コツン。
 机に突っ伏した頭に冷たさを感じる。
 むくりと顔を上げると、一つ前の席へ横向きに座った幼なじみの央人(ひろと)が自動販売機で売っている紙パックのいちごミルクをこちらへ「ん」と差し出していた。たぶんこれは、『あげる』って意味だ。
「……ありがと」
 夏休み中の昼時の高校。午前で夏期講習の終わった一年A組の教室にいるのは私と央人だけ。
 いちごミルクを受け取ると、もう一度小さく「ん」と言って央人は反対の手に持っていた無糖カフェラテにストローを刺し始めた。
「まだ帰ってなかったんだ? 央人のクラスも今日は午前までじゃなかった?」
 希望者のみで行われる夏期講習後は、ほとんどの生徒は部活へ行くか帰りに友達とどこかへ寄って昼食を取るべく足早に去って行く。
「先生に雑用押しつけられてた。帰ろうとしたら、まだおまえがいたから」
「……そっか」
 いちごミルクといい、まだ私がいたからという理由といい。央人の何気ない気遣いに表情がほころんでしまうのを感じる。
 私も袋からストローを押しだそうとするが、普段よりも少し長く伸ばして桜色のネイルを塗った慣れない指先ではどうにもうまくいかずに手こずってしまう。
 見かねた央人が「ほら」と代わりにストローを刺してくれた。
 央人は優しい。どこまでもお人好しで、優しくて、かっこいい。自慢の幼なじみだ。
 高校へ入学して部活を始めて、そこで出会った三年の先輩に私は恋をして。それからというもの、この数ヶ月、私のどうでもいい悩みや先輩との部活の話と告白宣言まで、央人はいつも静かに聞いてくれた。
 いつか央人の彼女になる子は、きっと幸せだろうなと思う。
 もう一度「ありがとう」と小さく返していちごミルクを受け取り、ストローへ口をつける。
 一口飲み込むと大好きな甘い香りがふわりと広がった。
 朝から続くこの世のどん底にいるみたいな気持ちが、ほんの少し上を向く。
 ストローから唇を離し、紙パックを包むように持った両手を机の上に置いた。
「今日の告白、さ。やめようかな」
 私は今日――三年生の登校日に、先輩へ告白しようと思っていた。
 告白宣言を実行すべく、今日は自分なりにとびきり可愛くもしてきた。
 でも、もう。
「うん、やっぱ、やめよう」
 紙パックの角を両手の人差し指の先でなぞりながらぽつりと言ってみる。
 央人は横向きに座ってストローを咥えたまま、器用に片手でスマホの画面をいじっている。
「ふーん」
 私のつぶやきに驚くともなく、興味が無いかのような相づちだけが返ってきた。
 ただの相づちなのに、逆に何か理由をつけなければならないような気がしてくる。
「先輩、今年は受験生だし」
 スマホの画面へ視線を落としていてこちらを見ていない央人の横顔へ、私はぐっと意識して口角を上げてみせる。
「勉強とか、忙しいと思うし」
 聞かれてもいない言い訳のような理由が次々と、馬鹿みたいに明るい声音で口から出てくる。
「私、一年だし。残念ながら私ってそんなに可愛い方じゃないし。先輩は国立志望だからうまくいっても遠距離確定だし。半年は受験に集中からの遠距離とか、冷静に考えると私の青春もったいなーって感じもするし。ていうかそもそも、私なんかから告白されたら迷惑だよなー……とか、思ったりもするし」
 一切合切を誤魔化すように「えへへ」っと乾いた笑い声をあげてみると、むなしさがこみ上げてきた。
 そんな私の目の前で、央人はさっきからこっちを見ないどころか相づちさえ打ってこない。
「……なんか言ってよ……」
 耐えきれずに返事を促すと、やっと央人が咥えていたストローを離してスマホ画面から顔を上げた。
 いつもの優しい央人からは想像できないくらい、冷たい目がこちらを見ていた。
「……で?」
 返ってきたのは慰めるでもいたわるでもない、非難がましい声音の冷たい一言。
「で……って……」
「で? だから告白やめるの? でも好きなんだろ? 先輩のこと」
「だって――!」
「本当の理由は、何?」
 さらに言い訳を続けようとする私を遮って、央人が理由を尋ねてくる。
 央人の真っ直ぐな視線に耐えられず、私は少しうつむいて両手の中にあるいちごミルクのストローの先をじっと見つめた。
「……先輩、彼女いるんだって」
 ぽそり。答えた声は自分でも驚くくらい小さくか細かった。
「今朝、学校まで来る途中で、一緒に歩いてるところに会っちゃって」
「うん」
「彼女さん、いま大学生で、先輩の先輩なんだって、紹介してくれて」
「うん」
「私と全然違う感じで大人っぽくて……」
「うん……」
「先輩、今まで見たことない顔してて。彼女さんと一緒にいるの、楽しそうで」
「……うん」
 さっきまでとは違い、央人はずっとこちらに顔を向けて優しい声で相づちを打ってくれる。『聞いてるよ』と、伝えてくれているみたいに。
 言い訳がましい理由ではなく本当の気持ちを吐き出していくと、ずっと堪えていた悲しさが堰を切ったようにあふれ出てくる。
「そんなの見ちゃったらさ。もう、告白なんて、できないよ」
 つう、と。こぼれた涙が頬を伝った。
「でも、まだ好きなんだろ?」
 もう一度、私の気持ちを確認するように央人が言う。
「……うん……。まだ、好き」
 涙の中で小さく答えると、「だったらしょーがねーよな」と、俯いた私の頭の上で央人がふっと優しく笑った。
「告白、して来いよ。先輩まだ居たよ。好きって気持ち、伝えてこい」
「でもっ――!」
 次々と溢れ出る涙と不安でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、いつもの優しい央人がそこにいた。
「おまえが好きになった先輩は、ちゃんと他人(ひと)の気持ちとか言葉を聞いてくれる人なんだろ? だったら、大丈夫」
 央人が言うと、なぜだか大丈夫な気がしてくるから不思議だ。けれど。
「……どうせ無理ってわかってるのに、ちゃんと伝えられる自信、ないよ……」
 すがるように、胸の内でなおもくすぶる不安を打ち明けると、ぽんっと頭の上に優しい熱を感じる。大きくて温かい、央人の手のひらだ。
「じゃあ……俺も告白するから、おまえも告白してこい。二人なら、勇気も湧くだろ?」
 ニッと、まるで『名案じゃん?』と自慢するかのように央人が笑った。
「うっし、神崎(かんざき)央人、これから告白します!」
「え、ちょっと待って――!」
 央人も告白宣言をし始める急展開にも、そもそも好きな子がいたらしいという事実にも、頭がついていかない。
 言葉が出てこずにただただ呆然としていると、スマホと無糖カフェラテを机に置いた央人が座り直して正面から私を見てくる。
「俺、おまえが好きだよ。ずっと前から、ずっと好きだった」
 突然の真剣な告白をぽかんと聞いていた私だが、徐々に恥ずかしくなり頬に熱が集まる。きっと耳の先まで赤いに違いない。
「おまえが好き。でも全然俺のこと見ないし、挙げ句先輩を好きになるし。だからちゃんと告白して、ちゃんと気持ち伝えて、ちゃんとすっきりしろ! それで、いつかまた誰かを好きになってもいいかなって思えたときには……今度は俺のこと、考えてみてよ。何回だって、告白するからさ」
 夏が、動き出す予感。
 涙はとっくに引っ込んでいた。