◇◇◇


 天宮からのメッセージを放置したまま、2週間が経過しようとしていた。五十嵐は日々の忙しさに追われ、天宮のことなど歯牙にもかけない様子だった。興味のない数多くの女性からアプローチを受けてきた五十嵐は、無駄な反応を見せず、無視をするのが、こういう類の女には一番効果的だと分かっていた。この、言葉よりも残酷な行為と思考が、冷酷だと言われてきた理由なのかもしれない。
 
 GWという長期連休を前に、入れ歯や被せ物のメンテナンスを検討する患者が増え、午前の診療は予約以外の駆け込みも多かった。
 
 「脇田、山田さんの上顎の左、印象(いんしょう=歯の型取り)任せてもいいか?」

 「あ、はい、すぐにやります!」

 スケーリング(=歯石取り)を終えた患者を見送った後、嘔吐反射が出やすいデリケートな患者の印象を五十嵐に任された。
 梛七は、当院の顔馴染みである女性の山田さんの所に行き、嘔吐反射を避けるため、チェアーを座位の位置に戻しておいた。

 「山田さん、少しそのままでお待ちくださいね。リラックスしててください」

 「はいは〜い。今日はななちゃんなのね〜」

 今日は私です、と梛七はニコッと笑い、水と粉末状になっているピンク色のアルジネート印象材を専用の機械に入れる。機械から出てきたゼリーのようなピンク色の印象材をラバーボール(=ゴムでできたお椀のような入れ物)から取り出し、網トレーと言われる金属の型取りトレーに乗せて、山田さんの所へ向かった。

 「はい、ではそのままお顔を少し上げて、大きくお口を開けていただけますか〜。そうで〜す。少し押しますよ〜。はい!お鼻で息しましょ〜う。そうです、そうです。そのまま3分、一緒に頑張りましょうね〜」

 梛七の華奢な左手で、丸まった背中をゆっくりさすると、山田さんの様子は少しずつ落ち着いていった。
 梛七は、壁掛け時計の秒針を目で追いながら、山田さんの口の中で徐々に硬化していくアルジネートを眺める。そして固まったのを確認し、ゆっくりトレーを浮かせるように力を加えて取り外した。

 「はい、お疲れさまでした。上手に取れましたよ〜。辛かったですね。一度、うがいしましょうか」

 「うぅ〜。ななちゃんだから頑張れたのよワタシ〜」

 梛七は、山田さんがうがいをしている間に、隣のチェアーで根治(こんち=虫歯の治療)の治療をやっている五十嵐へ、山田さんの歯形がついた網トレーを見せに行った。
 五十嵐は患者の口腔内を触っていた手を止め、梛七が持ってきた網トレーを横目で確認する。

 「いいんじゃないか」

 返答だけだったが、五十嵐のいつもの低い声が少しだけ優しく聞こえた。新人の頃に向けられていた威圧的な声が嘘のようだ。
 梛七は、ラバーボールに水を張り、山田様と書いておいたシールを網トレーの持ち手に貼りつけ、水に漬けておいた。
 今日はこれで終わりだと山田さんに伝え、1ヶ月後に予約を入れてもらうように話しながら、ご主人が待つ待合室まで見送った。
 
 梛七は、すぐに水に漬けておいた山田さんの網トレーを、ラバーボールごと歯科技工士たちがいる技工室へ持って行く。

 「お疲れさまで〜す。新しい印象になります。お願いしてもいいですか〜」

 「あ!わっきー、新しいのここに置いといて〜」

 歯科技工士の高橋美喜子(たかはしみきこ)が、ゴーグルをはめた姿で声をかけてきた。高橋の隣で、石膏を流し込んでいる柚木あさみ(ゆずきあさみ)も、チラッと梛七を見て微笑んだ。

 「これ、先日のやつできてるから、ついでに五十嵐先生のとこに持って行ってくれる?ごめーん」

 「大丈夫ですよ!」

 「あ、わっきー先輩、ちょっと待ってください。これも一緒にお願いできますか〜?すみません」

 黄色の石膏で形どった歯形に、クラウン(=欠けた歯の全体を覆う被せ物)が乗ったものと、ブリッジ(=失った歯の両隣にある歯を支えにして橋を渡すような義歯)が乗ったものをそれぞれ渡された。
 高橋と柚木が完璧なまでに造り上げたそれぞれの歯科技工物を見て、梛七は思わず感嘆する。職人のような繊細な審美感覚が求められるこの仕事を、日々黙々と技工室に篭もってやり続けている二人には、感服しかない。
 受け取った技工物を抱え、患者のいるフロアーに戻った梛七は、手がちょうど空いていた五十嵐に、声をかけた。

 「先生、技工士のお二人から預かりました。確認していただけますか?」

 「あぁ。いいんじゃないか?患者は何時に来る?」

 「今日の、14時半と16時にそれぞれ来られる予定です」

 「分かった」

 五十嵐は、新しい歯科用グローブを箱から取り出し、次に呼ばれた患者のチェアーへ向かっていった。
 

 ◇◇◇
 

 昼休憩が明けてすぐのことだった。

 「予約してないんですけど、五十嵐先生に診てもらいたくって。お願いできますか?」

 艶やかな栗色をしたストレートのロングヘアーに、ふんわりとしたワンレングスの前髪を靡かせた長身の美人が、五十嵐の診察を希望して受付にやってきた。

 「初めてになりますか?」

 受付にいた藤原が初診問診票の紙をバインダーに挟みながら、女性に問う。

 「ん〜ここに来るのは初めてです」

 「分かりました。念の為確認したいので、保険証とこちらをご記入してお待ちください」

 女性は何も言わず、渡された問診票を持って一番奥の窓際に腰を下ろした。
 
 五十嵐の合図とともに午後の診療が始まり、別の患者が次々と呼ばれていく。

 「わっきー、この人お願いしてもいい?初診なんだけど、五十嵐先生をご指名されてる。あそこにいる女性の天宮さんって方」

 「分かりました」

 (女性…あの奥の窓際に座っている人…かな)

 梛七は、五十嵐の知人なのか誰かからの紹介なのか、もう少し内容を詳しく聞こうと、藤原から受け取ったファイルを持って天宮の元へ向かった。

 「こんにちは、天宮さん。衛生士の脇田と申します。問診票のご記入、ありがとうございます。五十嵐先生の診察をご希望との事ですが、何かご紹介など受けられてらっしゃいますか?」

 梛七はしゃがみ、座っている天宮に目線を合わせた。端整な顔立ちにしっかりめなメイクを重ねていた綺麗な顔が、梛七の目の前に現れる。

 (綺麗な…人…)

 天宮は梛七にニコッと笑い、待ちかねたように口を開いた。

 「ふふっ。知人からの紹介ってことにしておこうかな〜。少し奥の歯が痛くって。そこにも書いたけど、知覚過敏か虫歯か見てもらいたいの」

 「分かりました。お知り合いの方からですね。では、ご案内しますね。こちらにどうぞ」

 梛七は、カルテに知人からの紹介と記して、3番チェアーに天宮を案内した。チェアーに天宮が座ったことを確認し、このまま少しお待ちくださいね、と言いながら天宮の首元に無地の紙エプロンを装着した。
 天宮は何故か無表情で、真っ直ぐに正面を向き、窓ガラスの外を怪訝そうに眺めていた。
 
 隣にいた患者の治療を終えた五十嵐は、グローブを新しいものに取り替えながら、天宮が座っている3番チェアーに向かってきた。梛七は五十嵐に天宮のカルテを渡し、症状を伝えようとする。

 「奥歯に痛みを抱えて来院された、天宮さ…」

 「何しに来た?」

 ドスの効いた低い声で梛七の説明を遮った五十嵐。天宮は、渋面をした五十嵐の方へゆっくりと振り返り、何かを企んでいそうな笑みを浮かべた。

 「ふふっ。相変わらずの塩対応。それ、元カノの前で見せる態度〜?久しぶりに連絡したのに返事くれないし、こうでもしないと会ってくれないじゃない」

 (元カノ…。この人が…五十嵐先生の元カノ…)

 梛七はマスクの中で驚いた表情を隠し、何とか平常心を保とうとした。

 「脇田、少し席を外してくれないか」

 「…は…はい。失礼します…」

 梛七は、天宮と五十嵐に軽く頭を下げ、3番チェアーから一旦離れた。
 消毒室にいた南が梛七に声をかける。

 「な、何?元カノ?」

 梛七は、口元に人差し指を当てて、しーっ、と五十嵐や他のスタッフに聞こえないよう南に促した。
 異変を感じた伊東も、五十嵐への配慮なのか、いつも以上に声のトーンを上げて、一般矯正の説明を始めた。梛七と南は、敢えて聞かないようにと滅菌した歯科器具を整理していたが、3番チェアーからは、五十嵐と天宮の会話が筒抜けに聞こえてくる。
 
 「とりあえず、奥歯が痛いから診てほしーの」

 五十嵐は、溜め息をつきながら無言でチェアーを倒し、天宮の口内をデンタルミラーを使って確認した。

 「何もなってねーよ」

 すぐにチェアーを戻し、使用したデンタルミラーを少し乱暴にワークデスクへ投げ捨てた。

 「悪いが、もう帰ってくれないか…仕事中なんだ。他の患者もスタッフもいる」

 「じゃあ、返事返すって今ここで約束してくれたら帰る」

 五十嵐からは、更に大きな溜め息が漏れる…。

 「…分かったから、早く出て行ってくれ」

 天宮はふふっ、と笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がり、胸元のエプロンを外しながら、五十嵐の耳元にそっと近づいた。

 「もし約束破ったら、傑の大事な物を一つずつ奪っていくからね」

 「……」

 「なーんてね。じゃあ、返事待ってるね〜傑ぅ〜」

 艶やかなロングヘアーを揺らしながら、天宮は待合室まで歩いていき、藤原から保険証だけを受け取って、クリニックを颯爽と出て行った。
 五十嵐はカルテを藤原の所へ持って行き、全て破棄するよう伝え、次の患者を呼ぶよう、近くにいた助手の林に伝えた。
 
 
 (ふぅ〜ん。脇田って子はあの子ね…)

 天宮は、静岡の学会で五十嵐が女性を連れてきたという噂を耳にしていた。人伝てに詳しく聞くと、脇田と名乗る同僚の衛生士だということが分かった。クリニックを尋ねた本当の理由は、五十嵐に会う為だけではなく、梛七の存在を確かめる為でもあった。
 
 天宮は口元を緩ませながら、ある男に電話をかける。

 「見つけたわ。ふふっ。でも、ちょっと待ってて。また連絡するから━︎━︎━︎━︎━︎━︎」
 

 ◇◇◇
 

 家に帰った梛七は、ソファーに勢いよく突っ伏した。今日の昼間に見た、天宮と五十嵐の衝撃的な光景を思い出し、胸の奥がチクリと痛んだ。不意に元カノの存在を知るのはダメージが大きい。何事もなかったかのように平常心を保つにはもう限界だった。色の見えない溜め息が、部屋中に蔓延する。
 
 (綺麗な人だったけど、先生の様子は普通じゃなかったなぁ…)

 梛七は、女性に冷酷な五十嵐を初めて見た気がした。別れた相手とはいえ、好きだった相手に、あれほどの渋面した顔を見せるだろうか…。とても不思議に思った。
 何か理由があるのかもしれないと、梛七は有りもしない様々な憶測を脳内に広げ、鞄からiPhoneを取り出して、女子会で会ったばかりの梢子へLINEをした。
 

 梛七━︎(ねぇ、梢子。今日さ、クリニックに五十嵐先生の元カノが来た…)既読
 梢子━︎(え?マヂ?どんな人だった?ってか、元カレの職場に来るって凄いね…。何しに?)既読
 梛七━︎(すごい綺麗な人だった…。理由はよく分からないけど、連絡したのに返してくれないからって言ってた)既読
 梢子━︎(何それ。そんな理由で?五十嵐先生はどんな感じだったの?)既読
 梛七━︎(なんか凄い冷たかったよ…初めて見たかも、あんな冷たい先生)既読
 梢子━︎(そりゃ、そうだよ。ましてやそんな理由で。元彼の職場にズカズカ来るような女に、五十嵐先生は興味ないって。大丈夫だよ。あ、そうだ言おうと思ってたんだけど、GW!梛七んち行っていい?)既読
 梛七━︎(そうかな…。うん!いいよ。いつでも何日でも。また計画しよ)既読
 
 
 梢子とのほんの少しのLINEが、梛七のモヤっとした心を癒した。サバサバしていて、的確なアドバイスやフォローをくれる梢子に梛七はいつも甘えてしまう。GWに遊びに来るという梢子に、梢子の好きな具沢山のチキンカレーを作ってあげようと梛七は思い立った。
 

 ◇◇◇
 

 ジムで汗を流して家に帰ってきた五十嵐は、iPhoneをタップし天宮のメールを開いた。天宮とのやり取りをとっとと終わらせたい五十嵐は、天宮へ簡易的な返事をうった。
 
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 SMS/MMS
 メッセージ +81 90 3584 20150
 4月8日 16:38
 久しぶり。元気してる?
 傑のことが気になって連絡しちゃった〜
 ねぇ、また会えない? 天宮恭子
 
 4月24日 22:12
 ━︎「んで、何の用だ?」
 「ちゃんと返事くれるんじゃん。初めっからそうしてよね〜」

 ━︎「いいから早く用件を言え」
 「先日の学会に女性を連れてったらしいじゃん?噂になってるの知ってる?あ、今日いた脇田って子だっけ?」

 ━︎「だから何なんだ。別にあいつとは何もない。それにお前に何かを言われる筋合いもない」
 「じゃ、私とやり直して」

 ━︎「前にも無理だと言っただろ」
 「どうしても傑と結婚したいの」

 ━︎「変な冗談に付き合ってる暇はねーから、結婚してーんなら俺じゃなくて他をあたってくれ。じゃ」

 4月25日 0:13
 「私、次こそは絶対諦めないから」 
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 ベッドに横になっていた五十嵐は、天宮の最後のメッセージを読んで、iPhoneを掛け布団の上に放り投げた。どうしてこの女はこんなにも一方的で、執拗に追いかけ回してくるのか。五十嵐はもう溜め息しか出なかった。
 辟易した気持ちを抑えようと、五十嵐は右腕で両目を覆い隠した。無心になるはずが、どうしたものか。目の奥の暗闇から沸々と天宮との記憶が浮かび上がってくる…。
 
 
 天宮は、先代の五十嵐勝が医院長だった頃に、薬剤の取引先として贔屓にしていた天宮製薬の令嬢だった。
 当時、勝のところに、父である天宮社長から傑と恭子の縁談を持ち出されていた。
 勝は、息子の意思を尊重したいと、一旦断るのだが、娘の恭子から何かを言われていたのか、社長は一向に引こうとしてくれなかった。
 娘と付き合ってさえくれればと、様々な条件をしつこく勝に突きつけるようになり、困り果てた勝と、引き継ごうとしていたクリニック存続の為に、傑は仕方なく恭子と付き合うことを承諾した。
 
 容姿だけは申し分なかったが、幼い頃から甘やかされて生きてきたせいか、天宮はとにかく我儘で、傲慢で、強欲な女だった。そんな女と付き合わなければならない自分と、都合の良い条件を突き付けてくる天宮製薬に嫌気がさし、五十嵐は取引や縁談を含めた全ての付き合いを三日で断った。天宮社長からは激怒され、取引を打ち切られたが、五十嵐は特に困ることもなく、クリニックの存続に与える影響は何一つなかった。
 その後も天宮は、どうして私を好きになってくれないのか、と執拗に一方的な歪んだ愛を押し付けてきたが、五十嵐は強引に引き離し、天宮との連絡を絶った。はずだった…。
 
 
 両目を覆い隠していた右腕をどかし、五十嵐はそっと目を開けた。疲労だろうか…。風邪症状に似た悪感と、いつも感じないはずの節々の痛みが全身を襲った。
 ベッドのヘッドボードにいつも置いてある体温計をケースから取り出し、鍛え上げた広背筋が伸びる脇下に挟んだ。無機質な天井を虚な目で眺めていたら、梛七の隣で眠った時に感じた、果てしなく広がっていくような安心感が、胸に突き刺すほど欲しくなった。あの時のように、温もりを感じて眠りにつきたい。このむしゃくしゃした気持ちから解放されたい。弱った五十嵐は、これでもかというぐらい、らしくないことを思い浮かべていた。
 
 現実に引き戻されるかのように、体温計の音がピピッピピッと鳴る。脇から取り出した体温計には、38.7と表示されていた。
 
 五十嵐はやるせない溜め息を吐(つ)きながら、掛け布団に放り投げたiPhoneを掴み、発熱がある旨を伊東に連絡した。