「は〜い、大きくお口を開けてください」

 奥歯の被せ物が取れたと、朝イチで駆け込んできた木本さんの口の中を見る。木本さんの服からは、鼻の奥がつんとなるような冬の匂いが漂っていた。

 「口内出血はしていないようですね〜」

 歯科衛生士の脇田梛七(わきたなな)は、デンタルミラーを駆使しながら、木本さんへ優しく伝えた。

 「そぉ〜かぁ。良かった。良かった。昨日、嫁はんが作ったお雑煮を食べたらポロッと取れてまって〜わははは〜」

 冬の時期はよく被せ物が取れる。お餅は被せ物にとって大敵だ。
 無事に被せ物が残っていて良かったと、梛七は安堵した。取れてしまった被せ物を、誤って噛んでしまったり、誤飲してしまうケースも少なくないのだ。

 「もう少ししたら五十嵐先生が来ますので、少しお待ちくださいね」

 梛七は、木本さんの被せ物にエアーをかけ、皿の上に置き、歯科用セメントの準備に取りかかった。
 
 「おはようございます。お待たせしました。木本さん」

 低くハッキリとした声で挨拶をする五十嵐傑(いがらしすぐる)医院長。
 目鼻立ちの整った顔面にマスクを覆い、白衣の袖を捲りながら、ジムで鍛え上げられた厚みのある腕を見せていた。空調の風が、無造作に整えられた黒髪パーマを揺らす。

 「五十嵐先生、悪いねーあはは」

 「いや、どっちも無事で良かった。奥さんのお雑煮は美味しいかもしれないですけど…お餅は少し控えましょうね」

 五十嵐は木本さんと会話をしながら、裏側に向けた被せ物を梛七へ差し出す。梛七は、予め作っておいたセメントを上手く塗り、自分の手の平に乗せる。五十嵐はそれを掴み、木本さんの奥歯へ嵌め込んだ。
五十嵐が、咬合部分にガーゼを挟んだタイミングを見て、梛七は10分に設定された硬化専用のタイマーを押した。

 「木本さん、しばらくそのままでお待ちくださいね」

 梛七は、木本さんをチェアーに残し、レセプトを入力している藤原美涼(ふじわらみすず)へ木本さんのカルテを渡しに行った。

 「大丈夫そうだった〜?」

 「大丈夫でしたよ。特に傷もなく綺麗なままで残っていました。今日は再着だけです。入力お願いします」

 「りょ〜かい!」

 ベテランのレセプト入力は瞬時に終わる。
 藤原は、五十嵐傑の父、先代の五十嵐勝(いがらしまさる)が医院長を勤めていた頃からここに座っている。いつも明るく、陽気でまさに"受付の顔"という存在だ。

 「では、こちらの歯ブラシと歯磨き粉のお会計は¥650円です」

 他の患者のお会計をしていたのは、藤原の横に座るもう一人のレセ担当、佐々木恵(ささきめぐみ)だった。彼女はまだ入社して間もない新入社員で、制服の真新しさが初々しい。
五十嵐の教育方針は、『1先輩1後輩を育てる』というスローガンで成り立っており、新入社員達は皆、一人の先輩の側で仕事を学ぶ。佐々木はその通り日々、藤原の横について仕事を覚えていた。
 
 「3番の席に、次の患者さんを呼ぶね〜」

 ボブヘアの右側だけを耳にかけながら、そう声をかけてくれたのは、梛七と同い年の歯科衛生士、南ユリ(みなみゆり)だった。

 「ありがとう、助かる〜」

 「原田さ〜ん。こんにちは。お待たせしました。こちらへどうぞ〜」

 梛七は、南に次の患者さんをお願いし、木本さんの所へ戻った。ピピピピ、とタイマーの音が鳴ったタイミングで、直ぐにストップボタンを押した。
 咬合部分に挟まっていたガーゼを取り出し、動いたりしないか充鎮器の丸い部分を使って確認する。

 「木本さん、大丈夫そうですね」

 「やぁ〜助かったよ。いつもありがとうね。そうだ!ななちゃん、うちの息子と…どうだ?まぁ、その〜、縁談っちゅーやつや」

 「あははは、お気遣いありがとうございます。でもわたしは…」

 (わたしは…5年間も片思いをしている人がいる…だなんて言えない)

 遠くから背筋の凍るような鋭い視線を感じた気がしたが、3番席へ案内された患者さんの原田さんがそれを遮り、視線は消えた。

 「おはようございます。原田さん」と3番席から聞こえた五十嵐の声が、少しだけ大きく感じたのは気のせいだろうか…。
 木本さんには丁重にお断りし、くれぐれもお餅には気をつけるよう念を押して見送った。
 
 歯科衛生士は患者の口内を触ることはできるが、あくまでも処置や補助、指導がメイン。歯科助手のように五十嵐の横について助手をすることもあれば、泣いている子どもたちをあやしたり、レセプト業務を手伝ったり、仕事の内容は多義に渡る。
 
 「次の患者さん、お願い〜」

 治療が間もなく終わることを意味する五十嵐からの合図で、次の患者さんを呼ぶ。

 「島田さん、こんにちは。お待たせしました。こちらへどうぞ〜」

 梛七はカルテを持ちながら、ゆっくりとこちらに来る老婦を待った。

 この後直ぐに、午前中の診察枠が埋まってしまい、ふと受付に目をやると、藤原と佐々木は午後の診察枠の案内に追われていた。

 (午後も忙しいだろうなぁ…漏れがないよう、しっかり確認しておこう)

梛七は誰にも悟られぬよう、人一倍気を引き締めたのだった。