海から帰ると、私はまっすぐ浴室へ逃げ込んだ。
 湯船に浸かって、溢れ出る涙を誤魔化す。
(泣くのは今だけ。ここから出たら笑って、今度はちゃんと波音の恋を応援する)
 そう、ちぎれそうな心に言い聞かせた。

 お風呂から上がると、私は波音に浴室から出たことだけ告げて自室へ入った。
 部屋でぼんやりとタオルドライをしていると、隣の部屋の扉が開く音がした。波音もシャワーを浴びにいくのだろう。
 私は波音がいないことを確認して、喉をうるおしにキッチンへ向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、リビングへ行く。
 ソファに座って、スマホをいじる。画面を見つめ、小さくため息を漏らした。
「……教員採用試験は今年はもうないしなぁ」
 仕方なく臨時職員の募集要項を確認する。
 臨時教員では、なれたとしても生活が苦しい。とはいえ私立校の教師というのもあまり気が進まない。でも、そんなことも言っていられない。
 波音のためにも、今はとにかく就職を決めてここから出ないといけない。
「ここらへんがいいかなぁ……」
 いくつか候補を見つけて唸っていると、横からひょっこりと波音が顔を出した。
「就活?」
 お風呂に入っていたはずの波音は、いつの間にか隣にいた。
「わっ! 波音、いつからいたの!?」
 タオルを首にかけ、ラフな部屋着姿で波音が私のスマホを覗く。
「いつからって、ため息ついてるあたりから。桜、声かけても無視なんだもん」
「ご、ごめん。全然気付かなくて」
 立ち上がろうとすると、肩に手を置かれて制された。
「焦らなくてもいいじゃん。このままここにずーっと住んでていいんだよ? 桜がいてくれると、ものすごく助かるし」
 波音はそう言ってくれるけれど。……というか。
「それじゃただの同棲だよ!」
「そうだね。でも、俺たちは恋人なんだから、普通でしょ?」
 波音が頬にチュッとキスをする。
「わっ……ばばば!! なにするの!」
 私はものすごい勢いで後退った。
「唇じゃないですから」
 ペロッと舌を出して波音が言う。
「だ、だから、そういうことされると……」
「ん? そういうことをされると、なに?」
 波音はケロッとしている。確信犯だ。
「……なんでもない。とにかく、もう失恋からは立ち直れたし、そろそろ波音のお世話になるのもやめなきゃと思って」
 カレンダーを見る。もうすぐ、『失恋カレシ』の舞台の幕が開く。
「……でも、仕事決まってないんでしょ? ならまだ……」
 戸惑うような声で波音が言う。私は首を横に振った。
「……ダメだよ」
「桜……」
「……波音は演技で慣れてるのかもしれないけど、私はこういう恋愛ごっことか慣れてないし……やっぱり、舞台の練習は私より女優さんに頼んだほうがいいと思うの」
「いやだ。俺は桜がいい」
 駄々をこねる子供のように波音は言う。
「ありがとう」
 目を伏せて、立ち上がる。
「髪乾かさないと」
「桜……」
(……ごめん、波音。私やっぱり応援なんて無理だ)
「もう寝るね、おやすみ」
 胸が軋むように痛い。
 私は、逃げるように自室に入った。

 ――翌日、早朝。
 私は、昨日の深夜から荷造りをしていた。
「……よし」
 すべて片付いた。あとは、荷物を持ってここを出るだけ。
 最後、波音の部屋の前で立ち止まる。
(応援はできない……だから、ここを出るね)
「今までありがとう……波音。バイバイ」
 荷物を持って、私はタワーマンションを出た。