気持ちを落ち着かせた梛七は、身につけていたアクセサリーを全て取り外し、着ていた黒のフレアワンピースを脱いだ。
 朝から過ごした五十嵐との時間は、すぐに消えてしまうシャボン玉のように、ぼんやりと浮かんでは、跡形もなく消えていった…。顔を覆いたくなるようなシチュエーションを思い返しても、幸せな記憶は一瞬で掻き消されてしまい、寂しさが募っていった。
 
 無気力になった梛七は、下着姿でベッドに仰向けになり、ベッドに設置された時計を見る。19:36と表示されたアナログ時計を睨み、無音の部屋に向かって大きく溜息を吐いた。
 
 (ん…?)

 「スッ、スッ、なんかやっぱり臭う…」

 梛七は嗅ぎ取るように鼻を啜る。
 この部屋に到着した時にも感じた塗料のような異臭を再び嗅ぎ分け、勢いよくベッドから起き上がった。そのまま臭いのするクローゼットをバッ、と開け、来た時よりも臭いが強まっているのを鼻の奥で感じた。
 フロントに電話をしようと受話器を取り、表記された番号を押すが繋がらない。何度もかけ直してみるが、一向に繋がる気配はなかった。梛七は、直接フロントへ行こうと、簡単な服装に着替えて部屋を出た。
 
 「脇田さま、左様でございましたか…。度重なる不手際、大変申し訳ございません。只今、ご一緒にお部屋に参りますので、少々お待ちくださいませ」

 梛七は、フロントにいた女性の支配人に事情を説明し、奥のスタッフルームから出てくるのを待った。
 
 「何してんだ?こんなところで」

 後ろから聞こえてきたのは、別館にある大浴場へ行こうと、フロントの前を通りがかった五十嵐の声だった。

 「せ、先生…お疲れさまです。実は━︎━︎━︎」

 梛七は、部屋で異臭がすることを五十嵐に説明し、今から女性の支配人と一緒に部屋に戻ることを伝えた。
 お前の気のせいじゃないのか、と五十嵐は眉を顰めていたが、そこに女性の支配人と男性の責任者がやってきて、二人は代表者である五十嵐に、改めて事情を説明した。

 「あ、五十嵐さま。この度は申し訳ございません。お連れさまでらっしゃる脇田さまのお部屋で━︎━︎━︎」

 「僕も一緒に、行ってもいいですか」

 こうして、通りがかった五十嵐も含め、急遽4人で梛七の601号室へ向かうことになった。
 
 部屋の前に到着し、梛七はルームキーで部屋の鍵を開ける。クローゼットを開けっぱなしにしてきたせいか、部屋に入った瞬間から異臭が漂っていた。

 「うわっ…」

 「これは…臭いますね…」

 「本当ですね…」

 異臭を嗅ぎ取った五十嵐たちは、口を揃えて言葉を発した。

 「数日前に壁張りの修繕工事を行っておりまして、当初は異臭などはなかったのですが、見る限り、こちらの修繕で使用した液体の漏れが原因かと思われます。大変申し訳ございません…」

 男性の責任者と女性の支配人が、五十嵐と梛七に頭を下げる。別のお部屋を準備できるか、女性の支配人が先にフロントへ降りていき、梛七は荷物を纏めて、五十嵐と男性の責任者と一緒に、ロビーへ降りて行った。
 
 『今日は、同じ様なお部屋が全て満室でして、大部屋しかご案内できないのですが…どうしましょう…』
 支配人と責任者が話している内容が薄らと聞こえてくる。
 
 「…なぁ。お前が嫌じゃなければ、俺の部屋に来るか?」

 五十嵐はフロントに一番近いソファーに座って、唐突に梛七へ提案した。

 「い、いや、そんな…申し訳ないです…」

 「俺は、別に構わねーけど。俺がソファーで寝ればいいし。それにお前、大部屋なんかで一人寝れんのか?」

 「そ、それは…」

 (確かに大部屋で一人はちょっと…。でも、先生と一緒の部屋で過ごすのも…。どうしよう…)

 梛七は目を泳がせ、指をモジモジと動かす。迷っている時間はないと自身に言い聞かせ、何が正解かを探した。五十嵐は気の抜けた顔を見せながら、ロビーに置いてあった時計を見やった。

 「…ほ、本当に…いいんですか…?先生のお部屋に行かせてもらっても…。ご迷惑…じゃないですか…?」

 勇気を振り絞って、五十嵐の部屋に行くことを決めた梛七は、五十嵐の顔を見ながら、辿々しい声で尋ねた。

 「別に構わねーよ」

 五十嵐はソファーから立ち上がり、フロントで話していた責任者と支配人に、一緒の部屋で一泊することを伝えにいった。
 
 支配人、責任者、それぞれから深い謝罪を受け、梛七は荷物を持って、五十嵐と一緒に7階の703号室へ向かった。部屋に入ると、6階の間取りとは少し違う空間が広がっていて、梛七の部屋には無かったソファーとダブルベッドが置かれていた。五十嵐の香水の香りがふんわりと漂い、気持ちが少しだけ落ち着いた気がした。
 
 「今日は何だか色々と迷惑ばかりかけてしまって…すみません…」

 「別に何も気にすることないだろ」

 スーツから、上下の黒スウェットに着替えていた五十嵐はソファーに座り、梛七の荷解きを眺めていた。

 「俺、久しぶりに温泉浸かりてーから、別館の大浴場に行ってくる。お前、風呂どうする?ここで入んなら、時間少し長めに取ってくるけど」

 「いや、私も温泉行きたいので、全然お好きなタイミングでお部屋に戻ってきてもらって大丈夫です」

 梛七は、お風呂に持って行く着替えを準備し、それぞれにルームキーを持って、五十嵐と別館の大浴場へ向かった。
 

 ◇◇◇
 

 「よっ。傑ぅ〜。おつかれっ。カラダ、すげー鍛えてんだな〜」

 「ん?橘か、おつかれ。こんなのまだまだ足んねーよ」

 髪を洗っていた五十嵐の横に、入り口から入ってきたばかりの橘が声をかけてきた。

 「あ、そーいえば、ななちゃん大丈夫だった?変な酔っぱらいに絡まれてたけど」

 橘も髪をシャワーで濡らし、設置されていたシャンプーのポンプを押した。隣にいた五十嵐は濡れた髪をかき上げて、橘を見る。

 「あぁ。あの後一応、アイツを部屋まで送ったんだが━︎━︎━︎」

 五十嵐は、体を洗いながら横で髪を洗っている橘に、梛七を部屋まで送った後からの経緯を簡単に説明した。
 橘は、洗い終わった髪をかきあげ、水を払いながら五十嵐に驚いた顔を見せる。

 「えーっ?傑の部屋で一緒に過ごすことになったってこと?」

 「あぁ。まぁ手出さねーし、大丈夫だろ」

 「いや、まぁ〜そうだろうけど。あの冷酷で、女を紙切れのように扱うお前が、付き合ってもいない女に優しくするとはねぇ〜。やっぱりお前、ななちゃんのこと〜」

 五十嵐は、橘の話を最後まで聞かず、先に行ってるぞ、とそそくさと誰もいないジェットバスのところへ歩いて行った。

 (傑のやつ、また逃げやがったな…)

 橘は、ため息を吐きながらいつものことだと諦め、体を念入りに洗うことにした。
 
 五十嵐と橘は合流して、二人だけしかいない露天風呂で、空を仰ぎながら湯に浸かっていた。散りばめられた星を眺めながら、橘はそっと口を開く。

 「傑の本心は分かんねーけど、あんな可愛い子、何も言わず、いつまでも側にいてくれると思ったら大間違いだぞ」
 
 「……」
 
 橘は、五十嵐が何を考えているか言わなくても分かっていた。五十嵐は、昔から冷酷なだけに行動が分かりやすい。それに、当の本人は気づいていないが、意中の人の話をすると、黙る癖があった。親友である橘は、そんな五十嵐の性格を分かった上で、敢えてこれ以上は聞かないよう、言葉を締めた。

 「色々後悔しねーようにな…。じゃ、俺そろそろ出るわ〜。また帰ったら飯でも行こーぜ」

 「…あぁ。また帰ったら連絡してくれ」

 橘は、先に風呂から上がり、露天風呂の入り口のドアを開け、手を上げながら出て行った。
 一人になった五十嵐は、もう一度、輝く星空を眺めた…。

 (後悔しねーようにか…)

 澄み渡った涼しい夜風が、濡れた顔に心地良く伝っていく。
 梛七も、誰もいない女湯の露天風呂に一人で浸かっていた。目隠しの塀を挟んだ隣に五十嵐が居るとも知らず、梛七も輝く星空を静かに眺めていた。
 

 ◇◇◇
 

 五十嵐は大浴場を出て、フロントの横にある売店で、缶の発泡酒と酎ハイを何本か購入した。
 
 (あいつはまだ帰ってきてねーか…)

 誰もいない部屋に戻った後、設置されていた小さな冷蔵庫に、売店で買った酒類を入れ、濡れたタオルを洗面室の竿に引っ掛けた。ガチャという音が部屋の入り口から聞こえ、頬の熱ったナチュラルな梛七の顔が鏡に映った。

 「先に戻られてたんですね」

 「あぁ。俺も今戻ってきたとこだ…。タオルもらうぞ」

 五十嵐は梛七から濡れたタオルを受け取り、同じように引っ掛け竿にかけた。

 「顔、そんな変わんねーんだな」

 「そ、そんなまじまじと見ないでください〜」

 梛七のすっぴんを、物珍しそうに眺める五十嵐。梛七は、顔を赤らめながら、恥ずかしそうに手で顔を覆い隠した。
 
 「一緒に飲むか?」

 冷蔵庫で冷やしていた発泡酒を取り出し、グラスを梛七に渡す。二人分のグラスにビールを均等に注ぎ、ソファーに並んで座った五十嵐と梛七は、おつかれ、と乾杯のグラスを重ねた。
 
 「今日は疲れたろ」

 「は、はい。でも、とっても充実していました」

 「そうか。こういうのがあると挨拶周りばっかで…色々と、付き合わせて悪かったな」

 「い…いえ、そんな気にしないでください。先生のお知り合いの方に沢山お会いできたので、とても貴重な体験でした。それにしても、先生は、お顔広いんですね」

 梛七は、ビールの入ったグラスを持ち、ゆっくりと渇いた喉を潤す。五十嵐は、グラス一杯のビールを楽々と飲み干し、冷蔵庫からもう一本の発泡酒を取り出した。

 「まぁ、俺の顔見知りが多いのは、親父の影響もあるだろうな」

 「確かに。渡先生が勝先生のご友人でらっしゃるぐらいですしね。あ、先生の親友でらっしゃる、橘先生でしたっけ?お二人のやり取り、とても面白かったです!」

 「そうか?まぁー、あいつは、いつもあんな感じだ。ずっと大学ん時から一緒にやってきた奴だから、お互いのことは何でも知ってんな。伊東もあいつのこと知ってるぞ」

 「へぇ〜。そうなんですか。今度、伊東先生に聞いてみます!」

 「そうだ、話変わるが…今日、学会で言っていた新薬。うちでも使おうと思うんだが、どうだ?先日、伊東もこの新薬の学術資料を、俺んとこに持ってきたんだ」

 梛七の空いたグラスを見て、五十嵐は何を呑むか尋ねる。冷蔵庫を開けて梛七は、レモン酎ハイを取った。空いたグラスに半分ほど入れて、残りは五十嵐のグラスに注いだ。

 「賛成です!治療の時間も、だいぶ短縮できますよね?」

 「あぁ。治療時間もそうだが、患者の負担もだいぶ減るだろう」

 五十嵐と梛七は、学会で話していた新薬について、もう少し深く掘り下げて話を始めた。梛七が学会でメモを取っていた聞き覚えのない専門用語も、五十嵐は、分かりやすく説明した。
 
 つい、五十嵐と梛七は深く話し込んでしまい、ふと時計を見ると、深夜0時を回ろうとしていた。

 「そろそろ、寝るか…。俺はここで寝るから、お前はベッドで寝ろ」

 「ダメです…先生がベッドで寝てください。私がここで寝ますから…」

 五十嵐は梛七の言葉を聞かず、持参してきた歯ブラシを持って洗面室へ行く。梛七も同じく持参した歯ブラシを持って、聞いてます?、と言いながら、鏡の前にいる五十嵐の横に並んだ。
 歯磨きを終えた五十嵐は、先に部屋へ戻り、ソファーの所で横になろうとしていた。

 「先生、本当にダメです…。明日、帰りの運転もありますし、お願いですから…ベッドで寝てください」

 「お前をソファーで寝かせて、俺がベッドで寝れるわけねーだろ…」

 このままだと埒が明かないと思った梛七は、少しムスっとして、ソファーに置いてあった五十嵐の枕を奪った。

 「おい…何すんだ」

 「だったら…ここで…、一緒に…寝ましょう…。先生が隣なら…私は…大丈夫なので…」

 お酒で少し酔っていたからだろうか。自分らしからぬ大胆な行動に、梛七自身も驚いた。でも、こうでもしないと、五十嵐は言うことを聞いてくれない。もう強行突破だった。

 「はぁ…。分ぁったよ。でも、お前もここで寝るんだぞ。いいな」

 五十嵐は勢いよくベッドに上がり、右側に寄った。内側に折り曲げられていた掛け布団を足で広げ、梛七を見る。

 「早く来いよ」

 「は、はい…。横…失礼します…」

 梛七は、仰向けに寝転がっている五十嵐の左横に、そっと身を沈めた。五十嵐は少しだけ上体を起こしながら、部屋の照明を落とす。

 暗く静まり返る部屋からは、互いの吐息だけが静かに聞こえてきた。

 「眠れるか…?」

 「は、はい…」

 「朝起こしてやるから、ゆっくり寝ろ」

 「はい…おやすみなさい」

 「おやすみ」

 五十嵐は梛七に背を向け、掛け布団を首元まで擦り上げた。掛け布団と梛七の間に大きな隙間ができる。隙間を伝う冷気に気づいた五十嵐は、悪い、と言って仰向けに体勢を戻し、梛七に掛け布団を掛け直した。
 身体は触れ合っていないが、お互いの温度と安心感が緊張を溶かしていく。右側にいる五十嵐の温もりを体温で感じた梛七は、眠りの奥底へと沈んでいった。
 

 ◇◇◇


 遮光カーテンの縁から朝日が漏れる。
 オレンジ色の光が部屋を薄明るくする頃、五十嵐はゆっくり目を覚ました。左腕に何かが触れているのを感じ、梛七の華奢な右腕が重なっていることに気づいた。久しぶりに感じる人肌。こんなにも落ち着くものだっただろうか、と五十嵐は寝起きの頭で、ぼんやりと思った。
 首を左横に向けると、すやすやと寝息を立てている無防備な梛七の素顔がすぐ近くにあった…。
 五十嵐は、すぐに目線を天井に移し、敢えて体勢を崩さず、もう一度、目を瞑った。
 
 しばらくすると、梛七が寝惚け眼を擦りながら、ゆっくり目を開けた。左側に目線を移すと、すぐ横で五十嵐がiPhoneのニュースアプリを読んでいるのが見えた。
 五十嵐の左腕に自分の腕が重なり合っているのを感じ、梛七は慌てて右腕を退ける。

 「おはようございます先生。ご、ごめんなさい…腕、乗せてしまって…」

 「お。起きたか。おはよう。別に気にしなくていい」

 梛七は、寝ぼけ声で続ける。

 「眠れましたか?」

 「あぁ。いつも以上に」

 「なら良かったです」

 「お前は?」

 「私も、よく眠れました」

 「そうか。良かった。じゃ、朝食食いに行くか」

 五十嵐は見ていたiPhoneを閉じて、勢いよく起き上がった。梛七は両手を上げて身体を伸ばし、洗面室へ行く五十嵐の大きな背中を見ながら、上体を起こした。
 

 ◇◇◇
 

 支度を整えた五十嵐と梛七は、朝食を食べる個室に入り、向かい合うテーブルに腰を下ろした。温かい珈琲とカフェラテを頼み、ゆで卵とミニサラダ、トースト一枚とフルーツヨーグルトが乗った、朝食プレートが運ばれてきた。

 「なぁ。このあと、アウトレットでも行かないか?」

 「え?いいんですか!実は、ずっと行きたいと思ってたんです」

 梛七の目がきらきらと光る。アウトレットでしか買えないお皿を、ずっと買い足したいと思っていたのだ。五十嵐もどうやら買いたいものがあるらしい。梛七たちは、サクッと朝食を食べて、荷物が置いてある五十嵐の部屋へ戻った。
 
 「忘れ物はないか」

 「ないと思います…」

 梛七は、辺り一面をもう一度見渡した。五十嵐と一緒に過ごした特別な時間を走馬灯のように思い出す。
 梛七は、着てきていた黒のチェスターコートをはおり、少し巻いた髪を揺らしながら、ドアを開けて待っていた五十嵐の所に向かった。
 

 ◇◇◇
 

 1時間ほど車を走らせ、目的地のアウトレットへ到着した。朝よりも晴れ間が広がっていて、歩くには丁度いい気温になっていた。来場者も多く、それぞれの店通りで賑わいを見せる。
 
 行きたい店があったら言えよ、と五十嵐から言われ、早速ここに行きたい、と梛七は五十嵐を連れて、フランスのキッチンウェアブランドの店に入っていった。

 「あ〜可愛い…どれにしよう…」

 「お前、食器好きなのか?」

 「ん〜、食器が好きというよりも、ここのキッチンウェアで料理をするのが好きなんです。ここの食器は丈夫なんですよ。なので一緒に揃えてるって感じです」

 「へぇー。お前、料理すんのか?」

 「あっ、はいっ。と言っても、レシピ本に書いてあるようなものしか作れないんですけどね〜」

 五十嵐は梛七の新たな一面を知った気がした。手料理など、ここ数年まともに食べていない。実家に顔を出した時に、母親の明美(あけみ)が作った食事を食べるぐらいで、普段は適当に済ませてしまっている。五十嵐は、梛七が作る温かい手料理を、少しだけ食べてみたくなった。
 梛七は、程よい大きさのリム皿を2枚購入し、会計を済ませていた。歩いている最中に割れてしまわないよう、一旦、車へ置きに戻り、再び店通りを二人で歩き始めた。

 「先生は、何か欲しいものあるんですか?」

 「そうだな…仕事用のインナーが欲しいと思ってる」

 いつも五十嵐は、黒や青のスクラブの下に黒の長袖インナーを着て腕を捲っている。特定のブランドのものを着ているらしく、今からそこの店に行くというのだ。
 五十嵐についていくと、誰もが知っている有名なイタリアブランドの店に到着した。

 「ここ」

 「先生、ここの服着てるんですかっ?」

 「まぁ。でもそんな全部じゃねーぞ」

 五十嵐はスタスタと中に入り、好きなのを見てていいから、と言って、メンズの服が置いてあるコーナーへ歩いていった。五十嵐は、スタッフの声かけに応じ、提案されたものを見ていた。梛七は店内に並んでいるバッグや靴を眺めながら、タグについていた値段を見て一人驚愕する。

 (うぅ…高っ…)
 
 店内を全て見て回り、五十嵐とスタッフが話しているところに梛七もそっと合流した。
 五十嵐が買おうとしている、3枚のインナーセットを見て、レディース用もあったらいいのになぁ、と梛七は思った。

 「あ、女性のお客様もいかがですか?同じものがレディースでも展開しております」

 「え?本当ですか?」

 梛七は思わず、目を開き、食いついてしまった。
 スタッフが奥から、五十嵐が選んだものと同じ商品のレディース用を持ってくる。

 「あ、ありがとうございます。とってもいいですね」

 広げてもらったインナーを見て、デザインや素材の良さが十分に伝わり、五十嵐がこだわって着ている理由が分かった。

 「じゃ、それも一緒で」

 「え…?そ、そ、そんな…先生…」

 五十嵐は、梛七の分も一緒に会計をするよう、何食わぬ顔でスタッフに頼んだ。驚きを隠せないまま遠慮する梛七に、滅多に見せない優しい顔つきで、こう続けた。

 「昨日、今日と付き合ってくれたお礼だ。受け取っておけ」

 スタッフに連れられて、キャッシャー前に案内された五十嵐は、ブラックカードを提示し、しれっと会計を済ませた。それぞれに包んでもらった袋をスタッフから受け取り、呆然と立ち尽くす梛七にさり気なく渡した。

 「はい、これ。誰にも言うなよ」

 「ほ、本当に受け取っていいんですか…。あ、ありがとう…ございます…」

 梛七は目を潤わせ、泣きそうになった。心を寄せている人からの思わぬ贈り物に、胸がいっぱいになった。

 「一生大事にします…」

 「こんなの一生もんじゃねーよ」

 五十嵐はクスッと笑いながら、店の入り口のドアを開けた。

 「そろそろ帰るか」

 「は、はい」

 お互いの買い物に付き添い、新たな一面を知った五十嵐と梛七は、まるで付き合っている間柄のように、仲睦まじく横に並んで歩いていった。
 

 ◇◇◇
 

 車に乗り込み、また高速道路へと車を走らせた。雲一つない青磁色の空が、どこまでも続いていた。五十嵐と梛七は、行きと同じく大きなサービスエリアで、簡単な昼食を取り、所々、背中を伸ばしながら更に帰路を進めた。
 段々と家に近づくにつれ、梛七の口数が減る。

 「どうした?急に喋らなくなって。具合でも悪いか?」

 「い、いえ。違います。楽しかったなぁ…と思って。久しぶりに遠出したので。明日からまた、いつもの日常に戻ってしまうと思ったら、何だか急に…あ、すみません」

 五十嵐と一緒にいた時間が、楽しかったとは直接言えなかったが、本心に限りなく近いニュアンスで、梛七は答えた。

 「そうか。楽しいと思ってくれたんなら、良かった」

 五十嵐は正面を向いたまま、表情を少しだけ緩めた。
 
 そして、車が、梛七の家の前にある来客用駐車場に到着した。それぞれ車から降り、五十嵐は後ろのトランクから梛七のキャリーケースを取り出す。

 「先生、本当に色々と、ありがとうございました。また明日からも、よろしくお願いします。これ、大切に着ますね」

 五十嵐が買ってくれたインナーの入った袋を、少し持ち上げ、笑みを返した。

 「あぁ。また明日から頼むな。じゃまた」

 五十嵐も、優しい笑みを返す。
 車に乗り込んだ五十嵐は、運転席の窓から梛七に向かって軽く手を上げ、そのままウィンカーを出し、車は大通りへと消えていった。
 
 梛七が見上げた空は、オレンジと水色が入り混じった夕暮れを模っていた。今まで流れていた五十嵐との時間を連れ去っていくかのように、ゆっくり夕日が沈もうとしていた。梛七は、思い出の詰まったキャリーケースを持ち上げ、玄関までの階段を勢いよく駆け上がっていった。
 
 後部座席に無造作に置かれていたチェスターコートの中で、五十嵐のiPhone画面が静かに光った。
 ……………………………‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 メッセージ +81 90 3584 20150
 4月8日 16:38
 久しぶり。元気してる?
 傑のことが気になって連絡しちゃった〜
 ねぇ、また会えない? 天宮恭子
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