(後半、傷心描写を含みます)
 
 
 橘の運転する車が梛七のマンションの客用駐車場に到着した。車から降りようとする梛七の方を向いて、橘と梢子が申し訳なさそうに声をかける。
 
 「ななちゃん、本当ごめん。傑に俺からも伝えとくから、あまり気を落とさないで…」
 
 「私もごめん…。こんな風になると思わなくて…」
 
 梛七は吹っ切れたように気丈に振る舞い、硬い表情を崩す。
 
 「全然!大丈夫ですよ〜。もーそんな気にしないでください!五十嵐先生のことはもう何も思ってないので。じゃ、私はこれで。梢子、またね〜」
 
 梛七は車を降りて、梢子に手を振りながら発進していく橘の車を見送った。
 肌につきまとうような湿度の高い熱風が頬を伝う。梛七は五十嵐のことを少しばかり考えながら、目を閉じて真夏の夜の匂いを嗅いだ。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 梛七は着ていた浴衣からゆったりとした部屋着に着替え、巾着袋からiPhoneを取り出す。知らない電話番号からの不在着信と「鈴山翔太が電話番号で友だち追加されました」という通知ラインが画面に表示される。五十嵐から何もないことに少しだけ気持ちが落ちた。梛七は、鈴山を友だち登録し簡単なラインを送る。
 
 梛七━︎(翔太、お疲れさま。ラインありがとう)既読
 
 鈴山━︎(おっつー。こちらこそありがと。そういえば、言いそびれたけど、今日の浴衣姿めっちゃ可愛かったよ〜)既読
 
 梛七━︎((笑)ありがとう!)既読
 
 鈴山━︎(近々飯いこーぜ!車と金は俺が出すから、美味いとこ連れてってよ。休みの日いつ?)既読
 
 返事を打つ手が止まる。
 行く気が全くない梛七は、グイグイ来る鈴山の返事に面倒くささを感じてしまう。心身共に休みたい気持ちが大きくなり、梛七は切り上げるように返事を打つ。
 
 梛七━︎(休みは定休だけど、用事があったりするから…また連絡するね)既読
 
 鈴山━︎(分かったよ〜。また連絡待ってる。そういえば今日誰と行ってたの?)既読
 
 鈴山は、梛七とのラインを終わらせたくない様子だった。会話が途切れないよう文末を疑問形で終わらせる癖は、商談を沢山こなす証券マンだからだろうか。梛七は「今日はごめん」と画面越しに謝り、既読にしたまま画面を消して、シャワーを浴びに風呂へ向かった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 花火と共に焼き落ちていった夏の思い出を置いて、季節は少しずつ初秋へと向かっていた。クリニックの窓から時折感じるひんやりとした風が、梛七の心に突き刺さっていく。
 あの日から、五十嵐は今までのように梛七に対して、信頼を持って接してくることはなくなった。必要最低限のことしか話さなくなり、近くなったと思った距離を無理矢理離された。助手たちのミスも梛七の責任の一つとなり、梛七は五十嵐が来る前に戻ってしまったかのような辛い毎日を過ごしていた。
 
 「脇田さん、これってここでいいですか?」
 
 消毒室で新しい薬剤の補充をしていた橋口に、仕舞う場所を尋ねられる。
 
 「あ、うん。ここに入れておこうか」
 
 梛七は棚にスペースを空けて「ここに」と人差し指と口頭で場所を伝えた。
 梛七が橋口に「ありがとう」と伝えていると、突然、1番チェアーで根血の治療をしていた五十嵐から、命令的な指示が入る。
 
 「橋口、ディアペックスの新しいやつ今すぐ持ってきてくれ」
 
 「は、はい!」
 
 橋口は慌てて保管してある棚に目を向け、袋や箱をどかしながら根血で使用する貼薬を探す。どこの棚を探しても見当たらず、近くにいた梛七に「ディアペックス知りませんか?」と橋口は尋ねた。梛七は記憶を辿り、発注ファイルを広げながら、発注したはずのものが入荷されていないことに気づく…。梛七は急いで代替を持って、五十嵐の元へ事情を説明しに行った。
 
 「先生、申し訳ありません。発注した分がまだ届いておらず…切らしてしまいました…」
 
 「別の物持って来い。お前なら分かるだろう」
 
 「こちらでよろしいですか?」
 
 梛七は同じ水酸化カルシウムの貼薬を2本提示した。
 五十嵐は黙って片方の薬剤をイラついた手つきで取り出し、治療を続ける。薬品を切らさないよう今まで散々気をつけてきたはずなのに…、とタイミングの悪さに梛七は気を落とした。
 
 
 治療を終えた五十嵐が血相を変えて、消毒室でトレーを洗っていた梛七のところにやって来る。梛七は手を止めて、五十嵐の方を向く。
 
 「発注し忘れじゃねーのか?散々言ってきただろ、切らすなって。教えてきたことを無駄にするつもりかお前は」
 
 「いえ…そんなつもりは…。申し訳ありません。全て確認し直します…」
 
 「ったく…。私情を挟んでんじゃねーぞ」
 
 梛七にそう吐き捨て、五十嵐は次の患者の座るチェアーへ向かい、患者に作り笑顔を見せていた。
 
 梛七は五十嵐に怒りのようなものを抱いた。

 (私情を挟んでるのは先生の方じゃん…)

 八つ当たりとも呼べる理不尽な叱り方に梛七は納得できなかった。梛七の目がじわじわと赤くなる。心配する後輩や藤原たちの視線を背にして梛七はトイレに逃げ込んだ。
 
 
 それから梛七も五十嵐に対して、必要最低限のことしか話さないようにした。五十嵐の助手に入っても、目を合わせず、黙って歯科器具を渡したりした。普段とは違う冷淡な梛七に、スタッフ全員もさすがに心配し始めていた。
 藤原が痺れを効かせ、一枚の紙を持って院長室で手を休めていた五十嵐のところへ向かう。
 
 コンコンッ。
 
 「五十嵐先生。ちょっといいですか?
 最近、脇田にちょっと厳しくありませんか?あの子にここを辞められたら、私たちが困るので…今まで通りに接してあげてください。あと、発注の件ですが…脇田はちゃんと発注していました。これ。発注先の製薬会社から届いたメールです。生産が間に合わず、入荷が遅れているそうです…」
 
 「……」
 
 「全てのことを分かっているあの子が、薬を切らすような大きなミスをするとは思いません。ちゃんと、だいぶ前から把握していたと思いますよ。二人の間に何があったか知りませんが…せっかくあの子をここまで引っ張って来られたんですから、自分の手でそれを壊そうとしないでください」
 
 藤原は、頬杖をついている五十嵐の眼下に、持ってきた紙をサラッと置いた。情けなく俯く五十嵐が藤原にボソッと呟く。
 
 「ワラさん…私情を挟んでるのは俺の方だよな…?」
 
 「はい。どう見ても。らしくないのは五十嵐先生の方です。じゃ、早いとこ仲直りしてくださいね〜お願いしますよ〜」
 
 藤原は、ニコッと笑い院長室を出て行く。五十嵐は、藤原が置いていった製薬会社からのメールを読みながら、頭をクシャとさせる。長い溜め息を吐きながら、紙をゴミ箱に捨て、五十嵐は梛七たちの居るフロアーに出ていった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 五十嵐の姿を避け続け、険悪な空気のまま梛七はスーパーで買い物をし、家まで歩いていた。毎日、彼氏のように「おはよう」「仕事お疲れさま」「おやすみ」とラインをしてくる鈴山に少しうんざりしながら、梛七は適当な気持ちで返事を返す。家の前に到着し、ポストを開けると、前にも見た宛先のない無地の封筒がまた入っていた。その場で乱雑に破って中身を取り出し、折りたたんであった紙を開く。そこには、こんなことが書かれてあった。
 
 『もう許さない』
 
 五十嵐と花火を見たことが許せないということだろうか…、と梛七は天宮の気持ちを分析した。もうどうでもよかった。念の為、前回と同様に写真を撮って梛七は家の中に入る。
 無地の封筒を棚に仕舞いながら、五十嵐の理不尽な態度に疲弊した一日を振り返る。今まではどんなことがあっても受け身でいたが、梛七は初めて五十嵐に反抗的になったと自覚した。

 (でも、空気を悪くしちゃったしな…反抗的になるのはよくなかったよね…)

 梛七は冷静になって反省する。週明け、五十嵐にちゃんと謝ろうと決めた梛七はスーパーで買った食材を広げ、ワンパンナポリタンと野菜スープを作った。
 
 相変わらず、鈴山からラインが鳴る。「ここの店どう?」とか「日にち決まりそう?」とか何とか。梛七は写真に保存しておいた画像をいくつか選択し、「家から少し離れたイタリアンのお店どうかな?」と鈴山に送った。
 
 鈴山━︎(梛七、「次は容赦しない」って画像、何?)既読
 
 梛七━︎(あ、ごめん、間違えて送っちゃったみたい。気にしないで(笑)ちょっとイタズラでポストに投函されてたやつだから)既読
 
 鈴山━︎(心当たりあんの?)既読
 
 梛七━︎(んーたぶん、五十嵐先生のファンの方からだと思う(笑)最近まで先生と一緒に行動することが多かったから)既読
 
 そこから、鈴山は「警察に行った方がよくね?」とか「俺が毎日迎えに行こうか?」などと、しつこい返事を送ってくる。梛七は自分の失態に辟易しながら、「ダイジョーブだから!」と返事を送り、iPhoneの画面を消してソファーに寝転んだ。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 週明けの月曜日は、夏の記憶を綺麗さっぱりに洗い流すような秋雨が、しとしとと朝から降り注いでいた。随分と気温は落ち着き、街路樹の青青しかった葉の色も少しずつ色を変え、衣替えを始めているようだった。
 梛七は、出勤しようと燃えるゴミの袋を持って階段を降りていく。同じマンションに住む、歳上の綺麗なお姉さんとすれ違い「おはようございます」と挨拶を交わした。
 
 いつもの道を歩きながら、梛七は今日のことを考える。五十嵐が出勤してきたら、梛七はすぐに謝りに行こうと決めていた。理由はどうであれ、心につっかえているお互いの蟠りを早く解消したい…。梛七はそんな思いで、傘をさしながら落ちてくる雨を見上げた。しばらく歩くと、いつも渡っている横断歩道の交差点が見えてくる。何も変わらない日常の景色。今日も普段通りな一日を過ごせると思っていた。
 
 手前の歩行者用信号機が点滅し、赤になった横断歩道の前で梛七は足を止めた。雨の日だからか、車通りが多く、目の前を通過するバスの中は満員だ。信号機が青に変わり、カッコウの鳴き声が聞こえ始める。梛七は止まっている車の前をいつものように歩いていく。横断歩道の中央に差し掛かったその時だった。同一方向から右折してきた黒い車が、梛七を故意にはねた。
 ドンッという音に、周りに居た人々が次々と振り向き、意識が朦朧としたまま横たわる梛七に、沢山の人が駆け寄った。
 「大丈夫ですか!」「おい!誰か救急車!」「私、救急車呼びます!」「早く誰か手貸して!」「おい!あの車、誰か写真撮ってくれ!」「あ、もしもし?轢き逃げの交通事故です、早く救急車を━︎━︎」
 
 
 「いが…らし先生…助けて…ください…」梛七はそう言って、完全に意識を失ってしまった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 救急車とパトカーがすぐに到着し、意識のない梛七はすぐに大きな県立中央病院へ運ばれた。身分証の確認をし、すぐに両親の一茂とひろ子に連絡が入った。幸いにも近くにいた目撃者が多く、写真付きの情報提供などが多数寄せられ、犯人が捕まるのも時間の問題だった。
 
 
 30分後、五十嵐は同じ場所を車で通る。実況見分を行っている警察たちを横目に、何かあったのだろうか?と不思議に思いながら、クリニックへ車を走らせた。
 クリニックに到着した五十嵐は、普段通り「おはようございます」と言ってスタッフ通用口から院長室へ入る。着替えをしようと、鞄からスクラブを取り出した時だった。受付に一本の電話が鳴った。
 一瞬、嫌な予感が五十嵐の脳裏をよぎる。

 パタパタパタと、サンダルの音を立てながら藤原が慌てて走ってくる。
 
 「五十嵐先生!脇田のお父様からお電話です!」
 
 五十嵐は顔を顰めながら、スクラブをソファーに放り投げ、受付の電話まで急いだ。
 
 「お電話、変わりました。院長の五十嵐です」
 
 「あ…いつもお世話になっております、脇田梛七の父、一茂と申します。先程、娘が轢き逃げ事故に遭いまして…病院から電話があったのですが意識がない状態です。私も今向かってまして、詳しいことはまだ分からないのですが━︎━︎━︎」
 
 五十嵐は絶句したまま受話器を力強く握りしめ、一呼吸を入れて一茂に続ける。
 
 「分かりました…。病院はどちらでしょうか?すぐにとは言えないのですが…昼頃に伺いたいと思います…」
 
 「病院は県立中央病院ですが…大丈夫なのですか…?他の患者さんの診療も抱えてらっしゃるのでは?」
 
 「クリニックのことはご心配なく。他にスタッフもいますので…」
 
 五十嵐は、一茂の連絡先を教えてもらい自分の連絡先も一茂に伝えた。「では、一旦失礼します」と静かに電話を切り、出勤してきたスタッフたちに電話の内容を報告した。「マヂっすか…」と伊東は絶句し、怪訝な五十嵐の顔を見る。南と橋口は泣き出してしまい、藤原と佐々木の目にも涙が滲んでいた。鼻を啜りながら藤原は五十嵐と伊東に尋ねる。
 
 「先生たち、どうしますか?午後の予約、変更しますか?」
 
 「午後はお願いしたいっす。なるべく僕フォローしますんで…」
 
 「ありがとう伊東先生。ワラさん、悪いんだが俺もそうしてくれ。午前中はこのままやる。辛いだろうが…午前中だけみんな頑張ってくれ…」
 
 五十嵐はそう言い残し院長室へ入っていった。

 (誰があいつを轢いたんだ…クソ野郎!)

 五十嵐は思いっきりソファーを殴った。行き場のない憤りを抑えるのに必死だった。五十嵐は床に落ちていたスクラブを拾い、勢いよく着替える。

 (脇田…どうか無事でいてくれ…)

 五十嵐は目を瞑り、梛七に届くよう願った。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 時計の針が昼の12時を回った頃、残りの患者を伊東に託して、五十嵐は急いで県立中央病院へ向かった。車を駐車場に停め、正面玄関の外で待っていた一茂と合流する。初めて会う梛七の父に、梛七の面影が重なった。五十嵐は緊張した面持ちで一茂に会釈をし、会話を交わす。
 
 「五十嵐先生…ご心配をおかけして申し訳ないです。午後も診療があるのに…わざわざ来ていただいて」
 
 「いえ、お気になさらないでください。大事なのは、梛七さんですから…」
 
 偽りのない本心だった…。
 
 院内に入り、特別に集中治療室に案内された五十嵐は、長い髪を垂らし、人工呼吸器をつけて、沢山の器具に繋がれた梛七の姿を見る…。大きなギブスが左腕と左足に巻かれているのだろう。左側だけが大きく膨れ上がっていた。
 
 「五十嵐先生…梛七の母です…。いつも…お世話になっております。この度はご心配を…おかけ…しました…」
 
 震える声で五十嵐に頭を下げるひろ子に、五十嵐は「いえ…」と言って椅子に座ってもらうよう誘導した。ひろ子の隣に居た一茂が梛七を見ながら、ボソッと五十嵐に続ける。
 
 「左側から突っ込まれたようで…左足、左腕、左肋骨の骨折。幸いにも頭と内臓は無事だったので…目が覚めれば回復は見込めるとの事でした。現場は、クリニックから一番近いあの交差点で、横断歩道を青信号で渡っていた際に、右折してきた車にはねられたそうです…」
 
 「…そう…でしたか。相手は捕まってないんでしょうか?」
 
 「はい…。ただ、目撃者や証拠になるものが多く寄せられているそうで…今、警察の方が動いてくださってます…」
 
 五十嵐は黙ったまま頷いた。
 
 「これは救急隊員の方から伺った話ですが、梛七は意識をなくす直前。五十嵐先生のお名前を呼んでいたと、助けてくださった方が仰っていたそうです…」
 
 そう聞いた五十嵐は静かに目を瞑り、今まで梛七にしてきた態度を悔やんだ。
 一茂は、気を利かせ「一緒に昼食に行きませんか?」と五十嵐を誘うが、五十嵐は梛七の近くにいたいと思い、代わりにご夫婦で昼食に出掛けてもらうよう提案した。
 
 「何かあったら一茂さんにご連絡しますので、僕のことはお気になさらず…」
 
 一茂は五十嵐の言葉に甘え、憔悴したひろ子を連れて集中治療室を後にした。
 
 
 梛七の横で心電図と点滴を管理する音が一定のリズムで鳴り響く。梛七はちゃんと生きていると、五十嵐は梛七のバイタルを見て安堵する。
 五十嵐は綺麗に眠る梛七の顔を見つめ、艶やかな髪の上から優しく頭を撫でた。
 
 「痛かったな…。すぐに助けてやれず悪かった…。最近、厳しくしてばっかで…お前にちゃんと謝りたいと思ってた…。元気になったら二人で話そう…」
 
 五十嵐は力なく横たわる梛七の右手をゆっくりと握った。細く切れ長の手は生温かく、梛七の体温をはっきりと感じた。初めて触るこの華奢な手から、失いかけた大切なものが伝わってくるような気がした。それはこの愛おしいと思う気持ちと、梛七の存在意義だった。
 
 五十嵐は握っていた梛七の右手をゆっくりベッドに戻し、その上に白い掛け布団を被せた。梛七の両親が帰ってくるまで、五十嵐は陽の光に照らされた梛七の生白い顔を、しばらく見つめていた。