そう思った瞬間だった。
目の前にいた生島さんが視界から消えて、吹っ飛んでいった。

「え……」

生島さんが目の前から消えて、大きな背中が私を隠すように現れた。
この背中……、知っている。
来てくれた……。
私は安堵から、床にへたり込む。
生島さんは殴られたようで、床に倒れこんでいた。

「テメェ、何するんだ」

生島さんは頬を抑えながら顔を上げて目の前の人物を睨む。
しかし相手を認識するとハッとした表情になった。

「じ、神野フーズの……」
「貴様、俺の秘書に何していた」
「え、秘書……?」

神野社長の言葉に青くなっている。
生島さんは私がただの事務職か何かだと思っていたようだ。社長秘書だとは思わなかったのだろう。
社長は倒れている生島さんのグイッと胸倉を掴む。

「今回の件は黙っていてやる。だが今後、こいつに少しでも近づいてみろ。ただじゃおかない。お前ごとき、いやイイジマ文具ごとき潰すのなんてたやすいからな」

社長の怒りがこもった低い声に、生島さんは顔色を失って言葉も出ない。

「花澄は俺の女だ。二度と何かしようなんて考えるな」
「はい……」

首がもげるのではと思うほど頷くと、生島さんは走ってこの場から去って行った。
その姿を睨んでいた社長が、私をパッと振り返った。

「大丈夫か?」

しゃがんで目線を合わせてくれた社長は先ほどのような殺気だった表情ではなく、心配気に瞳が揺れる。
いつもの社長が目の前にいる。安心からほっとした気持ちになり、ボロボロと涙がこぼれてきた。
しゃくりあげながら手を伸ばすと、その手を引いて私を腕の中に優しく閉じ込める。

「なかなか戻ってこないから、おかしいと思って様子を見に来たんだ。こんなことになっていたなんて……。怖かったよな。もう大丈夫だから」
「海斗さん……」
「うん」

泣きながら呟いた私をさらにきつく抱きしめた。
社長の香りとぬくもりに次第に落ち着いてくる。
涙が止まってくると、そっと体を離した。涙の跡を優しくぬぐってくれる。
頬に触れる社長の手が心地よかった。

「花澄……」

視線が交差して、自然とお互いが顔を近づける。
ゆっくりと目を閉じた時――……。
ガヤガヤと話し声が聞こえ、ハッとしてキスの寸前で我に返った。

「……立てるか?」
「はい……」
「とりあえず、一度戻って荷物を取ってこないとな」

少し気まずさがありつつ、会場で荷物を取ると二人でタクシーに乗った。
書類を置いてこないといけないので、そのまま会社に向かう。
恥ずかしくて社長の顔が見れない……。
あの時、人が来なかったら確実にキスしていたよね。
‘花澄は俺の女だ’
生島さんを追い払うための言葉なのかもしれないけど、とても嬉しかった。
思い出しただけで、胸の奥が熱くなる。
と、同時に生島さんを思い出すだけでゾッとしていた。触れられたところが気持ち悪い。
まだ恐怖心も残っており、手が冷たいままだった。

社長室へ戻り、自分のデスクに書類関係を置くと少しホッとした。
見慣れた場所、自分のものが置かれた場所は安心できる。
帰り支度を終えると、社長がデスクまできて言った。

「飯はまた今度にしようか」
「え……」
「あんなことがあったんだ。外食の気分にはなれないだろうし、少しゆっくりしたいだろう?」

優しく微笑む社長とは反対に私はショックを受けた。
ご飯の約束がキャンセルになることが嫌なんじゃない。また今度にするということは、今日はもう帰るということだ。
ひとりにはなりたくなかった。社長ともっと一緒に居たかったのだ。

「送るよ」
「社長」

私は思わず社長の腕を掴んだ。

「どうした?」
「あ……、その……」

体が反射的に動いたので、すぐに言葉が出なかった。

「……帰りたくないのか?」

気持ちを察してくれた社長は、穏やかに聞き返す。
それに小さく頷いた。

「食事には行けなくていいです。でも……、一人にはなりたくなくて……」

ひとりになると、さっきのことが思い出されて眠れなくなりそうだった。
なにより、社長と離れたくないという気持ちが大きかった。
もう少しだけでいいから、一緒に居たかった。
すると、社長はコホンと軽く咳払いをした。

「うちに来るか?」
「え……、いいんですか?」
「あぁ。正直、俺もお前を一人にするのは心配だったからちょうどいい」

フッと微笑むと、社長室から荷物と車の鍵を取ってきた。
そういえば、今日は車で来ているって言っていたな。

「行こう」
「はい」

社長に促されて会社を出た。