午後のクリニックは予想通りの混雑具合だった。

 診療開始時間は14時からだというのに、13時半には既に待合室が賑わっている。午後からは矯正の診療も始まる為、伊東肇(いとうはじめ)先生の姿もあった。伊東は、五十嵐と同じ大学の一つ下の後輩で、当院では矯正専門医として役割を担っている。以前は、総合病院の歯科医として働いていたが、五十嵐の熱烈なスカウトに負けてしまったんだとか。
 
 「わっきー、みなみん、お疲れさま。いやぁ〜コロナは参ったよ。迷惑かけてすまなかったね〜」

 伊東はフランクな挨拶に付け加え、コロナに罹患し急な有休を取ってしまったことを謝った。誰にでも陽気に振る舞い、人の懐に入るのが上手い伊東は、性格も温厚だ。患者の前では言わないが、梛七のことを(わっきー)、南のことを(みなみん)と渾名で呼び、これはスタッフの間でも使われている。

 「伊東先生、おはようございます。無事にご復帰されて良かったです」

 「ほんとにっ。もう予約の変更、大変だったんですからね〜」

 南は少し膨れながらも顔は綻んでいた。伊東が休んでいた間は酷く気を落とし、誰よりも陰で心配していた。そんな南の様子を知らない伊東は足早に「また何か甘い物でも差し入れするから許して〜」と手を振りながら、カルテが並ぶ受付へと去って行った。
 
 午後のクリニックでは、虫歯の治療、入れ歯やブリッジの矯正、抜歯、スケーリング、歯の型取り、ホワイトニング、一般矯正、小児矯正、定期検診等のあらゆる診察が目紛しく過ぎていく。

 全ての診察を終えたのは18時を回った頃だった。
 

 五十嵐は酷く疲れた顔をしながら、伊東と明日の打ち合わせをする。

 「お疲れさまで〜す。五十嵐先生。今日は多かったすね。僕が休んでしまったせいで申し訳ないっす…」

 「いや、それは仕方ない。大丈夫だ。明日も忙しくなりそうだが、よろしく頼む」

 「はい!よろしくお願いします」

 陽気な伊東を背にして、五十嵐は院長室へ戻り、疲労感で滲む溜め息を漏らした。
 脱いだ白衣をハンガーに掛け、白衣の下に着ていた青色のスクラブから私服に着替える。机に置いていたiPhoneをタップするが、画面に表示されたのは、黒い壁画に映し出される時計だけだった。
 
 梛七と南、夕方から出勤していた大学生の歯科助手、林琴葉(はやしことは)は談笑混じりに、掃除や後片付けをしていた。

 「えー。わっきー先輩、プリンが好きなんですか?」

 「そう、わっきーはアレだよね?風鈴堂のプリンが大好物なんだよねぇ〜」

 「そうなの!ねぇ、二人とも風鈴堂のプリン食べたことある?本当に美味しいんだよ〜」

 レセプトの締め作業を終えた、藤原と佐々木も話に参加し、好きな食べ物の話で更に盛り上がった。みんなの談笑を聞きながら、梛七は他に漏れがないか最終確認をし、最後に確認した責任者の欄に自分の名前を記した。

 (これで長い一日がやっと終わった…)

 梛七は達成感と疲労感でいっぱいだった。

 「じゃ、皆、お疲れさま。また明日もよろしく」

 五十嵐の声が聞こえ、全員がそれぞれにお疲れさまですと挨拶をする。じゃあ、と言いながら振り返る五十嵐と、ほんの一瞬目が合った梛七は、恥ずかしさのあまり、自ら目を逸らしてしまった…。 そして再び視線を戻すが、その先にあったのは五十嵐の姿ではなく、スタッフ通用口が閉まるドアだった…。


◇◇◇
 

 梛七は、クリニックから徒歩10分程度の場所にある、築年数の浅い1LDKのアパートに一人で暮らしている。近所のスーパーで買った夕食と、1本の発泡酒が入ったビニール袋を下げ、家の鍵を開けた。梛七は手洗いうがいをして、一つに結っていたポニーテールのゴム紐を取り、買ったばかりのソファーに勢いよく突っぱねた。波打つロングヘアの毛先がさらりと床に着く。

 「つ…疲れたぁ〜」

 拘束時間の長さと、割り当てられる診察の人数が、大幅に超えていて、梛七は酷く疲れていた。

 (五十嵐先生も、だいぶ疲れていたなぁ…)

 診察が終わる度に、目を抑えていた五十嵐の様子を思い返した。重い腰を挙げて風呂を沸かし、夕食をサッと済ます。
 友人たちのSNSをひと通り眺めながら、風呂が沸くのを待った。
 梛七は、身体を洗い浴槽に浸かる。目を瞑りながら浴槽の端に頭を預け、ふーっと息を吐いた。瞼の裏にぼんやりと浮かんでくるのは、やっぱり五十嵐の姿だった…。
 今何をしてるのか、何を思っているのか、もしかしたら他の女性と会っているのではないか…などと彼女でもないのに、思い乱れてしまう自分に嫌気がさした。

 (はぁ…。どうかしてるわ…)

 梛七はゆっくりと湯の中に顔を沈め、気持ちを落ち着かせようとしたが、五十嵐の姿が脳裏から消えることはなかった。
 
 
◇◇◇
 
 
 「傑さん!こんばんは」

 「うっす…相変わらず、すげーな君は…」

 五十嵐はクリニックを出てから、車で10分ぐらいの所にあるジムに来ていた。ジム仲間である、歳下の若松(わかまつ)が、尋常ではないぐらいのダンベルを抱えて挨拶をしてきた。五十嵐は、若松の姿に思わず驚嘆してしまった。
  
 五十嵐は、疲れた時や嫌なことがあった時は必ずジムへ行くことにしている。全て汗に流して忘れるのが、ストレスを溜めない秘訣だ。今日は、軽めのトレーニングにし、ルーティンにしているメニューを一通りやった。
 しばらくして時計を見ると21時を指していた。

 (そろそろ帰るか。明日もあるしな…)

 シャワー室へ入ろうとした時、荷物を抱えて帰ろうとする若松が、五十嵐に声をかける。

 「傑さん、お疲れさまです!今度は色々とゆっくり、お話しさせてくださいね…」

 「おぅ、気をつけてな。じゃまた」

 五十嵐は、軽い挨拶を交わして若松を見送った。
 簡単にシャワー浴びて、ジムを出る。
 
 外の空気は肌を刺すような寒さだった…。
 ふと見上げた夜空は虚しく、五十嵐は太いエンジン音の鳴る車に乗って帰路についた。