忘れられないよ君は―初恋だけでは終われない―

 もう少し。

 あと少しだけ。

 終わらないでほしい。

 そう思ったところで、音が途切れた。

「……終わり?」

 思わず聞いてしまった。

「終わり」

「もっと聴きたかった」

 考える前に言葉が出た。

 彼が亜美を見る。

 その視線を受けて、ようやく自分が何を言ったのか気づいた。

「あ、すみません」

「だから謝りすぎだって」

「なんとなく」

「変な子」

 彼は笑った。

 けれど、もう一度鍵盤へ手を置いた。

 それが嬉しかった。

 亜美は自分でも気づかないくらい、小さく笑った。

「昔、ピアノやってたんだ」

「そうなんですね」

「結構ガチで」

「ガチ?」

「そ。音大行こうと思ってたくらい」

 亜美は彼を見る。

「音大?」

「うん」

「じゃあ、どうしてこの大学に?」

 その瞬間。

 彼の指が止まった。

 亜美の胸がひやりとする。

 ――聞いちゃいけなかった?

「あ……ごめんなさい」

「だから謝りすぎだって」

「でも……」

「落ちたんだよ。音大」

「え?」

「普通に不合格。だからここにいる」

 あまりにもあっさり言われて、亜美は何も言えなかった。

 さっきまで綺麗だと思っていた音が、急に違って聞こえた気がした。

 この人は、どんな気持ちで弾いていたのだろう。

 自分には分からない。

 簡単に「残念でしたね」なんて言いたくなかった。

 そんな亜美を見て、彼は少し困ったように笑う。

「そんな顔すんなって」

「どんな顔ですか」

「俺がものすごく可哀想なやつみたいな顔」

「してません」

「してる」

「……少しだけ」

「正直だな」

 彼が笑う。

 けれど、その笑顔がほんの少しだけ寂しく見えた。

 亜美は鍵盤を見る。

 胸の中に、言葉にならないものが残る。

 慰め方なんて知らない。

 何を言えば正しいのかも分からない。

 だから、思ったことをそのまま言った。

「でも」

「ん?」

「私、好きです」

 彼の指が止まった。

「……俺?」

「先輩のピアノ」

「ああ、そっち」

 彼が小さく笑う。

「びっくりした」

「何がですか?」

「いや、何でもない」

「?」

「で? どこが好きだった?」

 亜美は少し考える。

「私、音大に受かるピアノがどういうものか分からないけど」

「うん」

「さっきの、もっと聴きたいって思いました」

 彼は黙って亜美を見る。

 その視線に少し緊張する。

 それでも、今度は逸らさなかった。

「だから……私は好きです」

 もう一度言った。

 少しの沈黙。

 やがて彼が、ふっと笑う。

 さっきまでとは違う、柔らかい笑い方だった。

「……そっか」

 それから少しだけ照れくさそうに視線を鍵盤へ落とす。

「ありがとな」

 その一言に。

 亜美の胸が、小さく鳴った。

 とくん、と。

 何だったのか分からない。

 ただ、少しだけ息がしづらくなった。

 なのに嫌ではない。

 むしろ、もう一度その顔を見たいと思った。

「これ、あんま人に言ってないんだよ」

「音大のこと?」

「そ」

「お兄ちゃんも?」

「たぶん知らない」

「じゃあ……私、聞いてよかったんですか?」

「もう聞いたあとだろ」

「そうですけど」

「まあ、いいんじゃない?」

 彼は鍵盤へ指を置く。

「直充にも言うなよ」

「言いません」

「じゃ、今日から君だけが知ってる秘密な」

「……秘密」

「そ。ちゃんと守ってよ?」

「守ります」

「なら信用しとく」

 胸が、また鳴った。

 今度はさっきより大きかった。

 ――私だけが知っている。

 その言葉が、胸の中に残る。

 特別だと言われたわけではない。

 ただ偶然ここに来て、偶然聞いただけ。

 それなのに。

 少しだけ嬉しい。

 そんな自分が不思議だった。

 また音が鳴る。

 亜美はその横顔を見ていた。

 さっきまで、この人のことを何も知らなかった。

 今だって、ほとんど何も知らない。

 名前も知らない。

 何年生なのかも知らない。

 兄とどういう関係なのかも、よく分からない。

 知っているのは。

 この人が綺麗な音を鳴らすこと。

 少し寂しそうに笑うこと。

 そして。

 誰も知らないことを、自分だけが一つ知っていること。

 たったそれだけ。

 なのに亜美は、もう少し知りたいと思っていた。