「はい、これ」

 「わぁ〜、ありがとうございますっ」

 梛七は、同じサンドウィッチが2つ並んで入っている茶色い紙袋を、五十嵐から受け取った。
 パン屋のリリーで、五十嵐が買ってきてくれた具沢山のサンドウィッチは、いつも以上にツヤツヤで、美味しそうに見えた。何も伝えていなかったが、梛七がいつもクリニックで飲んでいるカフェラテも、さり気なくドリンクホルダーに用意されていた。

 「俺にも一つ、くれるか?」

 「は、はいっ。袋開けますね」

 梛七は、サンドウィッチが包んである、透明の包装袋のイージーカット部分を捲り、ワンカット分を取り出して、五十嵐に渡した。
 
 「なんか、いつもと違う雰囲気だな」

 「…ん?わたしですか?」

 梛七は、含み声で返事をし、サンドウィッチを一口頬張った顔で、五十嵐の横顔に向かって首を傾げた。
 前方を見ていた五十嵐も、一瞬だけ梛七の方を見る。

 「髪、下ろしてるからか…」

 視線をすぐに戻した五十嵐は、納得したようにボソッと呟き、持っていたサンドウィッチを口に含んだ。
 高速道路まで車を走らせながら、五十嵐と梛七は、普段とは違うお互いの雰囲気を伝え合い、視界から入る情報を相互に馴染ませていった。
 
 高速道路に入る手前で信号が赤に変わり、前方の車に沿ってゆっくりと車が停止する。
 梛七の右側の肩に乗った髪に、何かを見つけた五十嵐は、左腕をそっと伸ばし、梛七のふんわりとした巻き髪に触れた。梛七は、右肩に何かが当たったと感じ、肩をぴくりと上げて五十嵐の方を向いた…。

 「ほこり」

 五十嵐は、人差し指と親指で挟んだ薄白い埃を梛七に差し出し、クスッと笑う。

 「そんなビックリすんなよ」

 「い、いや、その…ありがとうございます…」

 久しぶりに五十嵐の笑った顔を見た梛七は、照れ笑いを含んだ声色をこぼし、一緒に顔を緩ませた。
 ポーン、という機械音と同時に外のETCのゲートが開く。微笑ましい空気が流れていた五十嵐の車は、目的地まで続く高速道路へと入っていった。
 
 高速を走る車内では、今日の学会についてと、新しく会長に就任した渡修一(わたるしゅういち)先生のことについて話をしていた。

 「渡先生は、俺の大学時代ん時の先生で、色々と世話になったんだ。俺の親父の友人でもあるから、昔っから家族ぐるみで付き合いがあって、ガキの頃から可愛がってもらってる」

 「そうだったんですか。だから、今日の学会は、伊東先生じゃなくて、五十嵐先生だったんですね。まさか、勝先生のご友人でらっしゃるとは…。今日、ご挨拶できるといいんですが…」

 五十嵐と渡先生との意外な繋がりを知った梛七は、失礼のないよう立ち回らなければと肝に銘じた。

 「できると思うぞ。まっ、今日のパーティーでは、挨拶周りが中心になるかもしれねーけど、お前は一人にならねーように、俺の横にいればいいから」
 
 (俺の横にいればいいから)

 梛七は、思いがけない五十嵐の言葉に小さく頷き、頬がじんわりと朱色に染まっていくのを感じた。
 
 眩しさを感じ始めた五十嵐は、アームレストボックスからブラウンレンズのサングラスを取り出す。

 「今日は、長い一日になりそうだ…。よろしく頼むぞ」

 梛七は、サングラスをかけた五十嵐の横顔にしばらく見惚れてしまう。蚊の鳴くような声で、はいっ…、と返事をしてしまった。今日は、普段よりも一層、五十嵐との距離が近い。車内の空気が、その気持ちをより強くさせる。梛七は五十嵐から目線を逸らし、助手席側の窓から伸びる晴天の青空に想いを馳せた。
 
 中休みを取ろうと大きなサービスエリアに停車し、五十嵐と梛七は車から降りて背中を伸ばした。そしてまた車を走らせ、今日の目的地であるロイヤルパッシュホテルに無事到着したのだった。
 

 ◇◇◇ 
 

 温泉街に聳え立ったホテルの豪勢な佇まいに、車から降りた梛七は、目を輝かせた。
 キャリーケースを引きながら入り口に入ると、そこには、現代的なデザインで調和された和と洋の美しい空間が、辺り一面に広がっていた。ロビーの中心には、竹の葉たちが沢山並び、ほのかに香る自然の香りたちが、五十嵐と梛七を出迎えているようだった。
 
 「美歯会の五十嵐様、脇田様、お待ちいたしておりました。本日は、遠方より当ホテルにお越しくださいまして、誠にありがとうございます。こちらは、それぞれのお部屋のルームキーでございます。何かございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」

 洗練されたもてなしを受けた後、チェックインを済ませ、五十嵐と梛七はそれぞれのルームキーを持って、三台あるエレベーターの前に立った。

 「まだ少し時間あるから、俺は少し部屋で休みたい。13時50分になったら、またここに集合でもいいか」

 「もちろんです。運転でお疲れだと思うので、少しお休みになってください」

 五十嵐は7階、梛七は6階の部屋にそれぞれ割り当てられたルームキーを確認し、梛七が先にエレベーターを降りる。

 「では、また後ほど」

 「あぁ、じゃーな」

 閉まっていくエレベーターを見送り、梛七はルームキーに記されている601号室へと向かった。
 

 ◇◇◇

 
 梛七の部屋は、広い空間にシングルベッドと鏡台、壁にテレビが設置してあり、日がしっかりと差し込む明るい空間だった。バスルームとトイレは別になっていて、アメニティー1つ1つが高級なものだった。待ち合わせ時間まで40分ほど時間がある。梛七は、キャリーケースからパーティー用のワンピースを取り出し、引っ掛けておこうとクローゼットを開けた。

 (ん…?何か変な臭いがする…)

 ほんの一瞬だった。鼻の奥がツンとなるような薬品の臭いが、クローゼットからしたような気がした。ワンピースは念の為、ベッドの上に寝かせるようにして置き、開けていたクローゼットの扉を閉めた。

 (ん〜。今は何も臭わないからなぁ…。私の気のせいかな…)

 臭いのことは若干気にしながらも、梛七は、続きの荷解きを進めていく。
 そうこうしていたら、あっという間に、待ち合わせ時刻に近づき、梛七は、筆記用具と貴重品だけを持って、急いで待ち合わせのロビーへ向かった。 
 先に来ていた五十嵐を少し待たせてしまった梛七は、すみません、っと言いながら、五十嵐の横について学会の会場があるフロアへと歩いていった。
 

 ◇◇◇
 

 迷路のような廊下を歩いていくと、「美歯会定例総会•学術大会 会場」と書かれたホールの前に辿り着く。 五十嵐と梛七は、受付に用意されていた来場者名簿に、それぞれの名前を記入し、会場の中へと入っていった。五十嵐と梛七は隣同士の椅子に座り、会話などが随所から聞こえてくる賑わった会場の中で、開演を待った。

 「疲れてねーか?」

 突然、左側にいた五十嵐が、右側にいる梛七の方に少しだけ頭を傾け、梛七の耳元に近づいて呟いた。
 梛七も咄嗟に五十嵐の口元に耳を近づけ、五十嵐の言葉を拾う。

 「私は、大丈夫ですよ。先生こそ、大丈夫ですか…?」

 五十嵐は聞き取れなかったようで、梛七の口元に耳を近づけてくる。梛七は、もう一度、同じ言葉を五十嵐に繰り返した。
 すると、五十嵐の口元が梛七の顔の横に近づき、五十嵐はそっと梛七の耳元で囁いた…。
 
 「お前がいれば、俺は大丈夫だ」
 
 五十嵐は、何事もなかったかのように、椅子に深く腰をかけ、受付で貰った冊子に目を向けた。梛七は、膝の上に乗せていた冊子にゆっくりと目線を移し、朱色に染まった照れ顔を、垂れ下がる横髪で隠した。
 
 賑わっていた会場が静まり返る。進行役の女性が、壇上脇に設置してあるマイクに向かって挨拶を始め、こうして2時間の学会がスタートした。
 
 定例総会
 新会長 挨拶
 活動会計の現状報告
 
 学会内容
 •歯根に関する新薬を用いた医学的解析と結果
 •歯周病と呼吸器疾患との関連と解明
 •歯周病とウィルス、細菌等の関連と解説
 •新ホワイトニング材の漂白効果と分析
 •超高齢社会の今、私たち歯科医療に求められていることは何か
 
 梛七は、全ての内容にメモをとっていた。聞き覚えのないワードには、後で五十嵐に聞こうと小さく丸を囲った。興味深い内容が多く、梛七は真剣に耳を傾けていた。
 五十嵐は椅子に深く腰を掛け、ずっと正面を向いたまま、登壇に立つ先生たちを見ながら傾聴していた。
 
 2時間座りっぱなしの学会が終盤に差し掛かった頃は、さすがに会場内の集中力も途切れ始めているように感じ、梛七もメモを取ることをやめ、聞くことに専念した。五十嵐も、時折、目頭を押さえたりしながら眠むそうな目を誤魔化していた。
 
 最後の登壇者が袖に向かい、拍手が湧き起こる。
 進行役の女性が脇に立ち、マイクを握った。

 『それでは、これをもちまして本日の学術大会は終了となります。皆さま、長時間ありがとうございました。この後のご案内をさせていただきます。十七時から同会場内で新会長の就任パーティーを予定しておりましたが、場所の変更があり、出入り口で紙をお渡ししますので、ご確認をお願いいたします』
 
 五十嵐と梛七はゆっくりと立ち上がり、混み合う出入り口の方へと向かった。

 「疲れたな…」

 「長かったですね…」

 ホテルの従業員が配っていた変更案内の紙を受け取り、ロビーの方まで一緒に歩いていく。

 「着替えたりするだろうから、10分前にここに書いてある所に集合でいいか」

 「はいっ。大丈夫です。そこに行きますね。ではまた後ほど」

 梛七は、先に来たエレベーターに乗り、五十嵐は、次のエレベーターに乗って、それぞれの部屋まで戻っていった。
 

 ◇◇◇
 

 梛七は部屋に戻り、ベッドの上に寝かせておいた、黒のロングフレアワンピースに着替えた。
 V字に開いた胸元に、一粒の小ぶりなダイヤのネックレスをつけ、耳には同じ小ぶりなダイヤのピアスをつけた。絞ってある長袖を肘まで上げ、腕周りに動きを出す。左腕には、母から譲り受けた宝石メーカーの時計をつけ、ヒールの高いベージュの靴に足を入れた。
 髪型はふんわりと巻き直し、少し動きをつけたハーフアップにした。最後に、軽い化粧直しをして、落ちにくいピンクベージュのルージュで唇を覆った。

 (そろそろ、行かなきゃ…)

 梛七は、iPhoneが入るぐらいの小さなパーティーバッグを持って、足早に部屋を出た。
 
 五十嵐は、白シャツに黒の細めなネクタイを締め、黒のオーダースーツを纏ったシックな装いで、会場の入り口付近に立っていた。
 顔立ちが良く、長身で、シンプルなスーツを上手く着こなしている五十嵐は、誰よりも目立ち、会場に来ていた女性たちを魅了していた。そんな参加者たちが、五十嵐を横目に続々と会場内へ入っていく。
 五十嵐は左腕を振り下ろし、腕にはめていた時計を見る。
 そろそろか…、と目線を先に戻した瞬間、息を呑むほど美しい梛七の姿が、五十嵐の目に飛び込んできた。
 黒いワンピースから揺れる華奢な腕、歩くたびにチラッと見える華奢な足首、V字の胸元から溢れる色気。
 髪を下ろしていた姿も新鮮だったが、そんなもの非でもないぐらい、五十嵐は、こちらに向かってくる梛七の姿に見入ってしまった…。

 「お待たせしました」

 「……」

 「先生?どうかしました?」

 「いや…、別に…。行こうか」

 五十嵐は、冷静を装うと歩きながら、空けていたスーツのボタンを締めた。梛七は少し緊張した様子で、五十嵐の背後からついて歩き、五十嵐と梛七は大きな会場の中へと入って行った。
 

 ◇◇◇
 

 「よぉ〜、傑ぅ〜元気か?」

 「お〜!久しぶり。橘、お前も来てたのか」

 五十嵐の大学時代の同期で、親友でもある橘青志(たちばなあおし)が、小洒落たネイビーのスーツ姿で、五十嵐に声をかけてきた。

 「(あ)たりめーじゃん。俺らの先生だぜ?いやっ、そんなことより、ちょっと傑ー。聞いてねーぞ、俺は。なになになに。傑の彼女?」

 「ちげーよ…。一緒に働いてるスタッフだ」

 五十嵐は梛七の方を向いて、梛七の姿を紹介する。

 「あ、初めまして。五十嵐先生にお世話になっています、衛生士の脇田梛七と申します」

 橘は、梛七を見て、前に五十嵐が面倒を見てると言っていた子はこの子かぁ〜、と納得した。

 「ななちゃんね、俺、橘青志。これでも一応、傑と一緒で口腔外科医兼歯科医師。よろしく〜。ねぇ、傑にいじめられてない?ダイジョーブ?何かあったらすぐ俺に言ってね。この人、ほんと冷酷だから〜」

 「うっせーぞ。お前…」

 橘の自己紹介に少し笑ってしまった梛七は、五十嵐と橘の仲の良さを知り、二人のやり取りを面白く眺めていた。

 「あ、そーいえば、さっき純子(じゅんこ)先生いたぞ〜」

 「そうか。渡先生と一緒に来られてんだ。見かけたら挨拶…」

 「フフ、ここに居るわよ〜五十嵐くん。お元気?」

 橘の後ろから、着飾ったワンピースを着た小柄な年配の女性が、ひょいっと姿を現した。純子先生は、渡修一先生の妻であり、現役の上級歯科医でもある。

 「純子先生!そんな所から出て来られたんで、びっくりしましたよ〜。あ、この度は、ご主人の会長就任おめでとうございます」

 五十嵐は、純子先生に向かって驚きながらも、丁寧に頭を下げた。続けて梛七も頭を下げる。

 「あら、会えて嬉しいわ〜五十嵐くん、今日は遠方からわざわざありがとうね〜。まさか、あの人がね〜私も驚きよ。で…そちらの素敵な方は?」

 「あぁ…。うちのスタッフの歯科衛生士で…」

 五十嵐は、横にいた梛七を見て純子先生に紹介した。

 「初めまして。五十嵐先生にお世話になっております、衛生士の脇田梛七と申します。よろしくお願いいたします」

 優しい眼差しで梛七を見つめていた純子に、梛七も柔らかい笑顔を見せる。

 「まぁ〜素敵な方ね。フフッ。主人とも話していたのよ。あの五十嵐くんが女性と一緒に来ると言うから、どんな方なんだろうか〜って。まさかこんな可愛らしい方を連れて来るだなんてね」

 「本当っすよ〜、こんな可愛い子連れてくるなんて、親友の俺も知らされてなかったんですから〜」

 橘も純子先生に便乗しながら、何も聞かされていなかったことを拗ねた。

 「いや…、そんな深い意味はないんすけど…」

 五十嵐は戸惑ったように濁し、梛七もそんな、そんな、と照れながらやんわり否定した。

 「フフフ。あ、ごめんなさい、私ちょっと向こうに挨拶行かなきゃならないから、これで失礼するわ〜。お二人とも仲良くね〜、橘くんもまたね」

 挨拶回りに忙しい純子先生は、五十嵐と梛七のやんりした否定は間に受けず、颯爽と次の挨拶へ向かっていった。
 橘も、じゃあ俺も、と五十嵐の肩をポン、と叩いてすれ違った先生と談笑を始めた。
 
 「悪いな…」

 「いえ、全然お気になさらないでください」

 梛七は、五十嵐の顔見知りの人たちと挨拶できたことが思いのほか嬉しくて、全く苦痛を感じていなかった。
 それからも続々と、五十嵐の先輩や後輩、顔見知りの先生たちの挨拶周りに付き添い、一旦区切りがついたところで、壇上から渡修一先生の就任スピーチが始まった。
 

 ◇◇◇
 

 「ただいま、ご紹介に預かりました渡修一でございます。皆さま、本日はお忙しい中、私の就任パーティーにお越しくださいまして、誠にありがとうございます。この度、美歯会会長に就任いたしまして━︎━︎━︎━︎━︎━︎━︎━︎━︎」
 
 (この方が、先程お会いした奥様のご主人…。五十嵐先生の先生だった方なんだ…)

 グレーのスーツにお洒落な蝶ネクタイをつけ、いい感じに纏められたグレージュヘアーに丸眼鏡がとても似合っている。
 
 渡先生の簡単なスピーチが終わり、盛大な拍手とともに立食パーティーが始まった。お酒を含んだ飲み物と、ケータリングのような軽食がバイキング形式で並べられていく。時刻は18時を回ったところだった。
 
 「おっ〜!傑くんじゃないか〜久しぶりだな。元気だったか?」

 「渡先生、お久しぶりです。お陰様でこの通り」

 スピーチを終えた渡先生は、壇上を降りた後、真っ先に五十嵐の元へ歩いてきた。

 「相変わらず、イケメンだね〜。壇上からすぐ分かったよ〜。あっ、さっき純子からも聞いたんだが…隣にいる子は傑くんの?」

 「あぁ、ご紹介が遅れました。僕と一緒に働いてくれているスタッフの…」

 五十嵐は、梛七の方に手を差し出して、渡先生に梛七を紹介する。

 「初めまして。五十嵐先生にお世話になっております、衛生士の脇田梛七と申します。よろしくお願いいたします」

 梛七は軽く頭を下げ、奥様と同様、丁寧に挨拶をした。

 「ほぉ〜。素敵な方じゃないか〜傑くん。ななさんね、覚えておくよ。傑くんのことよろしく頼むね。まぁ二人とも、今日はゆっくり楽しんでってよ〜。じゃ〜僕は次に行かなきゃならないから、これで失礼するね」

 渡先生は、五十嵐と梛七に軽く手を振り、次のテーブル席へと向かった。就任パーティーということもあって、主役の渡先生は、記念写真や談笑に次々と応待していった。
 
 「脇田、悪い。少し席を外してもいいか?ちょっと橘んとこ行ってくる」

 「あっ、はい。全然大丈夫ですよ〜。私はここに座っていますね」

 五十嵐は、すぐ戻る、と梛七に言い残し、橘と話をしている製薬企業の営業マンのところへ歩いていった。

 (今日の五十嵐先生は本当にカッコいいなぁ…。スーツも良く似合ってて…他の女性たちの視線も釘付けにしてる…)

 そんな五十嵐の容姿を遠目から見ていた梛七は、急に焦りのような不安と、締め付けられるような苦しさに襲われ、居苦しくなった。梛七は、慌ててグラスに入っていた少量の水を飲み、濁っていく気持ちを水で薄めた。
 
 
 五十嵐が離れてしばらくすると、派手なスーツを着た見知らぬ男性が、水の入ったグラスとケータリングのカクテルを持って、梛七に近づいてきた。

 「お一人ですか?お隣、失礼します。ずっと素敵な方だなぁと思って見ていました」

 (な…なにこの人…お酒臭っ…)

 「こんな美しい人が一人でいるだなんて。何か特別なことが始まりそうだ…なーんて。あ、僕。この近くで歯科医をしている藤田と申します。お名前は?」

 「…わ、脇田と申します…」

 梛七は、五十嵐の顔見知りではないと判断し、小さな声で恐る恐る名乗った。

 「脇田さん、この後どうですか?二人で。僕、今日、いい部屋取ってるんですよ〜」

  梛七は顔を引き攣り、目を逸らす。酒に酔った藤田の目からは、卑猥なことを企んでいるオーラが滲み出ていた。顔を近づけてくる藤田を拒み、梛七は深く俯く。
 拒否反応を示す梛七にそそられた藤田は、大丈夫ですよ…そんな悪いことしませんから、と肩に乗った梛七の髪にそっと触れ、梛七は下を向いたままビクッと肩を窄めた。更に興奮した藤田の手が、いやらしく梛七の肩に触れようとした瞬間、五十嵐がその手を力強く捕んだ。

 「そんぐらいにしておけ…」

 ドスの効いた低い五十嵐の声が梛七の耳に入る。

 (せ、先生…)

 梛七は、はっと顔を上げ、座っていた椅子から立ち上がり、五十嵐の横に身を隠した。
 藤田は、苦笑いをしながら五十嵐に捕まれた手を乱暴に離したが、五十嵐の殺気立った目を見て怖気付く。

 「はは…」

 「脇田、行くぞ」

 五十嵐は、藤田を横目で追いやり、横にいた梛七の細い手を掴んだ。梛七は突然のことに驚いたが、五十嵐はそのまま強引に梛七の手を引き、賑わっている会場の外へ連れ出した。

 「部屋まで送る」

 五十嵐は少し苛立っているように見えた。ロビーのエレベーターから6階にある梛七の部屋に着くまで、五十嵐はずっと梛七の手を離さなかった。

 「悪かった…嫌な思いさせて」

 「い、いえ…。先生が来てくださったお陰で…助かりました…。ありがとうございます…」

 梛七は、五十嵐の握っている手を強く握り返した。

 「もう疲れただろ…ゆっくり休め」

 「はい…。先生も。おやすみなさい」

 「おやすみ」

 五十嵐と梛七は、互いに握っていた手をゆっくり離し、梛七はルームキーで部屋の鍵を開ける。五十嵐は背を向け、エレベーターの方へと歩いていった。
 
 部屋に入った梛七は、閉めたドアの壁にもたれながら、持っていたバッグを力なく床に落とし、さっきまで五十嵐と繋いでいた手を、そっと胸に当てた…。