(暑い……)
 こめかみから流れた汗の雫が顎につたい、ぽっと落ちる。煩わしい汗を、俺は首にかけていたタオルでぞんざいに拭った。
 空調の壊れた稽古部屋は、今の季節は地獄だ。冬は冬で寒くて凍えるのだが、それでも動けば多少は寒さも和らぐ。だが、夏はそうはいかない。
 頭にタオルをかけ、座り込んで息を整える。
 今回の舞台は殺陣があるわけでも、特別ダンスがあるわけでもない。立ち位置移動と歌を歌うだけでこの汗である。
(……しんど)
 引かない汗を拭っていると、ふと目の前にほっそりとした足が見えた。
「絢瀬さん、お疲れ様です」
 顔を上げると、綺麗な女性と目が合った。
「……あ、緑谷さん、お疲れ様」
 腰まで伸びた明るめの茶髪と、涼し気な切れ長の瞳。
 彼女の名前は緑谷(みどりや)千香子(ちかこ)。彼女は、今絶賛稽古中の舞台『失恋カレシ』のヒロイン役の女優である。
 緑谷さんは俺の隣に座ると、さらりとした声で言った。川のせせらぎのようだ、と俺は彼女の声を聴くたびにいつも思う。
「この前、マカロンご馳走様でした。すみません、私までいただいちゃって」
 言いながら、彼女は隣で水分補給をしている。
 以前桜にあげたマカロンの情報は、実は彼女から仕入れた。顔に似合わずケータリングや差し入れで誰より先に甘いものを食べる彼女なら、きっといい店を教えてくれると思ったのだ。結果、俺の判断は間違っていなかった。
 そのお礼として、彼女にも同じものを贈ったのだった。
「あぁ……いや」
 彼女の白い喉元が上下する様子をぼんやりと眺める。
「?」
 ふと、目が合った。緑谷さんが首を傾げる。立ち振る舞いや仕草まで涼し気な人だ、と思う。 
「どうでした? 反応は」  
「緑谷さんの言う通り、すごく喜んでもらえた」
(あーんを恥ずかしがってた桜だけど、最終的には許可してくれたし……)
 桜とマカロンを食べたときのことを思い出して、ふっと笑みが漏れる。
「あれ、妹さんへのプレゼントでしたっけ。相変わらず溺愛なんですね」
 緑谷さんは頬杖をつきながらにこりと笑った。その笑顔は、美術館に展示されている絵画と見間違えてしまいそうになるくらい美しい。
「妹かぁ……」
 実際はまったく違うが、そういうことにしている。
「……うん。そう、妹。超可愛いんだ。ウチのコ」
「ははっ。羨ましいです。こんなにカッコよくて優しいお兄ちゃんがいて」
「ま、本人には全然伝わってないんだけどね、俺の愛」
「あ~それもぽいです。だって、絢瀬さん自体も案外鈍そうだし。妹さんも絢瀬さんに似たんじゃないですか」
「えぇ。俺はそんなことないよ」
「そうですか? 案外マイペースだし、私、絢瀬さんのこと女の子みたいだなって思うこと多いですよ」
「うそ……!?」
 愕然とする。
(……女の子はいやだ……!!)
「たとえばどんなところが?」
「顔」
「……努力でどうしようもないところをあげるあたりがいい性格してるよね、緑谷さんって」
「あとは雰囲気? 絢瀬さんってなんか中性的な感じがして。男同士のカップリングが映えるんですよ」
 にやっとする緑谷さん。
「は?」
 俺は眉を寄せ、緑谷さんを見る。
「あ、つまりBLってことです。舞台好きな女子っていうのは大体腐ってますから」
「そ、そんなことないでしょうよ……」
「絢瀬さんは七木さんとよくネットでカップリングされてます。たしか二次創作とかもあったりして……」
(か……考えたくない考えたくない)
「結構面白いですよ」
「……ソウデスカ」
 緑谷さんは俺を見てくすっと笑う。
「いいじゃないですか~想像くらいさせてあげれば。これも一種の夢ですよ。乙女の夢!」
「分かってるよ……」
 複雑だけど。というか相手がなんで七木なんだ。……いや、桜以外の誰が相手でもいやだけど。
「……あ、そうだ。それよりまた緑谷さんに相談したいんだけど。今度妹と出かけようと思ってるんだけど、女の子ってどこに連れていくと喜ぶかな? 一応今考えてるのは、テーマパークなんだけど……」
「……うーん。時間帯とかにもよりますよね」
「夜になっちゃうかな。仕事が終わってからとか」
「じゃあ、ナイトプールとか?」
(プールか……桜の水着姿を見られるのは嬉しいけど、恥ずかしがりそうだな)
「もうちょっと大人しめのところはない?」
 緑谷さんは眉を寄せて考え出した。
「水族館とか、海とか?」
「あ、いいねそれ」
「でも、それに行くなら先に食事を済ませたほうがいいですよ。水族館のフードコートじゃ、子供はいいけど大人は味気ないし」
「そうだね。ありがとう。参考にしてみる」
 やっぱり緑谷さんは頼りになる。
(食事はなににしようかな……桜はよく和食を作ってくれるけど、沙羅とはイタリアンとかスペイン料理の店によく行ってるし……)
 黙り込んで考えていると、
「なに難しい顔してんの」と、七木が声をかけてきた。
「実は、絢瀬さんにおすすめのデートスポットを聞かれて相談に乗ってたんですよ。妹さんと行きたいらしいんですけどね」
 俺の代わりに緑谷さんが答える。
「……妹、ねぇ」
 七木は意味深な視線を向けてくる。
「……なんだよ」
 ふんっとかすかに笑って、七木は俺の隣に腰掛けた。
「相変わらず健気だな、と思って」
「……うるせ」
 こっちは桜に意識してもらえるように必死なのだ。