波音が連れていってくれたディナーは、東京湾が見渡せるビルの最上階のフレンチだった。
 正装した波音はいつもより格好良くて、出てくる料理もどれもすごく美味しかった。
 だけど、私の心の中は荒波がざばざばとうるさく音を立てていて。
 このドレスはどうしたのだろうとか、もしかして、好きな子にあげるために買ったものなんじゃないかとか、そんなつまらないことばかりが頭をよぎって、食事どころではなかった。

 料理のあと、波音は寄りたい場所があるといって、私を海へ連れてきてくれた。
「……桜、寒くない?」
「大丈夫だよ」
 今は七月。すっかり日は落ちているけれど、地面に籠ったままの熱のせいで汗ばむくらいに暑い。
 ザザン、と波の音が涼しさを演出してくれる。
「……ねぇ桜。ご飯あまり好みじゃなかったかな?」
「え?」
 隣を見上げると、しゅんとした顔の波音がいる。
「えっ? すっごくおいしかったよ?」
「……でも桜、食べてる間ずっと眉間に皺寄ってたから。フレンチ、あんまり美味しくなかったのかなって……」
「ぜ、全然っ! どの料理も美味しかった! 波音、連れてきてくれてありがとう」
「じゃあ、なにか悩みでもある? なんでも話してよ。俺にできることなら力になるから」
 どこか苦しそうなその表情に、否が応でも期待してしまう。
 ぎゅっと奥歯を噛む。
 留まれ、と自分自身に強く言い聞かせる。
 それなのに私の口は、勝手に言葉を紡いだ。
「……あの、波音。私、ずっと聞きたかったことがあるんだ」
「うん、なに?」
「波音って、好きな人いるの?」
「――え」 
 波音の息が詰まるのが分かった。動揺を表した波音の顔を見つめ、あぁ、と思う。
「……いるんだね」
 沙羅の言葉を疑っていたわけじゃない。沙羅は嘘は言わないし。
 ……でも。
(嘘だったらよかったのにな……)
 そう思った自分の心に、自嘲気味の笑みが漏れた。
 私と波音の間を、夜風が通り過ぎていく。
「……沙羅から、なにか聞いた?」
「…………」
 波音はなにも答えない私から諦めたように目を逸らして、小さく頷いた。
「……いるよ。好きな人」
 答えてくれると思わなかった私は、驚いて顔を上げる。
「それって、私の知ってる人……?」 
 もうよせばいいのに。
 聞いたって、なにもならないのに。今さら、好きだって自覚したって、私に勝ち目なんてないのに。
「……うん」
 自分から聞いたのに、泣きたくなった。
 吸った空気が肺にしみる。
 今は夏。空気はどんより重くて暑いのに、肺がキリキリとする。
「そうなんだ……」
 悲しくない。悲しくない。
 波音の恋が実るように、私は全力で応援するべきなのだ。波音がずっと、私にそうしてくれたように。
 ふと、顔に影が落ちた。
「桜」
 頬に波音の手がさっと触れ、すぐに離れた。顔を上げると、真剣な眼差しで私を見る波音がいる。
「今、桜はどんな気持ち?」
「え……」
 どんな、とはなんだと波音を見ると、波音は手で首元を撫でている。
「失恋の具合っていうか……その、真宙のこととか」
 あぁ、そういうことか。
「真宙くんのことは、もうだいぶ吹っ切れた。波音のおかげだよ、ありがとう」
「そっか……それならどうなのかな。……たとえば、次の恋とか」
 波音から海へ視線を流す。夜空と海のぼんやりとした境界線を見つめながら、小さく返す。
「……それはいいかな」
「……え」
「恋愛はもういいかなって。私には向いてないって、今回のことでよく分かったから」
 沈黙が落ちる。
 ざざん。
 波の音が大きくなったような気がした。
 帰り道、私は波音の顔を見ることができなかった。