その日は朝から街の様子がおかしかった、とヴェローナに暮らす連中は後になって言った。当時ヴェローナで暮らしていた俺の感じでは、特に何も変わらない普段通りの朝だった。だが、そう思わない者たちがいた。朝が訪れる遥か前からコーカサスアサガオが花開いていたから縁起が悪いとか、その花びらに嘴を突っ込んでいたのが絶対に夜は飛ばないことで知られるアルプスハチドリだったとか、夜明けを告げたのが雄鶏ではなく雌鶏だったとか、だからどうしたと言いたくなるような話をさも大ごとであるかのように顔を寄せ合い不安げに語り合っていたのを覚えている。迷信深い一部の輩が騒ぐものだから、一般大衆の気分は揺らぎ、それに引きずられて理性的な者たちも変な具合になった。それは俺の伯父さんも同じだったように思う。
 いや、そうでもないのかな。
 それこそ、俺の思い込みなのかもしれない。いつもは冷静沈着な伯父さんが、公正なヴェローナ太守として皆から信頼されている人が、あんなに慌てた様子を俺はそれまで見たことがなかった。これは天変地異の前触れかも! と心配した覚えがある。
 その影響で、俺の記憶が混乱してしまったのだろうか? ヴェローナを支配する者と支配される大衆の不安が俺の内部で入り混じり、不正確な形で脳裏に刻み付けられてしまったのだろうか? まあ、どっちでもいい。話を進めよう。
 その日の前の晩、俺は悪友たちと悪所で博打をやり、すってんてんになりかけて、そこからの逆転! で儲けた金を次の勝負で使い果たし、そこから少し勝って金を取り戻すという盛り上がるともそうでないとも言い難い結末と美味い酒を味わいつつ寝た。翌朝は日が昇る前に起きた。喉が猛烈に乾いていた俺は建物を出て、近くにある井戸へ行って冷たい水を汲んで飲んだ。生き返った思いがした。体の隅々に水分が行き渡ったためだろう。さっきまで感じなかった風の涼しさが心地好かった。
 その時分かな、朝日が昇ったのは。夏の太陽は地表を焼き尽くす勢いで照り付けるが、明け方のうちなら、まだ可愛いものだ。俺は朝日に向かって祈りを捧げた。それからグーンと背伸びをした。二日酔いは抜けている。体調は快調だ。さ~て今日一日、何をして過ごすか? なんて考えていたら、通りの向こうからこちらへ進んでくる人馬が目に入った。
 人も馬も体格の良いのが遠目からも分かった。馬上の人は立派な鉄兜を被った男だった。朝の光が金属に反射してキラリと眩しい。後ろに馬がもう一頭続いていた。そちらには荷物がくくり付けてあった。長くて太い槍が左右に数本下がっているのが見えた。
 傭兵だろうな、と俺は判断した。ここ北イタリアは政情不安定だ。各都市が争う群雄割拠の戦国時代と言って構わないだろう。戦争は日常茶飯事なので、それを職業にする者は多い。この男の持参している兜や槍から、そういった連中の一人だと俺は見て取ったのだ。
 勤め先を探しているのだろうか……なんて考えている俺に、その男は笑顔で声を掛けてきた。
「その井戸の水を飲ませてもらえるかな。喉も心も渇ききっていて、もう我慢ができそうにないんだ」
 あいにく俺の井戸じゃない。だが、飲ませる分には問題ない。
「いいさ旅人。たっぷり飲みなよ」
 男は馬を降りた。井戸の水を汲んで一口飲み、それから二頭の馬にも飲ませてやった。
 俺は男の顔をじっくりと観察した。頬に生えた髭は黒くて濃い。その肌は同じくらい黒い。旅人は白人ではなかった。黒人だ。
 ヴェローナで有色人種を見かけることはまれだ。同じイタリアでもアフリカに近い南部は、地中海を隔てたスペインみたいに有色人種のムーア人を普段の生活で目にする。北イタリアでも、地中海貿易で繁栄しているヴェネツィアやジェノヴァなら、まあまあ見る機会は多い。ヴェローナはヴェネツィアから凄く離れている! というわけじゃないけれども、どういうわけか異人種に接することが少ない。主要な交易相手は北部ヨーロッパなので、南の地中海より北のアルプスの方へ気持ちが向いているせいだろうか。
 喉の渇きを癒した男は兜を取り、冷たい井戸水を頭にぶっかけた。縮れた黒髪が水を弾く。それから旅人は綺麗な木綿のハンカチーフを懐から出して顔を拭いた。
「ああ、さっぱりした。どうもありがとう、もう一つ願い事があるのだが」
「俺にできることなら」
「ヴェローナ太守の館はどこだろう? 良かったら教えてくれないだろうか?」
 そこに俺は住んでる! と言い出しかけて止めた。
「ヴェローナ太守に何の用だい?」
「雇われたんだよ、ヴェローナ太守に」
「ヴェローナ太守に雇われて、ここに来たのかい? 何の仕事だろう?」
「こちとら生粋の軍人だ。傭兵の仕事をするんだ」
 当たり前のことを聞くな、といった表情だった。
「兵隊かい?」
「隊長として雇われた。兵隊を束ねる指揮官だな」
 俺は少しばかり驚いた。傭兵隊長の仕事はエッツェンリーノ・ダ・ゴダ・ロマーノという生粋のヴェローナ人が既にやっている。この男は、その代わりに指揮官に就任するのだろうか? その人事をヴェローナ太守である伯父さんが決めたのだろうか?
 そんな疑問を俺が抱いたのは訳がある。伯父さんは政治的なバランス感覚に優れている。そんな伯父さんが、遺恨を残しそうな人事をするだろうか。
 そうは思ったが、政治の世界はややこしい。何が起こるか分からない。
 例を挙げる。
 伯父さんはヴェローナ出身者ではない。西の大国ミラノから送り込まれた異国人だ。いわゆる余所者が、どうして太守を勤めているかというと、親ミラノ派ヴェローナ人が招聘したからである。
 親ミラノ派の代表はキャピュレット家だ。キャピュレット家の敵であるモンタギュー家は東の大国ヴェネツィアとの関係が深いグループの頭目だ。モンタギュー家を中心とした親ヴェネツィア派にとっては、ミラノが送り込んできたヴェローナ太守の伯父さんは、目の上のたん瘤なのだ。何か機会があれば失脚させようと企んでいる。
 そういう状況なので、余所者の伯父さんとしては、一般的なヴェローナ人の嫌ミラノ感情悪化を誘発するような事態を避けたいはずなのだ。
 肌の色が違うだけで、何が気に入らないのか騒ぎ立てる者たちは多い。白人のヴェローナ人傭兵隊長の代わりに黒人を就任させるというのは、親ヴェネツィア派のモンタギュー家グループが待ち望んでいた厄介事の種であるように思われた。
「貰った手紙には、可及的速やかにヴェローナ太守の元へ参上するよう書かれていた」
 そう言ってから男はニヤッと笑った。
「案内してくれたら、お礼を差し上げよう」
 俺は男を連れて家に戻った。ヴェローナ太守の館はアディジェ川の流れに面した小高い丘に建っている。館を防御する堀を兼ねたアディジェ川の支流に架かる橋を渡り袂の詰め所にいる門番の前を顔パスで通過する俺を見て、男は言った。
「一つ、聞いていいかな」
「何なりとどうぞ」
「ヴェローナ太守の甥のパリスというのは、あんたかい?」
 俺は足を止めた。
「そうだけど……よく分かったな」
「就職先について、ちょっとばかり調べたんだ。おっと、口の利き方に気を付けるべきだったな!」
 男はカラカラ笑って言った。
「子供のいないヴェローナ太守は甥御殿を後継者にしようとしていると聞いている。つまり、未来のヴェローナ太守様だ」
 俺の顔を覗き込んで男はウィンクした。
「ここに長く勤めるようなら、あんたとの関係を良くしておかないとな」
 その割には口調が変わっていないけど、それはこの際どうでもいい。新しい傭兵隊長が到着したことを伯父さんに伝えるよう、召使いに命じる。
「それじゃ、俺はここで」
「せっかくだから一緒にどうだ? 伯父貴(おじき)に朝の挨拶をしてないんだろ?」
「遠慮しとく」
「顔を合わせたくないってか」
 俺は男を睨んだ。男は気にしていない様子だった。
「噂には聞いている。最近、二人の関係がぎくしゃくしているとな」
 それから男は微笑んだ。
「良かったら話してみな。何かの力になれるかもしれないぞ」
 俺は何も言わず、その場を去ろうとした。伯父さんの元から戻って来た召使いが俺も一緒に執務室へ来るように伝えた。男は俺を横目で見た。どう出るか、様子を窺っているのだ。
 このまま自分の部屋へ戻っても良かった。だが伯父さんとの不和の噂話をされた直後だ。このまま自室へ引きこもるのも癪だった。俺は男の後ろに付いて伯父さんの部屋へ入った。伯父さんは落ち着かない様子で俺たちを迎え入れた。こんなに落ち着かない伯父さんを見たのは生まれて初めてだったので、俺は驚いた――という話は、もう書いたよな。
 男は落ち着いた声で自己紹介した。
「お招きにより参上した、オセローだ。ヴェローナ太守殿、よろしく頼む」
 この黒人の名はオセローというのか……と俺は思った。そして思い出した。隣国ヴェネツィア初の黒人将軍の名がオセローだったことを! 派閥争いか何かの影響で、左遷されたとか解任されたとか噂に聞いたが、その男がヴェローナへ来るとは考えてもみなかった。
 となると伯父さんは、ミラノと対立するヴェネツィアの高級軍人をスカウトしたことになる。
 俺は不安になった。このヘッドハンティングはヴェネツィアの感情を害してしまったのではないかと考えたからだ。
 自軍の将軍が敵国に引き抜かれたとあれば、機密情報が丸々漏洩したも同然だ。報復のためヴェネツィアはミラノと、その同盟国であるヴェローナに対し、何らかの軍事的アクションを起こす恐れがある。最悪の場合ヴェローナは戦場となるだろう。
 それが俺の不安だったが、伯父さんの狼狽は別の理由からだった。
「オセロー、早速だが仕事だ。いや、戦争ではない。軍務でなく人狩りだ。そちらの方も得意としていると窺っているが」
 伯父さんの確認にオセローは胸を張って答えた。
「任せてもらおう。何が起こったのだ?」
 その口調はヴェローナ太守に対する口調とは言いかねた。俺は伯父さんの顔色を盗み見た。よほど焦っているようで伯父さんはオセローの言葉遣いを注意せず、事件の概要を話し始めた。
 昨夜未明、キャピュレット家の一人娘ジュリエットが失踪した。彼女の姿が最後に目撃されたのは従姉妹のロザラインの屋敷だ。そこで開かれたパーティーに出席して、仮面を着けた男と話をしているところを何人も見ている。やがて二人はパーティー会場から消えた。
 そこで伯父さんは言葉を切った。オセローは目で先を促した。
「明け方になって、キャピュレット家に手紙が届けられた。届けたのは物乞いの老婆だ。暗いうちから残飯漁りに精を出していたら、通りがかった若い金持ちの娘からキャピュレット家へ手紙を届けてくれたら必ずお礼をすると言われて渡されたそうだ」
 オセローは人差し指を上に挙げた。
「その娘は一人だったのか?」
「連れの者は近くにいなかったらしいが、まだ暗かったから物陰に隠れていて見えなかったのかもしれない」
「わかった。話を続けてくれ」
「手紙はキャピュレット夫人が読んだ。それがこれだ」
 オセローは伯父さんから渡された手紙を広げた。一読して俺に渡す。俺は受け取った手紙の文章を音読した。
「お父様、お母様。これから私は愛した青年と一緒に旅立ちます。二人で愛の日々を送るためです。その男性はモンタギュー家のロミオです。そうです、我がキャピュレット家の仇敵モンタギュー家の嫡男です。二人の結婚を、とても許していただけないと思い、駆け落ちすることにしました。幸せになります。どうか探さないで下さい。私たちの結婚式にお二人をご招待できないことを、本当に申し訳なく思っています。わがままなジュリエットを、どうぞお忘れになって下さいませ」
 俺は手紙から顔を上げた。伯父さんと目が合った。伯父さんは俺を睨んでいた。伯父さんが言いたいことは分かる。だが、俺は伯父さんの思いとは逆のことを言った。
「二人の幸せを祈ってやろう、愛し合う恋人たちの将来を祝福してやろう。そんな気分になりますねえ」
 伯父さんは顔をしかめた。
「バカなことを言うな。これが何を意味するか、分かっているのか!」
「宿怨のある名門貴族の子供たちが、婚礼の祝宴を二人きりで上げようとしている、ですかねえ」
「ふざけるのもいいかげんにしろ。キャピュレットはカンカンに怒っている。一族郎党や仲間の貴族を引き連れてモンタギュー家に殴り込みをかけようという勢いだ」
 そうなったらヴェローナは街を二分する戦場に早変わりだ。なるほどヴェローナ太守の伯父さんがカリカリしているのも納得だ。
「それでもですよ、もう二人は駆け落ちしてしまったんです、どうしようもないじゃないですか」
「連れ戻す。二人をそれぞれの家に帰すんだ。それで状況は元通りだ」
 愛し合う恋人同士を引き裂いて得られる平和に何の価値があるのだろうか? と思うがヴェローナ太守としてはキャピュレット家とモンタギュー家の両勢力の均衡状態が最も価値あるもののようである。
「オセロー、聞いての通りだ。ロミオとジュリエットをヴェローナに連れ戻すこと。それが貴殿の任務だ」
 オセローは寂しげな笑みを浮かべた。
「二人だけの結婚式を、真夏の夜の夢のままで終わらせるのが初仕事とは……因果なものだな」