薄暗い住宅街を、重たい足取りで歩いた。

 塾帰りと思わしき中学の制服を着た女の子が、自転車に乗って私を追い越していく。

 先程までぼこぼこと煮えくり返っていた腹の中は、加熱し過ぎてどろどろになり、火を消された後の鍋底にこびりついた薄い膜のような気分になっていた。

 とにかく帰りたくない。喧嘩だって本当はしたいわけじゃない。だけど、向こうがその気なら仕方がないから。

 全く無意味な時間だ。母は一体何がしたいのだろう。ストレスのはけ口にしたいのだろうが、それにしても母の思考が全く読めない。

 理解し難い生き物だ。同じ血が流れているというのに。

 そうこうしている間に、私は玄関前にたどり着いた。

 私がお腹にいる時に買った家だと聞いたことがある。かれこれ十六年は一緒にいるだけあって、壁の色は褪せ、郵便ポストの横にある玄関ライトは、つかなくなってもう何年だろうか。

『春田』と書いた表札の上には蜘蛛の巣が張られている。

 キィっと金属が擦れる音を鳴らしながら門を開け、玄関の扉に鍵を差し込んだ。

 ガチャリと解錠の合図を受け、私は扉を引く。玄関は真っ暗で、置かれた写真立ての中に入っている家族の顔は何も見えない。リビングの方だけ明かりがついていた。

 素通りして二階の自室に上がることを決意し、そろりと靴を脱いで階段へと足をかける。

 一段一段上って、半分手前まで来たところだった。

「絵美? 帰ったのならただいまくらい言いなさいよ」

 見つかった。疲れた顔をしてリビングから出てきた母が、階段下から私を見つめている。

「あなた、どこで何をしていたの? 最近毎晩遅いし、成績は落ちるし、反抗的だし。前までそんなことなかったじゃない! やっぱり、悪い友達に何か唆されたんでしょう!」

 またこれか。どうして母はいつも決めつけるんだ。わかったような顔をして、ヒステリックに叫びたいだけ叫んで!

「ふざけないでよ! 何も知らないくせに、私の大切な人を蔑ろにしないで! 前までそんなことなかったって? 当たり前だよね、だってずっと我慢してたんだから!」

 そうだ、ずっとずっと自分の思いに蓋をして生きてきた。言いなりになって、それで喜んでもらえるのなら良いと思ってた。

 でも、自分の気持ちを抑えつけたって、何も良い事なんてなかった。

 母はそれを聞き、一瞬ぐっと狼狽えたように見えたが、すぐに言葉を返してきた。

「何も知らないって、絵美が何も言わないからでしょう!? それに我慢って何よ。いつだって最後は自分で決めてきたじゃない」

 自分で決めた?

 頭に血が上るのがわかる。手すりを握る手に、じわりと汗が吹き出た。

「確かに、結局反抗しなかった私が馬鹿だったね。でも、そうやって自分の思い通りになるよう仕向けたくせに、私のせいにするなんて本当に最低! いつも私が見て欲しい時には無関心で、どうでもいいことに対しては縛りつけてくるの、意味がわからない。……私はお母さんの操り人形じゃない!」

 近所迷惑になるほどの大声で私は叫んだ。体が熱くて、汗が吹き出る。鼻がつんとして、目に涙が溜まってくるのがわかった。

 絶対に泣くものか。泣いたら負けだ。

「あなたを操り人形だなんて、そんな風に思ったことないわ! それに、門限は絵美が……」

「もういい! お母さんなんて大嫌い!」

 言い訳ばかりして、いつも自分を正当化させる母に本気で愛想が尽きた。私は階段を駆け下り、母を突き飛ばすようにして玄関から飛び出した。

 大嫌い。大嫌い。大嫌い。

 靴の踵を踏んだまま、全力で走った。腕で涙を振り払う。

 今まで我慢してきたことも、お母さんは気づいてくれなかった。辛かったことを伝えて、ただ一言「そうだったんだね」「ごめんね」と言ってくれたらそれで良かった。

 でも、私はそれすらももらえなかった。私の不幸の原因は私自身にあると言われたのだ。

 結局は自分で決めたのだと。

 悔しくて堪らなかった。だって、その通りだったから。上手く言い返せなくて、ただ暴言を吐くことしかできないほど、図星だった。

 母は母の意見を提示した。でも、あくまで提示しただけで、強制はしなかった。私が母の言う通りの道を選んだのだ。

 高校だって、門限だってそう。進路だって自分に芯があれば、変えなかった。門限だって、無駄に守ってきたのは自分だ。

 でも、私は私の意見を言ったのに、母は聞く耳を持たなかったことも事実だ。母の望む道以外、結局許してはくれなかっただろう。

 選択肢を与えなかったくせに、よく言ってくれたなと、また無駄に頬に雫が流れて止まらなかった。

 私は呼吸を荒らげたまま、走り続けていた。どこまで来たのかもわからない。真っ暗な道で、私の足音だけが弾ける。瞳は涙の膜に覆われて、視界が悪かった。

 突然、眩しい光が狭い交差点の向こうから現れた。何かわからず、涙を拭って見てみるも、正体が判明する前に私はその光にぶつかった。

 体が勢いよく持ち上がる。空気の一粒一粒を皮膚の神経が拾い上げて、冷たいと信号を送った。視界には一面に空が広がり、大きな月が、より一層近づいて見える。

 この月を、高羅も眺めているだろうか。
 最期に考えたのは、そんなくだらないことだった。