙しさが心地よかった。ちゃんと働いているんだ、頑張っているんだって思えるから。
でも残業続きの毎日は、どうしても疲れが溜まってしまう。何もかも終わったら一休みしよう。
昼になった。ご飯を食べながら、仕事の考えはするけどとりあえずの休息である。
綾花は言う。
「あんたのとこも忙しいよね。うちも大変だよー。」
「忙しいのは、どこも一緒でしょう。なら黙々と頑張るしかないじゃん。」
「本当、真面目だよねー。」
綾花はそう言って、カップ麺を啜る。いつもカップ麺を食べてお腹がいっぱいになるのかな。
「急に気になったけど、それ食べてお腹はいっぱいになるの?」
綾花は私の方を向いて、
「そんなわけないじゃん。ただの節約さ。」と呟いた。
やっぱりそうか。そうじゃないとおかしいと思った。
「でもいきなり節約って、何か買いたいものでもある?」
「私の彼が誕生日さー。」
そうか。彼の誕生日のプレゼントのためか。

会社で目が覚めて、私はすぐに顔を洗う。もう仕事しなくちゃ。
自分の席に座り、パソコンの画面を見ながら作業をする。
1ページずつ捲る度、色々なことが浮かぶ。仕事のこともそうだし、綾花の恋愛のことも少し気になっている。
入社したての頃に見ていた浅い夢はもう、険しい現実の壁にぶつかり跡形もなく消えてしまった。
機械的に繰り返すだけの作業に心が折れそうになるけどあと少し、って自分に言い聞かせながら、文字を打つその手をやめない。
休憩の時間になり、私は少し仮眠を摂ることにした。お腹も空いたけど、まずはこの眠気をどうにかしないといけないと思った。
隣で喋り声が聞こえる。そっと耳を澄ませる。
「香織さんって、彼氏いんのかな。」
自分の名前が出て、びっくりした私はさらに耳を傾ける。
「ないだろ。あんなに仕事熱心な、香織さんなんだしさー。」
「そうか。さすがにそうだよな。」
そういう話を聞いた。まあ彼氏はいないけど、その話題に私の名前が出るのはそんなにいい気分じゃなかった。
忙しく働くその勇姿を、私だけは見ている。自分のことだからね。
いつもの如く、深夜零時になる。どうしてもお腹が空いたので、近くのコンビニでカップ麺を啜る。私も、少しは節約しないとね。
次の日の朝、最後のチェックが終わった。これで私の仕事は終わりだ。今まで頑張った私、お疲れ様。
数週間の会社での暮らしも今日で終わり、というわけだ。綾花とお酒でも飲みたいな。その前にまずは、次の企画でも考えてみようかな。

その日の夜、私は綾花と共に居酒屋に来ていた。仕事の疲れを取るためだ。
「それじゃあ、かんぱーい!」
私はそう言って、私が頼んだ麦酒を飲む。仕事終わりの麦酒は、やっぱり美味しいな。
綾花は言う。
「香織、お疲れ様!」
「ありがとう、綾花。でもあんたも頑張ったんでしょう?」
「そりゃあ、そうだけどさ。」
綾花はそう言って、照れ臭そうな顔をしていた。
本当によく頑張った、って私は心の中で思った。
「香織は次の企画、もう考えてるの?」
「今日の所はちょっと休みたいかな。」
「そうたよねー。」
綾花は、そう言って日本酒を飲む。
私は考える。確かにやり甲斐はある。だけど本当に私がやりたい仕事なのかな。分からない。
「綾花はさ。編集部での仕事は楽しい?」
「まあ楽しい時もあるし、辛い時もある。でもどんな仕事でも、それは変わらない。ならもっと楽しまないと、って思う。」
真面目な口調で、綾花は言う。その通り、だと私は思った。

綾花の恋は、喧嘩はあっても絶縁はない。私の恋は、後悔が残るだけだった。
綾花のことが羨ましくなる、一つの場面だった。
彼の名はもう忘れてしまった。向き合うべきだと思い、私は穏やかな午後のリビングで彼との記憶を振り返っている。
楽しかったことが思い浮かぶんだ。それと同時に、恋が終わりに近づくほどに濃くなる「疎遠」の香りに私の心は折れそうになる。
まだ悲しいんだ。そう思った。
だから綾花の恋はもっと幸せに続くといいな、と思った。そうじゃないとダメな気がした。
一年前、秋のある日。
私と彼は映画を見に来ていた。私はミステリー映画が好きで彼はスリラー映画が好きだ。
その日は私の意見で、ミステリー映画を見に来ている。
彼は言う。
「まあ、面白いな。」
「本当? やっぱりミステリー映画を見に来て、正解だったでしょう?」
「今回ばかりは認めてやるよ。」
まだ彼が私に優しかった時の話だ。急に浮かんだ、彼との記憶。今でも色褪せることはない。
いきなり携帯が鳴る。確かめてみると綾花からだ。
「もしもし? どうしたの、綾花。」
「ショットバーって知ってる?」
ショットバー。確かグラス一杯で楽しむバー、だっけ。
「あれでしょ。グラス一杯で楽しむやつ。」
「行ってみたことある?」
「ない、かな。」
私はお酒が好きというよりは、その場の雰囲気が好きなだけだ。友どちと喋ったりするのが好きなんだ。
「ないなら、一緒に行こうよ!」

ショットバー「輪廻」。そこで働く、女性のバーテンダーが話をかける。
「いらっしゃいませ。2名様ですか。」
「はい、合ってます。」
「こちらへどうぞ。」
バーテンダーは、カウンターの方を指さしてそう言った。
私たちがカウンターチェアに座ると、
「ご注文はどうしますか。」と、バーテンダーは聞いた。
「私、ショットバーに来るのは初めてなんですけど、おすすめってありますか。」
「それじゃあ、当店のオリジナルカクテル「輪廻」は如何ですか。」
「それでお願いします。綾花は何にする?」
綾花は少し悩んで、
「私もその「輪廻」でお願いします。」と答えた。
バーテンダーは「かしこまりました。」って言って、カウンターの内側に戻った。今から「輪廻」というカクテルを作るのだろう。
「綾花、彼とは大丈夫? ちょっと気になってるんだー。」
私はそう聞いた。突然の好奇心だ。
「まあ、いつも通りさ。良くも悪くもない、普通の恋人同士。」
「ふーん、そうか。」
つまりまだ喧嘩はあるってことなのだろう。私にはそう聞こえた。

「こちら、当店のオリジナルカクテル「輪廻」でございます。」
バーテンダーはそう言い、カクテルが入っているグラス二杯を私たちの前に置いた。
透明な青の、そのカクテルは私たちの心を綺麗にしてくれるような気がした。
綾花は一口飲んで、
「これ、飲みやすいね。美味しいな。」と呟いた。私も「美味しい」と答えた。でもこのカクテルの名前がなぜ輪廻なのかは分からなかった。
「バーテンダーさん、なぜこのカクテルが輪廻なんですか。」
「あ、凛さんでいいですよ。このカクテルが輪廻なのは、作ったのが私だからです。」
なるほど、って思った。作ったのが凛さんだから、輪廻なんだ。もっと深い意味があるのかと思った。
綾花は言う。
「もっと深い意味があるんじゃないかと思いましたよ。」
凛さんはふふって笑い、
「そうでしょー。そういうトリックなのよ。」と言った。面白い人だな、と思った。
綾花は言う。
「もし良かったら、閉店後に話でもしませんか。私と香織と凛さんの三人で!」
唐突な提案に、私は驚いている。まだ初対面だし、流石に断るんじゃないかな。
「綾花、流石に断るでしょ。まだ初対面だよ?」
「あら、良いわよ。面白そうな二人となら、私は歓迎かな。」
そうやって、三人の秘密会は開かれることになった。

秘密の夜は、時が流れるほど深い闇に包まれる。
凛さんは言う。
「そういえば、二人はどんな仕事をしてるの?」
綾花は言う。
「ある雑誌社の編集部で働いているんです。特に、香織はとても有能な社員なんですよー。」
「そ、そんなことないですよ。…まあ、頑張ってやってるつもりではあるんですけど。」
「やっぱり面白いね、二人は。」
凛さんはそう言って、とても優しい笑顔を見せる。

酔えば酔うほど、恋はもっと濃い色になる。悲しみだって深くなる。綾花は言う。
「凛さん、どう思います? 別れた方がいいと思います?」
「ふーん。私だったら別れるかな。そんなに辛い思いをしてまで付き合いたいとは思えないよ。」
凛さんはそう言って、少し考え込む。昔の恋でも思い出しているのだろう。
「まあ、そこまで深い恋はしたことないからかもだけど。」と、凛さんは付け加える。

凛さんのことも気になって、私は聞いてみた。
「凛さんは今までで、とても印象的な恋ってなんですか。」
「私は、そうだな。」
凛さんは、恋の話を語り始めた。
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場面① 冬の街にて 凛の話

冬の、ある日のことだ。2人の男女が、そこに立っている。
男は言う。
「もう別れよう。」
そう言われた。その理由を聞いてみたが、男は答えない。女は諦めて、潔く立ち去ろうと思っていた。
でも最後に聞きたいことがあった。
「ならどうして、あんなに好きだって言ったの?」
あんなに私のことを愛してくれた彼だから、こうやって別れるのはとても寂しく思うんだ。
「あの時は、本気だったよ。今はそうじゃないから別れを言い出しただけさ。」
そう言って、男は立ち去る。その背中を見て、女は思う。
「どうしてこんなことになったのだろう」って。

冬の、ある日に女は男に好きだって言われた。
それは突然で、その当時はまるで夢のようだと思った。女の方もその男を愛していたから、二人はその日に恋人になった。
とても順調に見える恋。女は幸せだと思った。

冬の、ある日に映画館に行った二人は、その時からすれ違う。付き合い始めて一ヶ月が過ぎた。
男の心の中は、愛など存在しない。ただ「つまらない」という、負の感情だけがそこにあった。
そのことに、男が気づいたのがその映画館でのデートだ。

その翌日に、別れを切り出した男は思う。
「これでいいんだ」って。だから立ち去るその姿は、清々しいとさえ思えた。

冬の風は冷たい。彼もまた、冬の男になってしまった。
私は秋。必死に冷やそうとするけど、なかなか次のステップに進めない私は秋の女だ。

凛さんの恋は他人事ではない。私も同じような恋をしていたんだ。私だって秋の女だ。
「もう彼のことは好きじゃなし、今は大丈夫だよ。ただ今でもその恋を思い出すと、悲しくなるんだ。」
そこが、私の恋と違うところだ。私は、悲しくはならない。ただ複雑な気持ちになるんだ。
彼は、冬の男ではない。私と同じ、秋の男だ。犠牲になった秋の人。罪深い季節と共に、彼は立ち去った。
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今回はテーマは、秋のファッションのおすすめだ。インタビューも必要になってくる。インタビューをする人とは今日、会う約束をしている。いい時間になるといいけど。
私はとあるカフェに来ている。その人が来るまで私は、色んなことを考える。彼のことももちろん思い浮かんだけど好き、という気持ちは薄れている。それを感じたんだ。
私はカフェモカを飲みながら、電話をかける。その人はすぐに出た。
「今どこら辺にいますか。」
「あ、すみません。もうすぐ着くと思います。」
「できるだけ早く来てください。」
そう言って、私は電話を切る。もう少し待ってみるか。
その人が到着したのは、それから10分後だった。10分はもうすぐ、とは言わないと思うけど、そこは敢えて触れないでおくことにした。
「じゃあ、早速始めますか。」
「はい、そうですね。」
私が質問をするとその人は回答をする。そういうやり取りをいつまでも続ける。退屈な作業だ。
私はカフェモカを一口飲んで、
「本日はありがとうございました! インタビューは以上です!」と言った。
彼は軽く挨拶をして、カフェを後にした。いい記事が書ける気がする。それだけでこの時間は、無駄な時間ではなかったと言えると思う。

私が会社に戻ると、すぐにインタビューの内容をまとめる。そしてその内容を送ればよし。その内容に基づいて、ライターさんは記事を書くだろう。こんなに頑張ったんだし、いい結果になるといいな。
会社で寝込んでいると嫌な夢を見てしまった。彼のことだ。もう忘れたいと思う。でもそれと同時に、彼が好きだという気持ちも感じられる。薄れていってはいるが、その気持ちが消えることはない。
今は、夜の3時である。今から寝直すにも、ちょっと曖昧な時間だ。だから私は散歩でもしようと思った。
冷たい秋の風に揺られ、私は思う。このまま私が死んだらどうなるのかな、って。
きっと葬式が過ぎればみんな忘れてしまうのだろう。命はそれだけ儚いんだ。
秋の女。そう言っていたっけ。でも嫌なんだ。その事実を、私が秋の女だということを認めたくないんだ。
そんなことを思いながら夜の街を歩く。途方もなく、長い道のように思える。
選択肢は、あまりないんだ。彼への思いを認めるかその思いを拒んで秋の女になるかの、2択しかないんだ。

「また会ったね。」
その声に振り返ると、凛さんがそこに立っていた。
「凛さん? こんな所で何してるんです?」
「ちょうど店を閉めて、家に帰ろうとしていた所なんだー。」
そういえば、こんな時間までショットバーは営業するんだっけ。
凛さんは言う。
「あなたは、何してるの?」
「私は会社で寝泊まりで仕事をしてて、曖昧な時間に目を覚ましたから散歩してるんです。」
「ふーん。そうなんだ。」
「あなたさえ良ければ、うちの店で飲んでいかない?」
「え、もう閉店したんじゃないですか。」
「特別サービス、になるかな。」
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場面② ショットバーにて 凛/香織の話

秋の女同士の飲み会は、いつだって切なさがある。酔えば酔うほど恋の辛さはもっと濃くなる。その度に感じる、その無力さにどうしようもなくなるんだ。

「やっぱり、恋って儚いものだと思いません?」
「そうだねー。求めれば求めるほど遠ざかるもの、だとは思うよ。それが儚いってことか。」
凛さんはなるほどって頷く。私の言葉に同意してるってことで良いんだよね。
「だとしたら、私たち人間は儚い生き物ってことになりません?」
「そうだねー。儚いよね、人間ってさ。」
凛さんはそっと頷く。そうだとしたらやっぱり人は、人の心は満たされることはないんだ。だからどんなに愛されても寂しいんだ。足りないと思ってしまうんだ。
その言葉を、私は口には出さなかった。自分の中で出した結論ではあるが、 別に他人の理解を求めるようなものじゃないから。

飲み会は、一時間ぐらいでお開きになった。
凛さんは「流石に疲れたから、もう休みたい」と言って空っぽのグラスとお摘みが入っていた皿を持って行った。洗い物をする為なんだろう。私もそろそろ帰ろう。
「今日はありがとうございました。それじゃあまた会いましょう。」
私がそう言うと、凛さんは「私こそ話し相手になってくれてありがとうね。気をつけて帰ってね!」と言って手を振った。
私も手を振って外に出た。凛さんは後片付けをしてから帰るとのことだ。
一晩の思い出になった、二人の飲み会はとても楽しかった。またこうやって、凛さんと飲みたいなって思った。

ずっと昔に私の恋は終わった。そんな気がする。
どんなに人生を、その1ページを捲っても何もないんだ。生きた足跡はあっても意味はない。だからこの世は儚いんだ。
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私は、編集部での仕事をやめることにした。無意味だと感じたから。
その最終日に、綾花と酒を飲んだ。この一日が終われば、きっと私は今とは違う人生を生きているのだろう。
綾花は言う。
「本当にそれでいいの?」
「まあ、良いかな。仕事はするけど、編集部での仕事は今日で終わりになると思う。」
「そう。香織がそうなら、それでいいと思う。」
そんな会話をいつまでも交わしていた。これで最後、だと思ったのだろう。私もそうだ。
綾花は残っている仕事があるから、と帰っていった。私もそろそろ行くか。

私が向かったのは、ショットバー「輪廻」だ。私はここで働きたいと思っている。凛さんとは上手くやれそうだ。
私が店に入ると、凛さんは「こんばんは」と軽く挨拶をした。私は早速、その言葉を口にする。
「ここで働きたいです。」
「え、ここで? 雑誌社で働くんじゃないの?」
凛さんは、私が冗談を言っているように見えるようだ。私は更に言う。
「会社は辞めてきました。ここで働きたいと思っています。」
「ふーん。うちはそんなに多くは払えないのよ。それでもいいの?」
「はい、それでいいです。」
私は、ショットバー「輪廻」で新たな人生を歩むことになった。凛さんは、丁度バイトが一人辞めちゃって困っていたという。私には都合が良い。
去り際に、凛さんは言った。
「覚悟してよね。結構大変だよ。」
「はい、分かってます。」

慌てる日々が過ぎ、何とかショットバー「輪廻」での仕事にも慣れてきた。
カクテルの名前を聞かれても分からなかったこともあったけど、今はそんなミスはしない。
ショットバー「輪廻」は、深夜零時に店を開いて、朝の六時になったら店を閉める。
こういう店は深夜に営業するのが普通だと思う。その方が雰囲気だって、溶けない氷のように長引くんだ。
私は言う。
「お疲れ様、凛さん。」
「香織ちゃんもお疲れ様。一杯飲んでいく?」
「はい。お願いします。」
ショットバーで働くようになって、凛さんのカクテルを無料で飲めるのはいいと思う。
今日のカクテルは、オリジナルカクテル「輪廻」だ。初めてこの店に来た時に飲んだものだ。
今日はそのカクテルを飲みたい気分だった。
凛さんは言う。
「今更だけど、ありがとうね。」
「それは何に対する、ありがとうですか。」
凛さんはふふって笑い、
「あなたが来てから、この仕事が楽しくなったから。」と答えた。
そう言われると照れちゃうな。でも私を必要としてくれる、その誰かがいるってことがとても嬉しく思う。

どんな日々を送ろうと彼のことが浮かぶんだ。そんな思いを凛さんに打ち明けてみた。閉店後の静かな場所で。
「私だったら有り得ないかな。」
凛さんはそう言って、天井を見上げる。
「そうやって未練を持っているときっと後悔すると思うんだ。」
それは分かっている。それは当たり前のことだと思う。でも私は理性じゃなく、感情によって動いている。そんな私にそんなことが出来るわけがないんだ。
「なら、香織ちゃんの好きにやればいいじゃん。その方がいいよ。」
凛さんは言葉を投げるように言った。この話題はこれで終わり。そんな雰囲気になっていた。
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場面③ 美しき日々 凛の話

香織ちゃんがうちに来てもう一ヶ月になった。一人の私に香織ちゃんは優しく接してくれた。
最初に会った時は、ただ面白い人だと思った。何度が来たことがある綾花さんと楽しそうに話す香織ちゃん。それが私の、かおりちゃんに対する初印象だ。

そんな香織ちゃんが、うちで働きたいと言ってくれた時はとても驚いた。当時は、香織ちゃんが雑誌の編集部で働いていることは知っていた。だからどうしてうちで働きたいと思ったのか、よく分からなかった。
その理由を知ったのは香織ちゃんがうちで働き始めて、初の読み会でのことだ。
「新たな発見が出来る」と思ったからだそうだ。そうかな、と私は思ったけどそこはあえて触れないことにした。

香織ちゃんはとても一生懸命に働いてくれるし、話し相手にもなってくれる。そのことで好感を持ったのは確かだけど、それだけじゃない。そんな気がする。
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二つ目 哀恋の季節

復讐はまだ、行っていない。
確かに私は復讐を強く求めていた。けれどそれを行動にする勇気がないんだ。
時だけがゆっくりと流れていた。
香る秋の匂いが私の鼻を通り過ぎ、その誰かへと運ばれていく。

凛さんは言う。
「あんたがうちに来て、もう一年だね。」
「そうですね。あっという間、でしたね。」
私は本当にそう思っている。あっという間。復讐も出来ずに私はこの、輪廻で働いている。
もう私の居場所になってしまっている。こんな気持ちになったのは、多分初めてだ。
「私は後悔していません。ここで働くことが出来て本当に良かったと思います。」
「なら、良いんだけどね。」
凛さんはその言葉を噛み締めるように言った。

次の朝。今日は土曜日だ。
毎日雑誌で一緒に働いていた綾花と、久しぶりに会う約束をしている。
今はもう編集長になったそうだ。高速昇進、ってやつだ。
まあ会ったら仕事の話もしたいし、プライベートな話もしたいと思っている。上司の愚痴とか聞かされるかな。
心底、結構楽しみにしている。あれから綾花とは1度も会っていない。互いに仕事が忙しいって言うのもあるけど私の場合はあんな風に職場を辞めてしまったということもあって、少し気まずいと思っていた。
近くのカフェに入り、私はミルクティーを頼んだ。特に理由はない。ただ飲みたいと思っただけ。
今日はとても透き通った青の空。その下で私は待っている。
未練のせいで私の心はかなり傷ついている。きっとこのままじゃ駄目なんだろうな。

綾花は店に入ると私に軽く挨拶をした。私も軽く手を振った。
「久しぶりだね。」
私はそう言って、しばらく綾花の顔を見つめた。相変わらずの、真面目な表情で私を見つめている。
「そうだね。私はあれからかなり忙しくて、上手く休めなかったよ。私もあの時、辞めるべきだったのかな。」
綾花は確かに疲れているように見えた。編集長になっても仕事の量はそんなに変わらないと思うしね。
「それでも編集長になったわけだし、給料は増えたんじゃない?」
「まあ確かに増えたけど、とにかく今は休みたいかなー。」
そんな会話がいつまでも続いていた。久しぶりに会うけど、綾花は相変わらずだなって思った。
「あんたはどうなのよ。バーで働くわけだし、結構大変なことあるんじゃないの?」
私はそう聞かれて、今までのことを振り返ってみた。
でも迷惑なお客さんが多いわけではないし、そこまで大変な思いはしていないと思う。
私は綾花にそう伝えた。
「いい職場だね。羨ましいなー。」
綾花は本当に羨ましいって思っているようだ。

「恋はまだしてないの?」
綾花はそう聞いた。本当のことを言うと今はまだ彼氏はいない。そう言うしかないか。
「彼氏はいないよ。まだ恋がしたいとは思っていないから。
それは本当の気持ちだ。私は復讐を考えるほどあの恋をまだ引きずっている。
そんな状況で新たな恋なんて考えられない。
「もう忘れなよ。どうせ去った人だし。もう戻ってこないんでしょ?」
綾花はこういう相談を受けると、いつもこんな風に助言をする。
まあ間違った言葉ではないけど、今の私に相応しい考え方ではない。
「まあ忘れる努力はしてみるよ。」
私はこんな風に答えてしまう。忘れる努力はもうしている。ただそれが出来ないだけだ。
カフェを出て私は何をしようか悩んだけど、プライベートにバーに行って飲むことにした。
カクテルを一杯飲む気はない。ただお酒を飲みながら考えたいことがあるだけ。

ショットバー「哀恋」。私はそんな名前のバーに足を運ぶ。
今の私にそっくりな店だと思った。
そこのバーテンダーは中年の男性で、初めての印象はとても渋い人だと思った。
黒と白の洋服を着て、ゆっくりとカクテルを作るその姿は素晴らしいと思った。
私はカウンターに座り、注文をする。
「このバーのおすすめのカクテルは何ですか。」
そのバーテンダーは答える。
「うちのオリジナルカクテルのシャイニング・ラブは如何ですか。」
シャイニング・ラブ。輝く恋か。そんな恋をしたのはいつだろうか。覚えていないや。
「それでお願いします。」
私はそう言い、スマホを取り出す。何な文章を打ちたくなったから。
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私の独白 香織の話

懐かしい。
初めてのバーにて。
恋の悩みを打ち明けたくなった。
ダメだとわかっていながらまた考えてしまうんだ。
どうだろうか。

カクテルを作る、バーテンダーの姿はまるで私を見ているようだ。
あんな風に渋いわけではないけど、それでも私だけの魅力はあると思う。
それと悲しみの匂いが漂っている私のように、彼もまたそうだろうか。

そんなことを考えている。
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そこまで書いて、ふとバーテンダーの方を見るともう既にカクテルは完成していた。
わざと声をかけなかったのだろうか。
本当のことはどうか分からないが、まぁいいだろう。
「シャイニング・ラブ」の味は、レモンの酸っぱさが足されたジンを飲んでいるようだった。実際に聞いてみたら、まさにその通りだそうだ。
でもその分量は教えてくれなかった。営業秘密だそうだ。
カクテルを飲めば飲むほど、彼との愛が浮かび上がるのを感じた。
このままじゃダメだと思い、私はその一杯だけを飲んでバーを後にした。
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哀恋の記憶

僕がこの店を始めたのは一か月前の話だ。
当時付き合っていた彼女とは別れた。浮気をしていたんだ。
復讐をしようとは思わなかった。
それで僕のところに戻ってくれるならそうするけど、
現実はそう甘くない。
だからその記憶を忘れるために、ショットバー「哀恋」を始めた。

今日はとある女性がうちに来た。初めて来たお客さんだ。
彼女はうちのオリジナルカクテル「シャイニング・ラブ」を頼んだ。
このカクテルは、僕の願望が込められたカクテルだ。
僕も輝く恋がしたいな、という思いが込められているんだ。
彼女も僕のように輝く恋を求めているのだろうか。
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三つ目 美学の季節

あれからショットバー「哀恋」には行っていない。
そんな暇もないし、別に行きたくもないんだ。
この世に生まれる恋は決して輝いていないんだ。いつも醜い終わりを迎えてしまうから。
今日は輪廻で、一日の終わりを楽しむつもりだ。頼んだのはアディンドン。カクテル言葉は沈黙である。

凛さんは言う。
「きっと輝く恋はあると思う。ただの願望なのかもしれないけどね。」
「私はそうとは思えません。」
私ははっきりそう言った。今の私が覚えている恋はいつも失恋で終わった。
そんな恋が、美しいと言えるのだろうか。
「私はそれでも、恋がしたいと思っている。輝く恋が来るのを待っているって感じかな。」
凛さんの言葉を、ただ聞いていた。
私にはそれが程遠い話だと思った。
「やっぱりさ。あんたって結構立ち直りが遅いタイプなの?」
凛さんはそう聞いた。多分恋に対しての立ち直りの話なんだろう。
私はただ昔の恋を引きずってはいるけど、立ち直りが遅いっていう認識はない。
「そうですかね。」
いつだって普通は尊い。
私はそれが出来なかったから、ここにいるんだ。
「でも今思えば、復讐しようとしていたのが嘘みたいに思えるんです。」
私は復讐をすることをやめることにしたんだ。本当に、いきなりの気まぐれだった。後悔はない。
「そう思えるようになったってことは、もっと大人になったってことさ。」
凛さんはそう言う。
今でも残ってる、憎しみをそっと抱いて生きるしかないのかな。
正解はないだろうけど、でも最善の選択をしたいから未だに悩んでいるんだ。

今日は私の好きなバンドのライブがある日だ。
せっかくの土曜日だし、もっと楽しまなくちゃっていう思いがあって、それで私が選んだのが好きなバンドのライブに行くことだった。
バンドの名前は「忘れる美学」という、少し変わった名前である。
そのバンドのボーカルの人はとあるインタビューにでて、その由来についてこう語った。
「忘れる美学。知っていても中々できないこと。でもいつかはやらないといけないこと。そんなことを歌いたくてこういう名前にしました。」
ライブが開かれるのは、ライブハウス「優しい悲しみ」。
このバンドはこういう、考えさせる言葉を私たちに投げるんだ。
優しい悲しみ。それはきっとあると思う。初恋の悲しみ。別れの悲しみ。それ以外にも沢山ある。
今回は一人で楽しむつもりだ。一体どんな夢を見させてくれるだろうか。
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ライブにて 香織の話

歌が響く。優しく私を包んでくれているようだ。
このバンドの曲は忘れる美学という名前もあって、失恋など何かを失ってしまった人のことを書いた曲が多い。
それに引かれて私はファンになった。
私は明るい歌は好まない。少し悲しいくらいが丁度いいと思う。

現実を見よ、といつも言われるんだ。
その度に「そんな風に考えてみるよ」と答えるけど今でも私はあの恋を引きずっている。

復讐がしたいってわけではないけど、でも彼のことを考えてしまうんだ。
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ライブの途中に誰かから電話がかかる。確認してみると綾花からだ。
私は会場を抜け出してから電話に出た。
「もしもし、どうしたの?」
「今から会えないかな? 私の働く毎日雑誌でさ。」
「今じゃないとダメな用事なの?」
私はそう聞いた。まだライブを楽しみたいけど、急ぎの用事ならそっちを優先したかったから。
「別に急いでるわけではないかな。暇な時に会おうって話だから。」
「そう。じゃあその時に会おう。バイバイ!」
そう言って、私は電話を切った。早くライブを楽しみたいと思ったから。
ライブは無事終わり、会場の外に出た。
あの電話の後もライブは続いた。プレゼント企画もあったけど、私は貰えなかった。

家に帰る電車の中で私は思った。
本当に夢のような時間だったなと。

「最近はどう? 元気にやってる?」
綾花がそう聞いた。今私たちは毎日雑誌の近くのカフェに来ている。
私よりは彼女の方が忙しいと思うし、すぐに戻らないといけないと言っていたからここで待ち合わせをした。
「私は、自分なりに頑張ってるかな。」
そう、本当に頑張っているんだ。本心は言えないけど、それなりに話していくと思う。
「なら良かった。」
そしてコーヒーを一口飲む。広がるコーヒーの香りに、ミルクの甘さが入ってくる。
この人生もまたそうだ。甘かったり苦かったりするんだ。
「でも変わってないね。この街は。」
私は懐かしい景色を目にして、そう言った。
「そりゃそうでしょ。香織が仕事辞めたのって、確か一か月前じゃなかった?」
そのくらい経ったと思うけど、その日付を鮮明に覚えてはいない。
「多分そのくらいだと思う。」
綾花は、突然の電話をしてから言った。
「ごめん。もう仕事行かないといけないや。」
「いや、いいよ。久々に会って嬉しかったよ。仕事頑張ってね。」
綾花は軽く手を振って、カフェを後にした。
私はもうちょっとだけコーヒーを飲んで帰ることにした。
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幕間 美学の話

ただ何者かに襲われた夢を見た。
そう、この前の綾花の恋人に会った時のような感じだった。
怖いっていうか、少しだけビビっていた。

美学。心は美しいと言う。
恋の感情。福の感情。善の感情。どんなに言っても話し足りない。
でも負の部分はきっとあって、その部分だけが大きく感じてしまうんだ。

焼かれた羽のような、小さな夢が落ちた。
もう叶うことはないだろう。

夢の中 私はそっと思う。
もう置いてけぼりは嫌だと。
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エピローグ

今日も時は流れている。こんな私を連れて。
今でも彼のことは好きだ。それは間違いない。
でもそんなことばかり考えていては前には進めない。
これからは私の美学を、もっと感じていたい。
いきなりの結末。それもまた人生というものなのだろう。

私はこれからも輪廻で働いていくと思う。
ここで、もっと大人になれたらいいと思う。

凛さんは言う。
「まだ帰ってなかったの?」
私は答える。
「もう帰ります。お疲れ様でした。」

そんないつもの会話も、尊いと思うんだ。
私はそんなに明るい人間ではないと思うけど、凛さんのような人になれたらもっと人生を楽しく生きられる気がするんだ。