北イタリアの都市ヴェローナの街外れに苔むした廃墟がある。古い屋敷の跡で住む人は長くいなかった。そこに謎めいた修道僧ロレンソが暮らすようになったのは、いつ頃か? 正確な時期を答えられるヴェローナは恐らく、誰もいないだろう。
 いや、ロミオは知っていたかもしれない。ヴェローナの名門貴族モンタギュー家の跡取りである彼は、幼い頃からロレンソと親しくしていた。盲目の修道僧が持っていた謎めいた雰囲気がロミオ少年の心を惹き付けたのだろうか。
 ロミオが長じてからも、その関係は変わらなかった。だが、廃墟の役割は若干の変化があった。昔は子供の遊び場だったけれども、大人の遊び場へ姿を変えたのだ。美青年に変貌したモンタギュー家のプリンスは女性との逢引の場にロレンソの廃墟を利用していた。
 神聖なる修行の場を淫楽のために活用されて、ロレンソは立腹しなかったのだろうか?
 歓迎していた。ロミオの快楽追及は、ロレンソの研究に貢献していたためだ。
 修道僧ロレンソは、様々な材料を調合し、色々な薬物を作る研究をしていた。薬品の原料となるのは自然界で採取された動植物や鉱物だったが、人体に由来する物質もあった。愛を知った女性の残り香を絹に沁み込ませ、それを各種の触媒入り液体を噴霧して陰干しする。そんな大変な手間のかかる工程を経て作られた絹が、材料の裏ごしに必要不可欠だったのだ。
 つまりロミオとロレンソはWin-Winの関係だった。
 従って、ロミオからキャピュレット家の令嬢であるジュリエット誘拐計画への協力を求められたときは快諾し、街から脱出する馬を廃墟に隠しておいたのだ……が、誘拐被害者であるはずのジュリエットに背負われた誘拐犯ロミオの土気色の顔を見たとき、激しい後悔を感じた。何か、途轍もなく悪いことが起きていると直感したのだ。
 ロミオを背中から下ろしたジュリエットが涙ぐんで言った。
「気分が悪いと言い出して、動けなくなったの。ねえ、何とかして!」
 ロレンソはロミオを診察した。その口から漂うわずかな異臭を嗅ぎ取る。
「これは私の調合した気付け薬の香りだ。だが、強すぎる。用法用量を守っていない利用法だ」
「あなたの作った薬なの? それじゃあ、何とかしてよ!」
 ジュリエットが殺気立った。ロレンソは怯えた。
「わかった、わかったから! 落ち着いてくれ。今から治療を始める」
 薬品棚から幾つかの瓶を取り出し、それらに入った薬剤を調合して、湯に溶かす。その湯を冷まし、刷毛を浸す。
「これを鼻の下に塗るのだ。塗りにくいな。ちょっと鼻の下を伸ばしてみてくれ」
 ロレンソに言われ、ジュリエットはロミオの鼻の下を伸ばした。
「そうだ、それでいい」
 薬を塗り終えたロレンソが刷毛をテーブルに置いた。ジュリエットはロミオの様子を窺った。永遠の愛を誓った恋人は虫の息のままである。彼女は血走った眼で修道僧に食って掛かった。
「どうなってるのよ! 何も変わらないじゃない!」
 ロレンソはテーブルを手のひらで叩いた。
「聞いてくるまで時間が掛かる。しばらく待て」
 掌打のためにテーブルから刷毛が落ちたのとほぼ同じ頃、ヴェローナ太守の館では駆け落ちしたロミオとジュリエットを捕らえる計画が話し合われていた。
「捜索に多くの人数は割けない。キャピュレット家とモンタギュー家の郎党がいつ市街戦を始めてもおかしくないんだ。両者をけん制するための兵力がいる」
 ヴェローナ太守の言葉に、新任の傭兵隊長オセローは頷いた。
「助手が一人いれば十分だ」
「少なくないか?」
「いや、その方がいい」
「どうして?」
 訝しげなヴェローナ太守にオセローは理由を述べた。
「前任の傭兵隊長エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノに忠誠を誓っている兵隊がいるかもしれん。そういう連中は俺の足を引っ張りかねない。捜索の邪魔となる」
 ヴェローナ太守の甥パリス青年が口を挟んだ。
「エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノは、どうして傭兵隊長を辞めたんです?」
 パリスの伯父であるヴェローナ太守が不機嫌そうに言った。
「そんなこと、今はどうでもいい」
 パリスは憮然とした。その様子を見てオセローがグスッと笑う。
「辞めたわけじゃない。行方をくらませたんだ」
 目をぱちくりさせてパリスが尋ねる。
「あの男が、行方をくらませたって、どういうこと?」
 オセローはヴェローナ太守を見た。ヴェローナ太守は溜め息を吐いた。
「密告があった。エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノは異端の信仰を持っているという密告だ。事実とは思えなかったが、本人に確認した。違うと誓ったその日のうちに、奴は姿を消した」
 中世ヨーロッパはキリスト教のカトリックと異端派の闘争の場であった。カトリックのお膝元であるイタリアも例外ではない。むしろ、もっとも異端がはびこったのがイタリアだったとしても過言ではないだろう。カトリックは異端を潰すために如何なる努力も惜しまなかった。その中には拷問や火刑も含まれる。
「もしかしたらエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノの他にも異端派がいるかもしれん、兵隊の中にも。そういった連中が今回の人事に反対して、人の背中で何か企んだら、困るんだ」
 その人事を決めたヴェローナ太守が言った。
「だが、二人の行方を追うために人手がいる。もう城壁の向こうへ逃げただろうから、早く沢山の追っ手を繰り出そう」
「この暑さだ、灼熱の街道を人も馬も長くは走れない。追われているのだから休憩する場所を探すのも大変だ。逃げた方角さえ読み間違えなければ捕まえられる」
 オセローはヴェローナ市街地の地図を求めた。用意された地図を眺め、その一点を指す。
「北のアルプス方面へ向かう城門の近くに大きな廃墟があるようだ。ここはどういう建物なんだ?」
「かつては異端派の巣窟だった。今は浮浪者が暮らしているようだ」
「行ってみる。パリス、一緒に来てくれ」
 突然のことで、パリスは驚いた。
「どうして俺が!」
「誰かに道案内をしてもらう必要がある」とオセロー。
「そんなの、他の奴らにやらせろよ」
 オセローはパリスの顔を覗き込んだ。
「聞くが……まさか、異端派じゃあるまいな」
 パリスは首を横に振った。
「そんなわけない!」
「それなら安心だ、さあ急ごう」
 パリスは伯父であるヴェローナ太守に助けを求めた。無駄だった。
「ジュリエットはお前の婚約者になる予定の女性だ。お前が救わなくてどうする?」
「だから、それは反対だと!」
 ヴェローナ太守は怒った。
「いいかげんにしろ! これ以上の縁談はないぞ! ジュリエットはヴェローナの名門貴族キャピュレット家の娘だ! 何の不足がある!」
「だって、俺には将来を誓った女性がいるんです!」
「何だと! 誰だ、誰なんだ!」
 パリスは叫んだ。
「ロザラインです。キャピュレット家の一門で、ジュリエットの従姉妹のロザラインです!」
 そのロザラインは今、自らの邸宅を出てヴェローナの街外れに向かって移動していた。彼女が立案したジュリエット誘拐計画の行く末に強い不安を抱いたためである。ロミオに任せておいて大丈夫なのか? そう考えたら、居ても立っても居られなくなったのだ。
 ジュリエットがロミオを駆け落ちしたら、彼女の父であるキャピュレット家の当主は激怒する。実の娘であれ、絶対に許さなないのは確実だ。一人娘ジュリエットは勘当されるだろう。そうなると、キャピュレット家は跡取りがいなくなる。一番近い親戚は従姉妹のロザラインだ。
 自らをキャピュレット家の後継者にするため、ロザラインはジュリエット誘拐を思い付いたのだが……誘拐の実行役のロミオは頼りない男なのが最大の不安材料だった。自分に下心を抱いているのを利用して使っているけれど正直、使えない。もうヴェローナを脱出しているだろう。そう思うものの、何だか心配になってきた。そこでロザラインは、脱出用の馬が用意されたヴェローナ郊外の廃墟へ急いでいた。馬に乗れない彼女は必死で走るしかない。真夏の太陽を浴び汗だくだ。あと少しで到着する! というところで、遂に限界が訪れた。彼女は気を失い石畳の道に倒れた。
 ロミオが意識を取り戻したのは、ちょうどその頃である。ジュリエットは涙を流して喜んだ。
「良かった、本当に良かった! さあロミオ、立ち上がって! ハネムーンに行きましょう」
 修道僧ロレンソは慌てて止めた。
「無理無理、死ぬ死ぬ、起こさないで、そんなに揺らさないで!」
 ジュリエットは愛する人の命の恩人に嚙みついた。
「全然治ってないじゃない! 何とかしてよ!」
「そうは言っても」
 ロレンソが困惑している頃、オセローとパリスは馬上の人となり、ヴェローナの街外れへ向かっていた。パリスは有頂天になっていた。彼の伯父であるヴェローナ太守が、ロザラインと自分の甥の結婚に賛同の意向を示したためである。
 そこには冷酷な計算があった。ジュリエットがキャピュレット家の次期後継者の地位から外される可能性があると踏んだのだ。ジュリエットの父であるキャピュレット家の当主は、モンタギュー家を心底から憎んでいる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの精神そのままに、ロミオと駆け落ちしたジュリエットを家から追い出すだろう。そうなると、ロザラインがキャピュレット家の後継者になる目が出てくる。そのロザラインとパリスが相思相愛なら、好都合だ。
 そのロザラインである。熱中症の症状で気を失った彼女は、そのままだったら路上で帰らぬ人になっているところだったろう。しかし幸運にも通りがかった男性に助けられた。その逞しい腕に抱かれロザラインは馬上の人となっている。彼女は安堵の溜め息を漏らし男の顔を見上げた。男のニヒルな表情に彼女は見覚えがあった。
「……あなた、エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノね。私を助けて下さったのね」
 エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノはロザラインに水筒を与えた。
「たっぷり飲んでくれ。もうすぐ休める場所へ着く。そこで下ろすから、それまで寝ているがいい」
 男の胸に体を預けるロザラインの中に、今までにない安心感が生まれていた。頼りないロミオは勿論のこと、将来を誓ったパリスにも抱いたことのない安らかな気持ちだった。命を救われたことへの感謝の念に混じって、今までに感じたことのない思いが生まれてくるのを彼女は感じていた。そして、思った。もしかして、これは……愛かも、と。
 その愛をどうやって相手に伝えようかと悩んでいたら、目的地の廃墟に到着した。その入り口でエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノはロザラインを抱いたまま馬を降りた。廃墟の中に入る。その中ではジュリエットが喚いていた。
「私は早く結婚式を挙げたいの! ロミオと正式な夫婦になりたいの! 早くロミオを目覚めさせて!」
 意識を取り戻したロミオだが、すっかり目覚めたとは言い難い。大声でジュリエットが叫んでいる横でボンヤリしている。
 ジュリエットは嘆いた。
「私は結婚式を早く挙げたいの。ただそれだけなのに……だから早く何とかして!」
 苦情を浴びて辟易しているロレンソが、その場に現れたエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノと、その腕の中でお姫様抱っこされたロザラインに気付いた。
「どうしたんだ、こんなところへ。何があったんだ、同志よ!」
 エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノは自分の異端信仰が発覚したことを伝え、それから同じ異端派のロレンソに警告した。
「同志よ、君も危険だ。すぐに逃げよう」
 ロレンソは動揺した。異端派は改宗しない限り殺される。そして彼に改宗の意志はなかった。昔からの同志に話す。
「今ちょっと立て込んでいるが、逃げる準備をする。まず、この状況を何とかしないと」
 それからロレンソはジュリエットに聞いた。
「ここで結婚式を挙げてもいいかな?」
「いいとも!」とジュリエット。
 そのとき廃墟にオセローとパリスが到着した。入り口で主人を待つ馬を見て、パリスが言った。
「エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノの馬だ」
 オセローは馬の鞍に括り付けていた剣を取った。
「前任の傭兵隊長殿はかなりの腕利きと聞いている。良い勝負を楽しめそうだ」
 パリスは逃げ腰である。だが、ここで頑張ればロザラインとの結婚が伯父に認められそうなので、オセローの後に続いた。
 二人は廃墟の奥へ入った。そこは変な甘い香りと奇怪な詠唱で満たされていた。
「何だこれ」とパリス。
 オセローは匂いと詠唱の正体を知っていた。慌てて口と鼻を塞ぐ。
「異端派の使う強力な薬剤と催眠術だ。いかん! 効いてきた……」
 その場にいた人間の大半がロレンソの術にかかった。
 ジュリエットはロミオと結婚する夢を見た。パリスとロミオは夢の中でそれぞれロザラインと結婚式を挙げた。ロザラインはエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノとの結婚式を夢見て、エッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノはロレンソとの同性婚に心を弾ませた。オセローは恋人デズデモーナとの幸せな未来を見た。
 そのすべてが真夏の白昼夢である。