「わっ! 美味そ~!」
 すかさず波音がビーフシチューに飛びつく。
 私はカトラリーを渡しながら、付けていたエプロンを脱いだ。
「桜、おいで?」
 甘い声で呼ばれる。
 仕方なく、仕事だから仕方なく、波音の膝の上に座る……。
(うぅ、恥ずかしい……)
「はい、あーん」
 約束通り、あーんされる。
 恥ずかしいけど、素直に応じる。
 これは、失恋カレシの舞台で実際にある場面らしいから仕事のうち。
 だけど……恥ずかし過ぎる!
「どう? 美味しい?」
「う、うん」
 頷くけれど、ぶっちゃけ……。
(味なんて分からないよ……!!)
 目が回りそう。
「桜、今日も一日お疲れ様。頑張ったね」
「う、うん」
 まるで子供にしてあげるように優しく頭を撫でられる。
(落ち着け、私。私は今、失恋して落ち込んでいるヒロイン……!)
 言い訳のように頭の中で唱えては、必死に自分自身に言い聞かせる。
 朝起きたらおはようのハグをされるし(そのまましばらく動けない)、仕事に行く前にも行ってきますのハグ(そのまましばらく以下略)。
 帰ってきたら目が合った瞬間にハグだし(……)、夕飯はいつも波音の膝の上で甘やかされ、あーんで食べる。
 正直、失恋どころじゃない。
 最初ハグしたいって言われたときしっかり断ったはずなのに、いつの間にか波音のペースに完全に巻き込まれている自分がいる。
 それもこれも、波音は案外頑固で、こちらが素直に応じるまで引いてくれないと分かったからだ。
 高校時代は明るくて無邪気だった波音。そんな、波音が。今はとにかく甘い。甘過ぎて、困る。
 この仕事に定時とかそういうものはないし、ついこの間まで住んでいたアパートを引き払って、今は波音と同じ家に住んでいるため、逃げ場もない。
 社宅と言われてのこのこやって来てみれば、そこは波音の自宅だったというオチだ。
 波音曰く、『恋人同士なんだから同棲はふつう。なんの問題もないよね!』とのこと。
(問題大ありだよ! 波音は俳優なのに……!!)
 その日はアパートを解約したことを心底後悔した。
 波音は相変わらず優しくて、甘々で。こんなことでは失恋どころかさっそく好きになっちゃうのではないかと思う。
「桜、もうひとくち。あーん」
「……あ、あーん……」
 私は今、二十四時間この甘さに晒されているというわけだ。
(……正直、自覚はある)
 私はもう、真宙くんのことを引きずっていない。
 日に日に波音の存在が大きくなっている。
 ちらりと波音を見る。
(波音は私のこと……どう思ってるのかな……)
「ん? どうした?」
 波音が不思議そうに私を見て瞬きをしている。
「あ……ううん。なんでもない」
 意識してるのは、私だけのようだ。
(そりゃそうだよね……今さら私のことなんて、女とすら思ってないんだろうな……)
 そもそも波音の周りには美少女だらけなのだ。わざわざ私を選ぶほうが現実的じゃない。今のこの状況だって、いくつもの奇跡が重なっているのだ。これ以上を望むのは、贅沢だ。そう、言い聞かせる。
 ふと、視界に波音の手が映る。骨張った男の人の手だ。
「…………」
 この想いを、波音に告げることは許されるだろうか。それとも、言わずにこのまま気持ちがしぼむのを待つべきだろうか。……もしくは、今すぐ手放すべきなのだろうか。
(波音はもう同級生じゃない……芸能人なんだ)
 少なくとも、真宙くんのときのように好きだと想いを伝えて頑張ることは、波音にしてはいけないだろう。
 ぼんやりとしていると、波音の手が頬をさっと撫でた。瞬きをして波音を見る。
「ねぇ桜、ご飯食べ終わったらゲームしない?」
「えっ、ゲーム?」
「そ。ゲーム。今七木と通信して戦うゲームやってるんだけど、あいつ強くて全然勝てないから、こっそり練習して強くなりたいの。桜、相手してよ」
 子供のようなことを言う波音に、思わず笑ってしまった。
「いいけど、私ゲームとか全然分からないよ?」
「大丈夫! 簡単なやつだから!」
 少なくとも今だけは、私が一番波音の近くにいられているのだ。うじうじ悩んでないで今このときを楽しもう。
「分かった! そういうことなら受けて立つよ!」
「よし! 手加減なしだからな!」
「当たり前!」
 その後、私と波音は深夜になるまでゲー厶で熱戦を繰り広げたのだった。