お風呂から上がると、私はリビングのソファに座り、波音の台本をぱらぱらとめくっていた。
 それにしても。
(まさかあーんさせてなんて言われるとは思わなかった……)
 まだ胸がどきどきしている。
「心臓に悪い……」
 マカロンはとりあえず遠慮して、あーんを逃れたけれど。
(俳優さんってあんなに恥じらいがないものなの……?)
 ドラマや映画でキスシーンやラブシーンがあるのはもちろん知っていたけれど……。まさか、波音があんな大胆なことをするなんて思わなかった。
(高校時代の波音は、女子と手を繋ぐのすら恥ずかしそうにしてたのに……)
 あれから六年。今や日常的に演技をする波音にとってはふつうのことなのかもしれない。
(お芝居を仕事にするってすごいことなんだなぁ……)
 ここに書かれているセリフや立ち位置や動きを全部覚えて、観客の前で歌って踊って。
 その役として、観客に夢を見せる。
(ただ読むだけでもこんなに難しいのに……)
 高校時代から俳優になりたいと言っていた波音。スカウトされてから本気で芸能界で生きていく覚悟を持って努力してきた沙羅。今やどちらも第一線で活躍している。
(それに比べて、私は……)
 失恋して、失職して、家もなくて……。
 ふと、とあるセリフが目に入り、手が止まる。
『私には彼しかいないの』
 ヒロインが、失恋カレシに叫ぶセリフだ。
「…………」
 テーブルの上に置いておいたスマホを手に取る。画面には、しばらく開いていないSNSアプリ。思い切ってタップした。
 アプリを開くと、溜まっていた通知がばばばと届く。しかし、そのほとんどは公式アカウントからのもので、望んだ人からの通知は一件もなかった。
(……バカみたい。なにしてるんだろ)
「私には……誰もいないよ……」
 ふられてなお真宙くんからの連絡を待ってしまう自分に嫌気が差す。
 ため息を漏らした、そのとき。
「さーくらっ!」
 背後で波音の明るい声が弾けた。振り向く前に、波音が首元にぎゅっと絡みついてくる。
「わっ……波音!」
 シャンプーの香りがする。お風呂から上がったらしい波音の髪はまだ濡れていて、頬にあたってちょっとこそばゆい。
「く、くすぐったいよ……って、ちょっとなんでハダカなの!?」
 振り返ってみれば、波音は上半身裸のままでぎょっとする。慌てて前を向いた。
「だって暑いんだもん」と、波音はぺろりと舌を出す。
「だ……だからって……」
 波音はドギマギする私なんてそ知らぬ顔で、隣に腰を下ろす。
「あれ? 桜、なんか顔赤いよ?」
「あ、赤くない!」
(確実にからかわれてる……!)
「そう? 熱でもあるんじゃない? ほら、こっち向いて」と――波音の両手が優しく私の頬を包む。
「えっ……ちょっ……!?」
 拒む間もなく、額がコツンと触れ合った。
「!!?」
 超至近距離で波音と目が合う。
「……ん。熱は大丈夫そう……のぼせただけみたいだね?」
 鼻先の触れそうな距離で、波音が微笑みかけてくる。声にならない。
「……ね、熱とかは、ないから大丈夫だよ……」
「そっか?」
 波音がにっこりと笑う。控えめに肩を押すと、波音がゆっくり離れていく。と、思いきや。膝の上に頭がころんと転がってきた。
「わっ! ちょっ、波音!?」
「お風呂入ったら眠くなってきちゃった」
「冷たっ! 波音、髪乾かさないと!」
(それこそ風邪引いちゃうよ!)
「ん〜眠くてダルい……」
「仕方ないなぁ……じゃあやってあげるからちょっと退いて」
「やった〜!」
 波音は待ってましたとばかりに体を起こし、座り直した。
(……う、やっぱりこうなる……)
 しかし、言ってしまった手前やらないわけにもいかない。私は部屋からドライヤーを持ってきて、波音の後ろに立った。
 スイッチを入れる。電気的な風が波音の髪を揺らす。
 波音はされるがまま、大人しくしていた。髪を乾かしながら、こっそりと波音を盗み見る。
(顔ちっちゃ……というか髪サラサラ。本当に波音って芸能人なんだなぁ……)
 優しく丁寧に梳かしながら髪を乾かす。
「あ〜気持ちイイ」
 ドライヤーの音に紛れて、小さく波音の唸る声が聞こえた。
 いつの間にか、波音は私が眺めていた台本を手に取っていた。真剣にセリフを呟くその横顔に、思わずどきりとする。私はパッと目を逸らし、無心で波音の髪を乾かした。
 髪が乾いたところでドライヤーのスイッチを切る。急に静寂が落ちて、落ち着かない。
 ドライヤーを部屋に置きに行こうとしていると、「桜」と呼び止められた。
 振り向くと、波音がソファに座ったまま、くるりとこちらを向いていた。
「俺がいるよ」
 目が合う。波音は柔らかく微笑んでいた。
「大丈夫。桜には俺がいるよ」
「え……」
 戸惑いながら波音を見つめる。波音はすっと台本に視線を戻して、再びセリフを呟き始めた。
(聞かれてた……!!)
 じわじわと顔が熱くなってくる。
 今のは、失恋カレシのセリフだ。ヒロインの『私には彼しかいないの』という言葉に、失恋カレシが返す言葉。
 私はドライヤーを部屋に置くと、そろそろとリビングに戻った。波音の隣に座り、膝を抱える。
 さっきの音の余韻が、まだ耳に残っている。
「ね……波音」
「ん?」
「やっぱりマカロン……食べたいかも」
 台本を見ていた波音は、一瞬驚いたような顔をして私を見る。そして、嬉しそうに笑った。
「あーんさせてくれる?」
「……うん」