◇◇◇
 
 
 あれから数日後。案の定、梢子たちのグループラインが鳴り、花火大会は四人揃って行くことが決まった。みんなで浴衣を着ていこう!と明の提案により全員同じ美容院を予約し、当日を待つことにした。
 夏まつり花火大会は、隣町にある大きな川沿いで第一部・第二部と分かれて行われる。最寄駅からシャトルバスが何台か出る予定なのだが、コロナ明けの開催だということもあり、大きな混雑が予想される。クリニック周辺も渋滞になるであろう告知が街路樹に立てられ、五十嵐は診療を午前中のみにすると決めていた。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 花火大会当日。クリニックでは、予約の患者のみを受け入れ、緊急性のない患者以外は受け入れを断った。フロアーの窓から外を眺めると、まだ午前中だというのに、歩道を歩く人たちが大勢いた。 
 
 
 「今日は、凄い人やろな〜。ワシらはもう場所取ってあるから、堤防で飲み会じゃ〜がははははっ」
 
 「あんまりダメっすよ〜。飲み過ぎたら。今日、新しく付け直しますけど、スルメみたいな硬いものはダメっすからね〜」
 
 以前、奥歯の被せ物が取れたとクリニックに駆け込んできた木本さんが、新しく作った被せ物を装着しに来院していた。梛七はセメントを用意しながら二人の会話に入る。
 
 「場所取りまでされて、凄いですね〜」
 
 「ななちゃんは行くんか?」
 
 梛七は、五十嵐にセメントの付着したスパチュラを渡し木本さんに続ける。
 
 「はい。女友達三人と」
 
 五十嵐は一瞬、梛七を見た。「行くのか…」と五十嵐はボソッと言い梛七は頷く。
 
 「なんや、彼氏とやないんか。まぁ、堤防のどっかで飲んどるから見つけたらおいでや〜」
 
 梛七は、遠慮しながら「ありがとうございます」と言って木本さんのカルテを持って受付に向かった。
 
 
 ◇◇◇
 

 午前の診察は予約のキャンセルもあって、予定よりも30分ほど早く終わることができた。帰る準備を始めていたスタッフたちに五十嵐は声をかける。
 
 「今日の花火大会。すげー人らしいから、行く人は気をつけて行ってきてな。くれぐれも警察にお世話になることはねーように。じゃ、また来週。お疲れさま」
 
 『お疲れさまで〜す』
 
 梛七は五十嵐に向かって挨拶をした後、一人でX線ルームの横にある部屋でPCのX線データーをまとめていた。そこに五十嵐が顔を出し、誰も聞いていないタイミングを見計らって梛七に話しかけた。
 
 「変な男には気をつけろよ、酔っ払いも多いから」
 
 五十嵐から初めてそんな事を言われた梛七は、PCのキーボードから手を放し、思わず五十嵐を見上げた。
 
 「ははっ。大丈夫ですよ〜先生。助手の子たちみたいにキャピキャピしてる訳じゃないんで」
 
 「ならいいけど」と言って五十嵐は素っ気なく顔を背ける。梛七はニコッと笑い「じゃ、何かあったら先生に電話しますね」と冗談っぽく伝えた。五十嵐は軽く頷きながら部屋を後にし、院長室へ入っていく。
 
 (今のは何だったんだろう…?初めて心配された)

 梛七は不思議に思い、唇を尖らせながら首を傾げた。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 カラカラに照り付く日差しの中、家に着いた梛七はシャワーを浴び、癖の付いた長い髪をストレートに戻していた。梢子から、梛七の家に行ってもいいかと連絡が入り、ドライヤーをしながら梢子が来るのを待った。しばらくすると玄関先のチャイムが鳴り、梢子を家に向かい入れる。
 
 「ごめんごめーん。電車混むと思って早く来たんだけど全然時間余っちゃって」
 
 「いいよ全然。暑かったでしょ〜。はいお茶」
 
 さんきゅーと言って、ストレートのボブを揺らしながら梢子はキンキンに冷えたお茶を一気に飲み干す。梛七は、ずっと気になっていた橘との進展を梢子に尋ねてみる。
 
 「ねぇ、あれからどうなの?橘先生とは」
 
 「橘先生、忙しすぎて連絡は途切れ途切れなんだけど、来週の金曜日ごはん行く予定」
 
 いいなぁ〜、と言いながら梛七も冷えたお茶を口に含む。
 
 「梛七も五十嵐先生と、ごはん行ったらいいじゃん」
 
 「ダメだよ〜。一応、上司だからさ…」
 
 梛七は五十嵐が話していたことや、帰り際に言われたことを梢子に話した。
 
 「五十嵐先生も梛七のこと気になってんだって〜。普通言わないから、変な男に気をつけろよとか。人混みが嫌いとか言いながら、梛七のことが心配で向かってるかもよ?」
 
 「ははっ。んなわけないでしょ〜。でも、どこかで会ったらビックリだよね」
 
 梛七は少しだけ期待してみた。
 
 「ねぇ?鈴山翔太って誰?」
 
 机の隅に置いておいた鈴山の名刺をペラペラとさせながら梢子が尋ねる。先日クリニックに検診で来た高校の同級生で、証券マンであることと、中国から一時帰国していることなどを話した。鈴山から食事に誘われたことを伝えると、梢子は顔をしかめた。
 
 「え〜?ちょっと浮気?」
 
 「違うよ〜。連絡してないし、ごはんも別に行こうと思ってないよぉ」
 
 梛七はこのまま音沙汰なしに過ごせればいいと思っていた。余計な色事に発展しそうなことは極力避けたい。五十嵐に告白するまでは、自分からは異性と連絡を取らないと決めていたのだった。
 
 「そろそろ美容院の時間だよ。行かなきゃ!」
 
 「本当だ、急ごう梛七っ!」
 
 梛七と梢子は、照りつける日差しの中、大きな荷物を持って予約した美容院へ向かった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 美容院に着いた梛七と梢子は、どうぞ〜、と先に着いていた明と遥香のいる部屋へ案内される。
 
 「遅っいよ〜また二人して遅刻ぅ〜」
 
 「ほんとっ!いっつもそうなんだから〜」
 
 明るいレトロ調の浴衣に身を包んだ遥香と明に、梛七と梢子は怒られた。ゆっくりと休む暇もなく、着付け師の女性が風呂敷を広げて梛七と梢子に浴衣を着付けていく。明と遥香は先にヘアーをセットしてもらい、二人ともふんわりとほぐした可愛らしいアップヘアーになっていた。二人のセットが終わったタイミングで梛七と梢子の浴衣姿が完成していく。梛七は、白ベージュに薄黒い百合水仙が描かれた上品な浴衣を選んだ。梢子はもっとシックな紺色の大きな紗綾型が入った浴衣を選び、誰よりも大人びていた。着付けを終え、梛七は濡れ感のあるアップヘアーにしてもらい、梢子は耳掛けをした外ハネのボブに仕上げてもらった。
 
 シャトルバスで行こうと四人で駅まで歩く。慣れない浴衣で下駄の歩幅が狭くなる。シャトルバスの長蛇の列に並び、四人で難しい"薬品しりとり"をしながらバスが来るのを待った。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 家に着いた五十嵐は、珍しくジムに行くことはせず大人しく家のソファーで寛いでいた。スタッフの前では人混みが苦手だから行かないと言っていたが、そこまで人混みが苦手な訳ではない。ただ、若いカップルたちで賑わっている場所に行きたくなかっただけだ。それに家のベランダから一望することができるし、付き合っている相手が居るならまだしも、独り身であればわざわざ行く必要もない。五十嵐は、そんな事を思いながら、煩わしいものが一切ないこの空間から、地響きのような音と共に暗闇に咲く無数の花をゆっくり鑑賞しようとしていた。
 
 16時を回った夕方、橘から突然電話が鳴った。五十嵐は出ようか悩んだが、緊急なことかもしれないと思い、画面に表示された緑色の応答ボタンをタップする。
 
 「もしもし?」
 
 「おっ、傑〜何してんの?」
 
 「何って家にいるよ」

 「ってことは暇ってことだよな?」
 
 嫌な予感がする。電話に出なければ良かったと少しだけ後悔した。
 
 「花火大会、行かねーか?」
 
 「はぁ?今から?やだよ〜めんどくせー」
 
 予想通りの反応を見せる五十嵐に怯まない橘。話を聞くと、どうやら先日に橘総合病院を退院した患者から、居酒屋の一室を丸々貸し切った特等席を用意されているらしい。一人で行くのも何だからと橘は言う。
 
 「梢子ちゃんと行けよ」
 
 「それがさ〜、さっき誘ってみたんだけど、傑の彼女と来てるからごめんって言われたんだよな〜」
 
 「彼女?あぁ。あいつか…」
 
 「否定しねーんだな。ぶははは。まぁ、行こうぜ。降りてこいよ。もう傑んちの下にいるから」
 
 「はぁ?もう居んのかよ。ったくお前は…しょーがねーな。酒奢れよ」
 
 五十嵐は橘の電話を切り、仕方なく行く準備を始める。無地のゆったりとしたTシャツに、膝の見える黒のショートパンツに着替え、財布とiPhoneだけを持って玄関を出た。
 エントランスの前に停まっていた橘の外車に乗り込み、五十嵐と橘は会場へ向かった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 会場に続々と集まる観覧者たち。梛七たちが到着した頃にはすっかりと日は沈み、始まりを知らせるかのような小さな花火たちが夜空を彩り始めていた。
 堤防は場所取りの人々が占領しており、梛七たちは少し離れた所にある、開放された競技施設の芝生にレジャーシートを並べることにした。
 
 「ここ、人少なくて穴場なんだよねぇ〜」と遥香が言い、「いいとこあんじゃん」と梢子が返す。梛七たちはそれぞれ二手に別れ、お酒と皆んなで分けられそうな焼き物や粉物を買いに行く。梛七は梢子と一緒に、たこ焼きと焼きそば、お好み焼きとどんどん焼きを買って屋台が並ぶ出店を歩いた。花火が打ち上がるたびに行き交う人々の顔がキラキラと光る。梛七は気づかぬ内に、居るはずのない五十嵐の顔を探していた…。
 競技施設の芝生に戻った四人は、それぞれが買ってきた物を分け合い、缶ビールと酎ハイで乾杯をした。
 本格的な花火が打ち上げられ、夜空に泳いでいく光が一瞬消えてはパッと鮮やかに咲き誇る。後からやってくるドンッという音が次々と鳴り、周りの声や、音が綺麗に掻き消された。
 梢子が梛七の二の腕を突き、スマホを見せてくる。橘とのLINE画面に一枚の写真が添付されていた。
 
 橘━︎(梢子ちゃん、花火楽しんでる?俺もね、親友の傑と近くで観てるよ〜)既読
 
 そこには、橘と無愛想に呑んでいる五十嵐の姿が映っていた。梛七は驚いた顔を見せ、口元を梢子の耳に持っていく。
 
 「うそっ。先生来てるの⁈」
 
 「みたいだね。後で会いに行く?」
 
 会いたいけれど、こういう場所で会うのは気恥ずかしいと梛七は手を横に振る。梢子は目線をスマホの画面に戻し、橘に返事を打っていた。
 
 
 第一部が終わり、遥香は彼のところへ、明は家族の集まりに顔を出さなきゃいけないとの事で別行動になった。「よし!行こう」と梢子がいきなり立ち上がり、行き先を教えないまま荷物をまとめ、梛七の手を引っ張る。梛七は梢子にされるがまま後ろをついて歩き、屋台の連なる堤防沿いを降りた先にある貸切居酒屋に到着した。
 中に入り、受付の男性スタッフに声をかけると7階の最上階まで案内される。一室一室が個室になっており、梢子と梛七は一番奥の一室の前で足を止めた。
 
 「誰かいるの?」
 
 梢子は梛七の問いかけに何も答えず、ゆっくり襖を開ける。
 
 「やぁ〜梢子ちゃん!ごめんね〜ここまで来てもらって」
 
 梛七は恐る恐る部屋を覗くと、ニコニコと手を振る橘と仏頂面をした五十嵐の姿が見えた。
 
 「ちょっと〜二人とも超可愛いじゃ〜ん。似合ってるよ〜その浴衣。なぁ?傑」
 
 五十嵐はゆっくりと梛七の浴衣姿を見上げる。少し照れくさそうに目線を逸らしながら「あぁ」と言ってビールを一口飲んだ。
 
 「五十嵐先生、初めまして。梛七の親友の内田梢子です。梛七がいつもお世話になっています。橘先生の連絡先ありがとうございました」
 
 「あ、いえ。全然。あぁ、五十嵐です。よろしく」
 
 五十嵐は、梢子に少し笑みを見せて軽く頭を下げた。橘は、梢子を隣に呼び寄せ、梛七は五十嵐の横に座らせる。五十嵐は梛七の浴衣姿に照れているのか、梛七には素っ気ない態度を見せていた。
 
 「梛七、何飲む?私、レモン酎ハイにするけど、おんなじのでいい?」
 
 「あっ、うん。おんなじので。ありがとう」
 
 梢子は店員を呼び、ドリンクと少しのつまみを注文した。
 
 「あんま飲み過ぎんなよ…」
 
 「先生こそ…」
 
 五十嵐と梛七はお互いを意識しすぎて、ぎこちない気持ちで肩を並べていた。そんな思いをかき消すかのように、解放された窓際から大きな音を立てて第二部の花火が打ち上がる。
 
 「綺麗…」
 
 「そうだな…」
 
 梛七と五十嵐の心を彩るように、残煙を残してキラキラと散っていく花火たち。二人はお互いの顔を見ながら口元を緩ませていく。

 (会えてよかった…)

 梛七はキラキラと光る五十嵐の横顔を見ながら、一緒に花火を見れたことの嬉しさを噛み締めた。
 
 
 花火が終盤に差し掛かった頃、梛七はトイレに向かおうと席を立つ。店用のスリッパを履いて、浴衣の裾を直しながらエレベーターの突き当たりにある女子トイレまで歩いた。入り口に入ろうとドアを開けようとした瞬間、一人の男に声を掛けられた。
 
 「梛七じゃん!花火、来てたんだね。連絡待ってたのに、ちっともくれないから心配してたんだぞ〜」
 
 声を掛けてきたのは、先日クリニックで連絡先の名刺を渡してきた鈴山翔太だった。ちょうど、五十嵐も梛七の後を追うようにトイレへ向かおうとしていたのだが、梛七と鈴山の姿を見て壁側に背を向けて足を止めた。
 
 「ご、ごめん…。すっかり忘れちゃってた」
 
 「何だよ〜それ。じゃ、今ここで連絡先交換しよ」
 
 「あ、iPhone置いてきちゃったから…」
 
 「じゃ、梛七の電話番号教えて。登録したらLINEも勝手に入るっしょ?」
 
 鈴山のペースに持ってかれてしまった梛七は仕方なく電話番号を口頭で伝える。それを聞いていた五十嵐は、静かに吐息を漏らしながら、目を虚にして俯いた。
 
 「じゃ、後で連絡入れるからよろしく」
 
 そう言い残し、鈴山は涼しい顔をしながらエレベーターに乗って下へ降りていった。五十嵐が聞いていたことも知らず、梛七はそのまま女子トイレに入る。五十嵐は敢えて違う階のトイレへ向かおうと階段をゆっくり降りていった。
 
 「おかえり〜ななちゃん。あれ?傑、見なかった?ななちゃん出てった後、すぐに出てったんだけど」
 
 橘にそう聞かれたが、梛七は首を傾げながら「見てないです」と返す。そう話していたら、五十嵐は何食わぬ顔で帰ってくる。
 
 「何?俺の話?あぁ、そこのトイレで変なおっさんがゲロ吐いてたから下の階まで降りてったってだけ。あ、悪りぃーんだけど、ちょっと会いてぇー女がいんだ。俺、今からそいつんとこ行くから、橘、梢子ちゃんと一緒に脇田を送ってやってくれ。よろしく」
 
 「おいっ。ちょっと待ってって、傑。誰だよ?女って」
 
 「誰でもいいだろ。じゃ、おつかれ」
 
 五十嵐は、白々しい態度で部屋を出ていった。梢子は呆然と立ち尽くす梛七に近づいて、「何かあったの?」と尋ねる。梛七は、訳が分からず首を横に振った。すぐに我に帰った梛七は、橘と梢子に気を遣わせないように笑みを見せる。
 
 「ははっ。先生にも会いたい女性が一人や二人いてもおかしくないですよ〜。ねっ?あれだけカッコいいし、そういう女性がいても…」
 
 「ななちゃん…無理しなくていいよ」
 
 橘の優しい声かけに、梛七の左目からそっと一粒の涙が零れた。
 
 「ごめんなぁ。俺が余計なことしちまったから…。帰ろか。とりあえず送るよ、君たちを」
 
 橘は、(お前、何したか分かってんのか?この馬鹿!)と五十嵐にラインを打ちながら梢子と梛七を連れて駐車場まで歩く。梛七は大人しく後部座席に座り、窓ごしからすれ違う人々を眺めた。
 
 "この夜がずっと続いて欲しかった"
 
 ある曲の歌詞が流れてくる。
 橘と梢子にバレないよう、梛七は目の縁に溜まる涙を静かに人差し指で拭った。