「今日は帰るね」

 毎週のように彰の部屋に泊まっていた紗椰だったが、流石にこの空気では泊まるという選択肢は無いようだった。

「じゃあまた⋯⋯」

 彰の住む賃貸マンションのちょうど真横に、地下鉄の入り口があった。紗椰が帰るときはいつも改札まで見送っていたが、この日は玄関で別れた。なんとなく、そうした方がいい気がした。 部屋に一人。これからどうしようかと彰が途方に暮れていると、インターホンが鳴った。

「お邪魔します」

「え?」

「よいしょっと」

紗椰は当たり前のようにバッグをソファの脇に置いた。

「え、帰ったんじゃ⋯⋯?」

「やっぱり泊まりたい」

「そうですか」

「⋯⋯また敬語」

 紗椰が笑った。満面の笑みではないが笑った。この日何度も見ていたはずの笑顔が、何年も見ていなかったように感じた。

「ごめん。ちょっと混乱してしまって。泊まってもいい?」

「もちろん。紗椰はそれでいいの?」

紗椰は頷いて、バッグを置いたソファにちょこんと座った。

「彰とは、一緒に暮らしたいと思っとるんよ」

 どうやら嫌われているわけではないらしいと分かり安心すると、彰は今まで自分がずっと立ちっぱなしであることに気付き、紗椰の横に座った。

「でも、その前に話しておきたいことがあって。でもそれは今日ではなくて。だから帰ろうとしたけどそれは嫌で⋯⋯」

 紗椰はいつも、彰に対しては言いたいことをハッキリと言う。だが今日は珍しく、歯切れが悪い。

「何の話か知らんけど、ゆっくりでええよ」

彰は部屋の端にある小さな冷蔵庫を指差した。

「俺のプリン、食べたやろ」

紗椰はまた笑った。今度は、満面の笑みで。

「知らん」

 さっきまでモジモジしていた紗椰は、どこか遠くへ行ってしまったようだった。