その日の夜。午後九時前。
 玄関で物音がした。波音が帰ってきたようだ。
 私はご主人様を待っていた忠犬のようにパタパタと足音を立てて玄関へ向かう。
「おかえり! 波音」
「……ただいま、桜」
 私を見るなり柔らかな微笑みを浮かべる波音に、私はひどくホッとする。
(やっぱりいいなぁ……誰かの帰りを待つのって)
「桜、マカロン好き?」
「え?」
 波音は手に持っていた高級そうな紙袋をチラつかせながら、にこやかに尋ねる。
「今日、帰りに買ってきたんだ。食後に一緒に食べないかなって思って」
 そう言って、私に紙袋を差し出した。反射的に受け取り、中を見る。
「わっ! これって、今銀座のデパートに期間限定でお店出してる有名なやつだ!」
 波音が買ってきたのは、フランスの有名なショコラティエの期間限定マカロン。
「一度食べてみたかったんだ。付き合ってくれる?」
「いいの!? いくらでも付き合う!!」
 私は、さっそく波音の甘やかしに陥落する。
「じゃあ、着替えてくるね」
「うんっ!」
 私はルンルンしながらキッチンに戻り、今日の晩御飯である油淋鶏の準備を進めた。

 しばらくして、着替えを終えた波音が戻ってくる。波音はテーブルに並んだ料理を見て、再び瞳を輝かせた。
「中華だね!」
 今日の献立は油淋鶏とエビチリ、それから豆腐のサラダだ。
「美味しそう……」
「どうぞ、召し上がれ」
「……と、その前に、ねぇ桜。お願いがあるんだけど、いいかな」
 波音は突然神妙な面持ちで姿勢を正した。
「お願い? なに?」
「実はさ、失恋カレシで少し練習したいシーンがあるんだけど、付き合ってくれない?」
「それはもちろん」
 私は契約の恋人。波音の舞台の糧になるために雇われたのだから、もちろん協力するつもりだ。
「ありがとう」
 波音がにっこりと笑う。
「それじゃあ、ここに座って?」
 波音がぽん、と自分の膝を叩いた。
「……へっ?」
 思わず目を丸くする。
「え、いや、あの……え、どういうこと?」
 なにかの冗談だろうか、と波音を見る。
「桜にあーんでご飯食べさせたいんだ」
 顎が外れかけた。
「いやっ! 絶対いや!!」
 即座に拒絶する。
「え、でもさっきはいいって……」
「だって、さっきは波音が舞台の練習だって言うから!」
「そうだよ? もちろんこれは舞台の練習」
「え?」
「舞台で落ち込んで食欲を失ったヒロインに、ご飯を食べさせてあげるっていうシーンがあるんだよ」
 マジですか。
「な……波音ってば、なんて舞台をやるつもりなの……!!」
「ま、これが仕事だからね」
 まるで躊躇いのない、爽やかな笑顔。
「ほら桜。おいで?」
 波音はちらりと壁のコルクボードに貼られた契約書を見てから、黒い笑顔で私を見る。
 もはや、脅しだ。
「ほ、本当にやるの?」
「もちろん。桜、桜は真面目ないい子だから、契約内容を破ったりしないよね?」
 ……脅しだ。
「う……」
 観念して私は波音に近づく。けれどさすがに膝の上に座ることはできず、隣に座ろうとしたら……。
「わっ!?」
 波音にぐいっと腰を掴まれ、捕獲された。
「ここだって言ったでしょ」
 問答無用で膝の上に座らされ、ゼロ距離になる。
「ち、近っ……近いよっ!!」
「だって恋人同士だもん。このくらいふつうでしょ? 慣れて?」
「う……こ、これは契約の恋人で……」
「はい、あーんっ!」
 波音がスプーンに乗せたエビチリをぐいっと顔に寄せてくる。
 ぐっと唇を引き結ぶ。
「ほらほら。いつまで意地張ってるの? あーん」
(ダメだ、目が本気……!)
 仕方なく唇を開いて、波音の手のスプーンを受け入れる。
「美味しい?」
 食べている間も波音の視線を感じる。
(……は、恥ずか死ぬ……)
「……たれがついちゃったね」 
 波音の手が唇の端に伸びる。
「!」
 口元についたたれを指の腹で掬うと、そのままペロッと舐めた。
「!!? な、波音なにして……」
「ん。うま。やっぱり桜は料理が上手だね」
 開いた口が塞がらない。
「ほら、もうひとくちあーん」
「も、もういい、いい!」
 私はすかさず波音の膝から逃げ出した。
「あっ、逃げた」
「逃げるよ、こんなの!」
「じゃあ今日だけは許してあげるけど、その代わりこのまま桜も一緒に食べよう?」
「食べる。ちゃんと食べます、自分で」
「よろしい。……あ、でも明日からも晩御飯はあーんさせてほしいなぁ」
「えっ……」
「契約、どおりだよね?」
 顔が熱いような、寒いような。
「ご飯が終わったら、マカロンも食べさせてあげる」
 屈託のない笑顔がそこにある。
「…………」
(マカロンはエサでしたか……)
 とにかく、明日からもまた波音に振り回されることが決定した。