ジュリエットはヴェローナの名門貴族キャピュレット家の箱入り娘である。初心な少女なのだろうと誰もが夢想する。
 ロミオもそう考えていた。だが、予想とは違った。そう、まったく違ったのだ! その辺りからジュリエット拉致計画が少しずつ狂い始めたと言っていい。
 疲れ切ったロミオが洗面所で顔を洗ったとき、鏡に映った自分の顔が一晩でげっそりやつれてしまったことに気付いて、足が震えるほど狼狽した。こんなことは今まで、一度もなかった。彼は老いさらばえた死に損ないではない、まだ十代の若者なのだ。それなのに、まるで中年男のような相貌が鏡の中にあった。理由はハッキリしている。それほどジュリエットはタフだったのだ。休みたい、と彼は思った。洗面所を出てベッドへ戻る。だが、そこは安息の地ではなかった。
「ロミオ、駆け落ちしましょう。二人で誰も知らない場所へ行きましょう! どこか遠いところへ!」
 ベッドで待ち構えていたジュリエットが懇願した。彼女はロミオと二人っきりになってから、ずっと同じことを言っていた。そんなことより眠らせて欲しい、と正直ロミオは思ったが、彼女にそう言って欲しいと願ってもいたので、その願いを聞き入れる旨をまた伝えた。
 嬉しい、と泣いてジュリエットはロミオにすがりついた。その肩を抱き「二人で駆け落ちしよう、遠くまで行こう」と同じような台詞を繰り返しつつ、彼は頭の中で計画をおさらいした。
 ジュリエットに告白し、求愛を成功させる。
 この第一段階はクリアした。
 一緒に駆け落ちするよう、ジュリエットを説得する。
 この第二段階も説得するまでもなく向こうから提案されたのでクリアだ。
 次に二人でヴェローナから旅立つ第三段階へ入る予定だった。結構予定時刻は夜更けの人の少ない時間帯で具体的には今頃が最善なのだが、ロミオに不都合が生じた。疲労困憊で、その元気がなかったのだ。
 夜が明けたら人目につくので二人は街中を歩けない。キャピュレット家の一人娘と、キャピュレット家と同じくヴェローナの名門貴族であるモンタギュー家の跡取り息子が仲良く一緒に歩いているところを市民たちが見たら、それこそ大騒ぎになってしまう。キャピュレット家とモンタギュー家の対立は根深い。その両家の二人が仲睦まじく街を歩いていたら、異常事態なのだ。
 駆け落ちの準備は既に出来ている。街外れに馬を用意してあるのだ。今から向かえば日の出の時刻には馬が隠された街外れの古い屋敷跡へ到着する。しかし、そこへ行くのが面倒だった。そこそこの距離があり、歩くのは大儀なのだ。
 ロミオはジュリエットへの求愛に失敗した場合に実施する予定だったプランについて考えていた。
 ジュリエットがロミオを袖にしたとき――邪険に跳ね除けられた場合は、ロミオはジュリエットを誘拐するつもりだったのである。そのときに備え、待機している仲間が数人いた。その助けを借りて、街外れにある屋敷の廃墟まで連れて行ってもらおうか、と彼は考えていた。
 だが……あいつらは今、どこにいるのだろう? とロミオは頭を悩ませた。
 ロミオとジュリエットが今いる、この屋敷の中にいたら良いが、出て行ってしまっていたら面倒だ。
 いや……仮に、この邸内にいたとしても面倒なことに変わりない、とロミオは苦々しく思った。
 ロミオの仲間たちは部屋の様子を盗み聞きしていた。彼らはジュリエットの方から駆け落ちの話を切り出すのを聞いて、作戦成功を確信したはずだ。前祝いとばかりにパーティー会場へ戻り酒を呷って女たちに声を掛け……そして自分たちのお楽しみに励んでいる恐れがある。
 キャピュレット家の一員で、ジュリエットの従姉妹であるロザラインの邸宅は広い。その客室をノックし続けていたら、夜が明ける。
 対策を考えたがロミオは自分の脳内に答えを見出すことが出来なかった。
 疲れのせいだろうか? いや、そうではあるまい。ロミオは元々、思慮深いタイプではなかった。
 そんな彼でも頭を働かせることは可能だ。
「喉が渇いた。飲み物を持って来る」
 そう言ってジュリエットに口づけしたロミオは部屋を出た。仮面を着けてパーティー会場へ向かう。
 そこには二種類の人間がいた。一つは仮面をかぶっていない者たち。これはキャピュレット家の者たちや同家と友好的な人間が大半だ。ロザラインが主催するパーティーに正式な招待状を持参して訪れている。仮面は不要なのだ。
 もう一方のグループは、招待状無しの連中である。これは一夜のお楽しみを求めてロザライン邸を訪れた輩だ。ヴェローナの街の貴族や富裕な商人などの階層がほとんどである。正体を明かしたくない者ばかりなので、仮面は必須だった。
 逆に言うと仮面を着けてさえいれば、キャピュレット家の仇敵モンタギュー家の人間であるロミオと彼の取り巻きでもロザライン邸のパーティーに参加することが出来た……門の中に入る前に、目玉の飛び出るような額の参加費を払わねばならなかったが。
 パーティー会場でロミオは仲間たちの姿を探した。しかし残念ながら悪い予想通り、彼は悪友たちを見つけることが出来なかった。
 その代わり、ロザラインを見つけた。正確に言うと、彼女がロミオを見つけ話しかけてきたのだ。
 ロザラインは陽気に尋ねてきた。
「どう、上手くいっている?」
 ロミオは明るく答えた。
「順調だ、万事順調だ」
 ロザラインは勘が鋭い。声を低くして再び尋ねる。
「で、本当のところはどうなの?」 
 つばを飲み込んでロミオが答える。
「くたくた。早く寝たい。それで仲間を探しに来た。馬車を用意してもらおうと思って」
 ロザラインは豪華な扇子で口元を覆い隠した。
「だらしないわね。まだ若いんだから、しっかりしなさいよ」
 ロミオは自嘲気味に笑った。その張りのない笑い声がロザラインをさらに苛立たせた。男の腕を取り人目の付かない小部屋へ連れ込む。そしてドレスの胸元から覗く美しい谷間から小瓶を取り出した。シャカシャカ振って蓋を取り、ロミオの鼻の下に小瓶の口を押し付ける。
 小瓶の口から出てきたガスの刺激臭でロミオは激しくせき込んだ。蓋を閉めた小瓶を腹の上の双丘の隙間に戻したロザラインが言った。
「気付け薬よ。効き目がしばらく持つから、その間に屋敷を出て、街外れに向かいなさい。馬に乗ったら後は馬に任せなさい。隠れ家で連れて行ってくれるわ。ただし、あんたが落馬するんじゃないわよ」
 ゲホゲホが収まったロミオが尋ねる。
「あいつらに頼めないのかい? あいつらは駄目なのかい?」
「あんたのお仲間は皆、酔っ払って女どもとよろしくやってるわ。絶好調って感じ。ちょっと張り切りすぎかしら。あの調子なら、明日に昼過ぎまで使い物にならないと思うわ。まだ若いのにね」
 自分のことは棚に上げロミオは憤慨した。
「だらしのない奴らだ!」
「いいから早く行きな」
 一肌の温もりで程よく気化した気付け薬の吸入は抜群の効果を示したようである。ロミオはしっかりした足取りへパーティー会場の大広間を後にした。その背中を見守るロザラインの目つきは険しい。その視線が刃ならモンタギュー家の御曹司の心臓は背後から貫かれているはずだ。
 ロザラインはロミオの能力を不安視している。ジュリエット誘拐計画の実行犯には役不足ではないかと疑っているのだ。
 自分が誘拐の実行役をするべきだったかもしれない、と今更だが考えてしまう。
 それでも、もしものことを考えると男の手に任せた方が良かった。ロザラインとジュリエットでは体力や運動面での差が大きい。ジュリエットはスポーツ万能だった。運動が苦手で体力に自信のないロザラインでは、緊急時の対応が困難なのだ。
 とはいえ、やはり安心とは程遠い人選であるのは間違いない。
 それなのにロミオを選んだ理由は二つある。
 一つはロミオが絶世の美男子だったこと。
 もう一つは、ロミオがロザラインに片思いしていて、言いなりになるから、だった。
 パーティー会場の客たちと楽しげに語らいながら、ロザラインの心は館の外、ヴェローナの街路を彷徨っている。
 ロミオに導かれたジュリエットが幸せいっぱいの笑顔で星明りの下を歩いている……そんな光景が目に浮かぶ。
 くたばれジュリエット! とロザラインは笑顔の裏で罵った。