玄関の扉を閉めて、俺はそのまま扉に背中を預けてへなへなと座り込んだ。顔が熱すぎて死にそう。
『行ってらっしゃい、波音』
 あの破壊力は凄まじかった。
「はぁ……幸せ」
 よろよろと立ち上がって、仕事へ向かう。エントランスを出たところで、前を歩く男性の背中が見えた。見覚えがある。七木大雅だ。
「おはよ、七木」
「おぉ。はよ」
 七木は俺と同じマンションに住んでいる。階が違うし、マンションでは住人同士の関わりも薄いため、共演するまで気が付かなかったけれど。
「ん? お前、なんか今日顔赤くない?」
「え、そ、そう?」
 並んで歩きながら、七木は怪訝そうに俺を見る。そしてふと思い出したように背後のタワーマンションを見た。
「……あぁ、そういえば愛しの桜ちゃんと同棲始めたんだっけ」
「まぁな」
 素直に頷く。
「よくやるな。相手、好きな男いるんだろ? いくら心配だからって……写真撮られたらどうすんだよ」
「一応社員にしたし、ふたりで歩いててもおかしくない関係にはした。それに……あのまま放っておいたら、なんかヤバそうだったから」
 視線を感じる。その視線を無視していると、七木はため息を漏らした。
「偶然を装ってそこまですんのかよ……相変わらず初恋拗らせてんな」
「うるせ」
 七木の視線を手で払いながら、俺は歩く。

 七木の言う通り、桜と再会したのは偶然ではなかった。偶然だったのは、桜と仲の良かった沙羅と再会するまでの話。
 沙羅と連絡を取り合うようになったら、否が応でも桜の近況が耳に入ってくる。
 桜が真宙と付き合ってると聞いたときは正直ショックだった。
 けれど桜の長年の片想いがようやく身を結んだのだ。桜の幸せが俺の幸せ。そう言い聞かせた。
 でも、六年間こじらせた想いはそう簡単には断ち切れなくて。こっそり桜と真宙のSNSのアカウントを探して、私生活を覗いたりしていた。
 桜の幸せそうな投稿を見るたび、相反するように俺の胸はきしんだ。
 しかし、桜が真宙と付き合い出して半年が過ぎた頃。
『柊木桜は冬野真宙のストーカー』
『高校時代からずっと冬野真宙を追いかけて、大学も職場も同じにしたんだって』
『怖っ!』
『冬野可哀想~』
『冬野、騙されてるんじゃん』
『ストーカー女とよく付き合えるなー』
『柊木桜、仕事辞めたってよ』
『ざまぁ』
『自業自得だね。もうこの街から出ていけよ』
 桜がSNSで炎上していた。それも、有り得ない内容で。
 なんだ、これ。
 桜がストーカー? 有り得ない。桜は真宙の嫌がることなんてしない。真宙だって、桜の告白を断り続けてはいたものの、根本的には桜のアプローチを嫌がってはいなかった。
 沙羅に桜の様子を聞いてみたけれど、沙羅も分からないという。
 大丈夫だろうか。心配でたまらない。
 高校時代、真宙にふられて死にそうな顔をしていた桜を思い出す。
 いてもたってもいられなくて、俺は沙羅にとある頼みごとをした。
 沙羅が桜を誘って舞台に来たのも、バックステージに来たのも、沙羅が七木の推しだって言うのも全部うそだ。
 全部、沙羅に頼んで俺がやったのだ。
 案の定、六年ぶりに再会した桜はガリガリに痩せていて、今にも死んでしまいそうだった。
 目を離したら、どこかに消えてしまいそうで、ハラハラした。
 だから、無理に理由を作って家に連れ込んだ。
 せめて、桜の心が回復するまで目の届くところにいてほしくて。
 桜を慰める役目は、俺の役目だから。それだけは、だれにも譲りたくないから。たとえ、この想いが桜に届くことはないとしても……。