◇◇◇
 
 
 定休日の水曜日。
 梛七はもう一度、鈴山と会う約束をしていた。鈴山の営業回りがひと段落つく14時に、近くの喫茶店で落ち合った。
 
 「いや〜、ごめんね。待った?」
 
 「ううん。全然大丈夫だよ。仕事なのにごめん」
 
 「全然。梛七のお願いなら何でも聞くよ!」
 
 しっかり手入れされている紺色のスーツに身を包んだ鈴山が、柔らかい笑みを見せる。水を運んできた店員に、二人はそれぞれ珈琲とカフェラテを頼んだ。
 
 「考えてくれた?多分その返事だよね?」
 
 「…うん。ちゃんと会って話した方がいいと思って」
 
 梛七は申し訳なさを顔に浮かべ少し俯く。店員は、テーブルの上にカチャンと僅かな音を鳴らして、珈琲とカフェラテを置いていった。
 
 「その顔からすると、答えはNOだな」
 
 「…翔太は何でも分かっちゃうんだね…。私、好きな人がいるの…。ずっと片思いしてて、だから…」
 
 「五十嵐先生だろ?」
 
 梛七は動きを止め、目を泳がせながら、うん、と頷く。鈴山は珈琲を啜りながら、ずっと前から分かっていたかのように続ける。
 
 「梛七とクリニックで再会した時、梛七はずっと五十嵐先生のことを目で追いかけてた。花火も実は一緒に行ってただろ?俺見たんだ、五十嵐先生が梛七の居るフロアーに戻って行くところ。上司と部下以上の関係なんだろうな〜って思ってた」
 
 「先生とは、密に仕事をしてきたから…。沢山の時間を割いてもらってきたし、そういう意味では、他のスタッフとは違う立ち位置に私は居るかもしれない…」
 
 沈黙が続いた後、鈴山はマグカップを置いて、晴れ晴れとした笑みを見せた。
 
 「ははっ。そうだよなぁ〜。俺に入る余地なんてないよなぁ〜。悔しいけど、仕方ないよなぁ。五十嵐先生と上手くいくといいな。遠くから応援してるよ」
 
 「…ごめん、翔太」
 
 「謝んなって〜。これで、気兼ねなく向こう行けるし。おっと!部長から連絡。じゃ、俺行くから、これ」
 
 鈴山は千円札をニ枚置いて、梛七に手を振りながら出入り口に向かって歩いていく。
 
 「翔太!ありがとう…。頑張って」
 
 梛七の声を聞いて振り向いた鈴山は、これ以上ない満面の笑みを見せて、店を出て行った。
 
 梛七は、残りのカフェラテを啜りながら、寂しさ紛れに店内を見渡す。色んな人たちが行き来する店内は、まるで出会いと別れが入り混じったターミナル駅のようだった。梛七は、最後の方に溜まるカフェラテの甘味を溶かしながら、違う人生を歩む鈴山の幸せを心から願った。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 夕食の買い出しを終えた梛七は、クリスマスの飾りが賑わう街中を歩き、一人ぼんやりと思い更けていた。
 
 (先生にいつ、どのタイミングで伝えたらいいんだろ…)
 
 五十嵐へ告白するタイムリミットが、後十日程しかない事を、時刻を表示するiPhoneの壁画が知らせる。
 鞄にiPhoneを仕舞おうとした時、iPhoneがブルッと震え、梛七・梢子・明・遥香のグループラインが届いた。
 
 明━︎(梛七ぁ〜。もーすぐクリスマスだけど…進捗は?)既読1
 
 梛七━︎(それがまだ、何も…( ; ; ))既読1
 
 明━︎(そろそろ動かないとね〜♡︎)既読1
 
 分かってる、分かってるよ、と梛七は何度も心の中で繰り返す。今夜はグループラインが止まらないだろうな〜、と家の前に着いた梛七は、顔をしかめた。
 この後、遥香もLINEに加わり、夜遅くまでくだらないやり取りをし続けた。
 
 梛七━︎(じゃ、みんな。告白する当日は、ここにライン入れるね)既読4
 
 明━︎(幸運の21時。待ってるよー)既読4
 
 遥香━︎(楽しみにしてる!梛七がんば♡︎おやすみ)既読4
 
 梢子━︎(絶対大丈夫だから。こっち側で待ってる。ぐっない)既読4
 
 
 梛七は歯磨きをして、寝室へ向かう。
 シングルのベッドで横になり、暗い部屋でまた五十嵐に想いを馳せた。
 
 
 ◇◇◇
  
  
 翌日。梛七は、意を決して出勤したが、五十嵐は美歯会の忘年会、更に翌々日は大学の同期たちと忘年会、土曜日は家族との用事があると言ってすぐに帰ってしまった。告白は来週に持ち越すことを決め、梛七は心に猶予を与えた。
 
 翌週の月曜日は予約が殺到し、年内で一番の混雑具合だった。年末の休診を目前に、伊東が受け持っている矯正患者や、入れ歯などの装備品の調整をする患者が後を絶たなかった。こういう日に限って、イレギュラーな事態が起こり、梛七は受付に座っていた。佐々木がインフルエンザに罹り、藤原も本調子じゃなく昼過ぎに早退することになった。
 
 「五十嵐先生!田中さんFCでよかったですか〜?」
 
 「あぁ。脇田悪い。言ってなかった。FCで!」
 
 忙しい診療が続くと、こうした漏れが沢山出る。
 
 「ななちゃん、これあげるぅー」と、矯正治療で待っていた小学1年生のまどかちゃんから、折り紙のハートを貰い、梛七は少しだけ元気が出た。
 溜まっていくレセプト入力と、加算表を横目に、ただひたすら受付業務をこなしていくが、全く終わりそうにない。今日は残業確定だ…、と梛七からはため息が漏れた。
 
 全ての診療が終わり、疲れの波が背中を襲う。

 「残業、一人で大丈夫?何か手伝おうか?」
 南が心配そうに声をかけてくれたが、「一人でゆっくり確認しながらやりたいから、ありがとう」と言って、梛七はみんなをいつも通りに帰らせた。休んでいた分を取り返さなきゃと思いながら、梛七はパソコンに目を向ける。
 
 (よし、始めるぞ)
 
 溜まったカルテをパソコンに打ち込み、破棄していく作業を淡々と繰り返す。シュレッダーの音が院内に響き渡り、フロアーが静まり返っていることを耳で感じる。
 梛七は、五十嵐が後ろにいることも気づかず、作業に集中していた。
 
 「まだ、終わりそうにねーか?」
 
 背後から聞こえてきた五十嵐の声に肩がびくつく。
 
 「せ、先生!お疲れさまです。すみません。まだ少し、かかりそうです」
 
 「そうか。今日は忙しかったな…」
 
 五十嵐は荷物を床に置いて、梛七の後ろで壁にもたれかかる。横にあったカルテを触りながら、髪を解いた梛七の後ろ姿を眺めていた。
 
 「もう年末ですしね、この時期は仕方ないです」
 
 「そうだな…。体調はもう大丈夫か?」
 
 「あ、はいっ。おかげさまで。冷えると少し痛みますけど、それ以外は全然」
 
 梛七はパソコンに向かったまま、返事を返した。五十嵐は、梛七のふわっとした髪を見つめながら続ける。
 
 「なぁ…。お前が嫌じゃなかったら、この後飯でも行かないか?」
 
 「ひえっ?」
 
 五十嵐の唐突な誘いに、梛七はバッと後ろを振り向き、驚いた顔を五十嵐に見せる。五十嵐はパンツのポケット手を突っ込んだ姿で、冷静に梛七を見ていた。
 
 「まぁ、退院祝い…みてーな感じ」
 
 「いいんですか?あ、もう終わるので、す、す、少し待っててください!」
 
 梛七はニヤケそうになり、顔を前方に向け直す。残り数枚のカルテを一気に入力し、梛七はパソコンの電源を落とした。
 
 「じゃ、俺。先に車乗ってるから、着替えたら来いよ」
 
 「は、はいっ!すぐに行きます!」
 
 五十嵐は荷物を持って、通用口へ歩いていった。
 梛七は制服から私服に着替え、梢子たちのグループラインに「五十嵐先生にご飯誘われた。今日、伝えてくるね」とラインを打つ。三人から応援メッセージがすぐに届き、梛七はそれを見た後、急いでスタッフ通用口を出ていった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 何を食べたいか聞かれ、梛七は美味しい焼肉が食べたいと五十嵐に伝えた。五十嵐は、昔から行っている五十嵐家御用達の老舗焼肉店へ梛七を連れていった。
 
 「お!五十嵐くん、いらっしゃい。お席、用意しといたよ〜」
 
 和かな笑顔で温かく迎えてくれたのは、勝と同年代ぐらいの男性亭主だった。座敷の個室に通され、五十嵐と梛七は向かい合って座る。
 
 「何飲む?」
 
 「あ、私、黒烏龍茶で。まだ薬飲んでるんで、お酒飲めないんです」
 
 五十嵐は、そうか、と言って同じものを注文する。頼むメニューは全て、普段から通っている五十嵐のチョイスに任せた。
 
 「何か、変におとなしいな」
 
 「ちょ、ちょっとだけ…緊張してるだけです。あはは…」
 
 「別に、何も緊張することねーだろ。静岡でも一緒に飯食ったし」
 
 「そ、そうなんですけどね〜。男性と焼肉なんて初めてで…」
 
 そうなのか、と五十嵐は運ばれてきた黒烏龍茶を受け取る。テーブルが埋め尽くされるほど、次々と美味しそうな肉が運び込まれ、梛七は涎が出そうだった。
 
 焼き方の順番も、加減も五十嵐は手慣れていた。
 
 (先生はこうやって、女性と二人で何回も来てるのかな?)
 
 梛七はそんな風に思いながら、五十嵐の手つきを眺める。
 
 「ちなみに、焼肉は俺も初めてだ」
 
 「ほ、本当ですか?いや〜いいですよ、先生。そんな嘘つかなくても〜」
 
 梛七は少し戯けてみせた。五十嵐は笑いながらトングを軽く振って否定する。
 
 「いや、本当に。興味のねー女とは、安い居酒屋で終わり。こんないい所、連れて来ねーよ。はい、食え」
 
 五十嵐は、いい感じに焼き終えた塩タンを、梛七の取り皿に乗せていく。
 
 「先生もちゃんと食べてくださいよ。あ、私焼きましょうか?」
 
 「じゃ、タンの焼き比べするか?どっちが上手く焼けるか」
 
 梛七はタンを食べながら、腕を捲った。「負けませんよ」と五十嵐に伝えると、「ははっ、俺が負けるわけねーだろ」と返され、梛七は胡乱げに五十嵐を見やった。
 
 それぞれに2枚ずつ焼いたタンを、それぞれ食べていく。まずは梛七が焼いたタンを五十嵐が食べる。
 
 「どうですか?絶対、美味しいと思うんですけど…」
 
 「ははっ、まだまだだな〜」
 
 「えーーーー?ほら〜色、一緒ですよ?」
 
 「違ぇーんだって、自分の食ってから俺の食ってみろ」
 
 梛七は、悔しいぐらいの違いを噛み締めた。同じ色合いなのに、柔らかさと旨みが全然違っていた。
 
 「え〜!本当だ〜。何でですか〜?」
 
 「あんまり焼きすぎず、触らないのがコツなんだ。まぁ、脇田が俺に勝とうなんて1億年はえーんだよ。はははっ。んで、罰ゲーム何する?」
 
 「しませんよぉ〜そんなのぉ〜」と、拗ねたように頬を膨らませ、梛七は焼きたてのカルビを頬張った。 
 
 (先生ってこんな楽しそうに笑うんだ…)
 
 患者に見せる笑顔とは違う、楽しんでいる素の笑顔だった。独り占めしたくなった。他の女性に見せて欲しくない。そんな独占欲が梛七の心に広がっていく…。
 五十嵐からダメ出しを喰らった梛七は、五十嵐が焼いた沢山の肉を、幸せそうに頬張った。そんな梛七の姿を眺めていた五十嵐も、満足そうに笑みを浮かべていた。
 
 「腹、ふくれた?」
 
 「はいっ!もうお腹いっぱいです!」
 
 梛七はお腹を摩りながら、iPhoneの画面を見る。表示された画面の時刻は20時16分だった。
 
 「そろそろ行くか」
 
 「そうですね。明日も仕事ですしね」
 
 お会計をしていた五十嵐からガムを貰う。受け取ったガムのミントを噛みながら、梛七は気持ちを落ち着かせる。車に乗った梛七は、夜の街灯に照らされる五十嵐の横顔を助手席から眺めた。胸の鼓動が、ドクドクと、激しくなってくる。このチャンスを逃したら、もうクリスマスは一緒に過ごせないだろう。梛七は息を深く吸って、五十嵐に話しかけた。
 
 「あ、あの…先生」
 
 「何だ?」
 
 「……」
 
 「何だよ?」
 
 前方を見ていた五十嵐がチラッと梛七を見る。五十嵐の車の時計は20時56分を指していた。
 
 「……」
 
 「…何だよ、早く言えよ。もう着いちまうぞ」
 
 五十嵐の車は、梛七のマンションの客用駐車場に入っていく。車のシフトレバーをパーキングに入れ、五十嵐は車を停めた。タイミングを見計らったかのように、時計はピッタリ21時を指した。
 
 「わ、わたし…」
 
 「……」
 
 「先生のことが…」
 
 「……」
 
 「五十嵐先生のことが…好きです…」
 
 「……」
 
 泣きそうな顔をして梛七は五十嵐の方を向く。五十嵐は前方を向いたままダッシュボードに肘を乗せて、顎を支えていた。
 
 「これからは衛生士としてだけじゃなく、一人の女性として、先生の側にいさせてもらえませんか…?」
 
 梛七の気持ちを聞いた五十嵐は、大きく息を吸った。色んな感情が入り混じった涙が、梛七の目に溜まっていく。流れる音楽がサビに近づいた時、五十嵐がゆっくりと口を開いた。
 
 「…じゃ、付き合うか。結婚前提に」
 
 「…い、いいんですか?」
 
 「俺も、お前の側に居たいし…いいんじゃねーの?」
 
 「…っ」
 
 「前に、お前に言っただろ。次、付き合う女は、結婚する女だって」
 
 梛七の目からは、拾い上げることもできない大粒の涙が溢れていた。シートベルトを外した五十嵐は、梛七の顔に近づき、親指で涙を拭い取る。
 
 「泣くなって…。俺が泣かせたみてーじゃねーか…」
 
 五十嵐は、梛七の下顎をゆっくり持ち上げ、そっと唇を重ねた。優しく触れる五十嵐の唇から、零れるほどの愛おしさを感じる…。ミントの香りが二人の唇をそっと包み込み、ふんわりと落ちていく…。五十嵐の柔らかい唇が徐々に離れ、梛七は涙目で五十嵐の顔を見つめた。
 
 「今日は、もう遅いから帰れ。また週末にでも会おう」
 
 「はい…」
 
 「おやすみ。梛七…」
 
 名前を呼ばれた梛七は手で思わず口を塞ぎ、頬をこれでもかというぐらい朱色に染めた。梛七は、おやすみなさい、と言って車から降り、たった今彼氏になった五十嵐を見送った。
 
 
 冬の星空を仰ぐ。幸運の21時に想いを伝えられることができて、梛七は信じられないほどの達成感と幸福感で、満ち溢れていた。そんな高揚した気持ちを抱え、その場で梢子たちのグループラインに報告を入れる。
 
 梛七━︎(五十嵐先生と付き合えることになったよ〜。もう泣いちゃった…)既読4
 
 親友の三人から、鳴り止まないほど祝福のラインが届く。梛七はiPhoneを胸に当て、もう一度、夜空を見上げる。点々と夜空に広がる星たちは、梛七へ祝福を挙げているかのように、一段と輝きを放っていた。