あれから、一週間が経過した。
 波音とは、タワーマンションを出てからは一度も連絡を取っていない。
 私はこれ以上波音への気持ちが大きくならないよう、できるだけ波音のことを考えないようにして日々を過ごしていた。
 私は今、地方の実家に帰っている。 
 わけを話したら家族はあたたかく私を受け入れてくれて、今は休んでいていいと言ってくれた。
 そのため今は、これまでの貯金を崩しながら次の教員試験に向けて勉強をしている。
「……ふぅ」
 参考書を閉じ、目頭を押さえる。
 窓に目を向けると、夏風にカーテンが揺れている。
 静かな部屋に、小鳥のさえずりと愛犬の鳴き声がする。
「……あ、散歩に行きたいのか」
 今日はそこまで暑くもないし、曇っているし……。
 一階に降り、居間にいたお母さんに声をかけてから、外に出る。
「コロ~お散歩行こう~」
 名前を呼ぶと、小屋の中から白黒の毛並みの犬が出てきた。
「きゃんっ!」
 鳴きながらダッシュで駆けてきたのは、実家で飼っている愛犬のコロだ。くりくりとした黒目がちの瞳が可愛らしいボーダーコリーである。
「よしよし。お散歩行こうね」

 夕方の田んぼ道を歩きながら、薄く伸びた影をぼんやりと見下ろす。
(波音は今、なにしてるんだろう……)
 気を抜くと、ついそんなことを思ってしまう。ぎゅっと目を瞑って、頭の中から余計な思考を排除する。
 そのとき、ブブッとスマホが鳴った。
 ポケットからスマホを取り出し、アプリを開く。メッセージが立て続けに二件、入っていた。
 一件目は沙羅から。今から電話する、というメッセージだった。
「……え、今から!?」
 すぐに沙羅からかかってきた。
 通話ボタンをタップした瞬間、スマホから沙羅の大きな声が響いた。
『ちょっと桜!? 波音の家出たってなによ!?』
「え、いやだって……波音は舞台も始まったし、それに、好きな人もいるって分かったのに、これ以上迷惑かけるのはダメだって思ったんだもん」
『迷惑って……違うよ。波音の好きな人は……』
 沙羅は苛立たしげに言葉に詰まった。
『……今どこにいるの? なんで私になにも言ってくれなかったのよ』
「……沙羅だって忙しいでしょ。それに、子供じゃないんだし、いちいち相談なんてしないよ。今は実家でのんびりしてる。次の教員試験、地元で受けようと思って」
『地元って……それじゃあ、もうこっちには戻って来ないつもりなの?』
「遊びに行こうと思えば行けるし、べつにそっちに住むことにこだわることもないかなって」
『…………ねぇ桜。桜はそれでいいの?』
「いいって?」
『波音のこと。好きなんでしょ?』
「…………」
『あのときは、私の言い方が悪かった。桜、あと一回だけでいいから、波音に会いに行ってきなよ。で、正直に気持ちを話してきなよ』
「……それはダメだよ。だって、波音の迷惑になっちゃうもん。波音は私のことを友達だと思ってるからこそ、泊めてくれたんだと思うから」
『……違うよ、桜』
 スマホを通じて聞こえてきたのは、沙羅の声じゃなかった。
「え……波音?」
(どうして? これ、沙羅のスマホ……)
『違うよ。俺は、桜のこと、友達だなんて思ったこと一回もないよ。桜、俺――』
「あ――ご、ごめん、私今ちょっと外に出てるから、ごめん、切るね」
 ――プツッ……。
 動揺して、思わず通話を切ってしまった。
 手を胸に持っていく。まだどきどきしてる……。
(波音の声、たった一週間ぶりなのに……こんなに懐かしいなんて……)
 いつの間にか、私はこんなにも波音のことを好きになっていたらしい。
「あぁもう……」
 俯くと、アスファルトの上に座り込んだコロがきょとんと首を傾げていた。
「……帰ろっか」
「アンッ!」
 歩きながら、そういえばもう一件メッセージがきていたことを思い出す。
 もう一件は……。
『会いたい』
 意外な名前に手を止める。
「えっ……真宙くん?」
 胸がざわつく。
 今さら、なんの用だろう……。
 なんて返信しようか迷っていると、今度は着信が来た。驚いて思わず通話ボタンをタップしてしまった。慌てて耳元にスマホを持っていく。
「わっ、あ、あの、もしもし」
『……桜?』
 懐かしい。ほんの数ヶ月前まで焦がれてやまなかった真宙くんの声が聞こえる。
「真宙くん……どうしたの?」
『……久しぶり。元気にしてた?』
「……うん。まぁ。真宙くんも、元気?」
『うん』
 淡白で、抑揚のない声は相変わらずだ。
「……なにか用、かな?」
『……話があるんだけど、明日会えない?』
「え……」
 舌が痺れるような感覚になる。
 片想いのときも、付き合っているときでさえも、真宙くんから会えないかなんて言ってきたことはない。……一度も。
(…………今なんだ)
 虚しさが心を支配した。
「……分かった」