それは、二カ月前。
ちょうど、バレンタインの後だった。

「ご結婚、おめでとうございます!」
「ありがとうございます!」

会社の朝礼で、みんなに祝福されて花束をもらっているひとりの男性。
うちの会社の営業エース、生島(いくしま)圭太郎(けいたろう)。
私の彼氏だ。
しかし、その彼氏が前に出て結婚の祝福をされているのを私は自分のデスクから唖然と見守る。

……これ、どういうこと?
私、結婚しようってプロポーズされたっけ……?

でも私は今、彼を見ている他の社員と同じ、‘お祝いする側’に立っている。
みんなが笑顔でお祝いする中、ひとり青ざめていた。
心臓が壊れるんじゃないかと思うほど、ドキドキと鳴っている。

「ねぇ知っていた? 生島さんの奥さん、うちの会社の専務の娘らしいよ」
「え~、じゃぁ玉の輿じゃん! 出世のために抜かりはないのねぇ」

近くの女性社員のひそひそとした噂話が聞こえ、クラッとめまいが起きる。
専務の娘と結婚?
どうして? いつの間に?
ついこの前のバレンタイン、私の家で一緒に過ごしていたよね?
チョコをあげたら嬉しそうに笑って受け取ってくれた。
付き合いだして一年。
「いずれは結婚も考えているけど、しばらくはもう少しこのまま恋人期間を楽しみたいな」って言ったのは生島さんだ。
プロポーズはまだまだ先だと言われて残念だったけど、いつかは生島さんと結婚するものだと思っていた。
それがどうして、今、あなただけ結婚おめでとうって祝福されているの。
目の前で、幸せそうに笑っているの。
私はそれを見守っているの。

「あ、花澄さん。あとでお花代一人300円徴収しますね」
「あ、うん……」

他の子にも同じように声をかけている社員にぎこちなく頷く。
彼の結婚を祝う花束代、300円を私が払うの?
私は嬉しそうに笑顔を見せている彼氏を、ただ茫然と見つめるしかできなかった。


――――

それから二か月後。
手元の不採用通知書に大きなため息をついた。
これで何社目だろう。
上手くいかないものだなと落胆が隠せない。

「お代わりください」
「お客様。そろそろ、おやめになった方が……」
「大丈夫です。強いので」

困惑気味のバーテンダーの言葉をさえぎって、カクテルのお代わりを頼む。
私は出されたお代わりのカクテルを一気に飲み干した。

「あ~、美味しい!」

ただのカクテルなのに、飲んで出た言葉はまるでビールを飲んだ時の感想だ。
バーテンダーも苦笑している。
大きなため息をついて、後ろで結んでいた長い黒髪を解くと頭をワシワシとかく。背中にストレートの髪がふわっと垂れた。
面接用に着ていたかっちりとしたスーツのジャケットはとっくに脱いでいる。

「どうしてこうも、なにもかも上手く行かないの……」

私、大園花澄は初めて入ったバーのカウンターに突っ伏してすすり泣きをした。

「私が何したっていうの!?」

苛立ちからつい声が大きくなった。
バーテンダーは周囲を気を遣うように「もう少し小さな声でお願いします」と囁く。

「お代わりください」

泣きながら空のグラスをバーテンダーに差し出すと、横から大きな温かい手がそれを遮った。

「凄い荒れようだな。もう少し落ち着いて飲めないのか」

その声はバーテンダーではなく、隣から聞こえた。
振り向くとひとりの男性が私の隣に座り、呆れたようにこちらを見ている。
年齢は30歳前後くらいで、着ているスーツは一目で高級だとわかり、それがとても似合っている。
髪を軽く上げ、切れ長の二重にスッとした鼻で俗にいうイケメンだ。
凄い、カッコイイ。モデルか芸能人かな……?

「誰……?」
「荒れているようだが、ここはもっと落ち着いて飲む場所だ。できないならもう帰った方がいい」
「なに……、余計なお世話です。お代わりください!」

どこか偉そうな男性にムッとしながらお代わりを頼む。
バーテンダーは男性をチラッと見つつ、渋々お代わりをくれた。

「見たところ、就職活動中か?」

男性の目線はテーブルの不採用通知だ。
慌ててそれを鞄にしまう。

「関係ないでしょう。これは駄目だったけど、でも今日のはきっと……」
「そうかな。その感じだと、上手く行かなかったみたいだけど」

鼻で笑われて、カチンとくる。
どうしてそんな風な言い方されないといけないの?

「あなた、なに!? 初対面で失礼じゃない?」
「本当のことだろう。そんなに荒れているなら、家に帰って飲むんだな」

冷たく突き放すような言い方に、思わず涙が滲んでくる。
今はキツイ言葉が胸に刺さりやすいのだ。

「なによ、そんな言い方しなくてもいいでしょう」
「泣くなよ」
「好きで泣いているんじゃないの! どれもこれもあいつのせいよ!」

うわぁぁんとテーブルに伏せて泣き出す。
男性がため息をつくのが聞こえた。
わかっている、面倒な女になっていることは。
でもこのぐちゃぐちゃな感情は一度タカが外れるとすぐには戻せない。
そのため息一つ、今の私にはズキンと心に刺さって心をかき乱すには十分だった。

「なんでそんなに荒れているんだよ。そんなに就活が上手く行かないのか?」

その言葉に小さく頷く。
まぁそれだけではないんだけど。

「そもそも、こんな就活シーズンが過ぎた春の時期に雇ってくれる会社なんてないのよ。前の会社ではただの事務職で、たいしたスキルもないし。大学の時に取った秘書検定は役に立たないし……」
「へぇ、秘書検定……ね」

ぐずぐずと手で涙をふくと、男性がおしぼりを渡してくれる。
それを乱暴に受け取り、ごしごしと涙を拭く。

「会社だって、辞めるつもりはなかったのに……」
「じゃぁ、辞めんなよ」

面倒くさそうに男性が呟くが、私はキッと睨み付ける。

「仕方ないでしょう! いつの間にか彼氏が専務の娘と浮気していて、結婚も決まっていたの! 周りの人に付き合っていたことは秘密にしていたけど、もう28歳だし、いずれは彼氏と結婚すると思っていたのに、あいつ他の女と結婚したのよ! 出世のために専務の娘と! そんな人とこの先も何もなかったかのように、一緒に仕事なんてできるはずがない……。辛くて……、逃げるように辞めたのよ……」

テーブルにコツンとおでこを乗せる。
あぁ、こうして口に出すと、自分はなんてみじめなんだろう。
会社の朝会で幸せそうに結婚報告をする生島さん。
あのあと彼を非常階段に呼び出してどういうことか尋ねた。するとあっさりと「別れよう」と言われたのだ。

「お前のことは好きだったけど、将来が見えなかった。今後はただの同僚に戻ろう。あぁ、俺とのことを騒ぎ立ててもいいけど、それで白い目で見られたり会社に居づらくなるのはお前の方だからな。わかっているだろう? 俺は専務の娘と結婚するんだ」

唖然としてなにも言い返せなかった。
こんな卑怯なことを言う人だったっけ?
私を小ばかにしたように、権力をちらつかせて黙らせようとするそんなずるい人だったっけ?
なにもわかっていなかった自分が悔しい。
何もできない自分が惨めだった。

「それは最低な男だな」
「そう思いますか?」
「あぁ」

そう聞くと頷き返してくれる。それを見て、少しホッとした。
男性目線でも、あの男は最低だと思ってくれたのが嬉しい。

「そういうことがあって荒れる気持ちもわかるけど、場所はわきまえないといけない。ここは居酒屋じゃないんだぞ」

事情を知り同情したのか、男性は少し優しく私をたしなめた。
冷静になってくると、確かに大きな声で鳴いて騒いでとても恥ずかしい。

「ごめんなさい……」

素直に謝ると男性もバーテンダーも微笑んだ。

「タクシーに乗せてやるからもう帰れ」

私が落ち着くのを見て、男性は帰宅を促した。
支払おうとすると、男性はバーテンダーに何か合図してそのまま店を出る。

「あ、あのお金……」
「奢ってやるから気にするな」
「え、でも……」

男性は困惑する私を無視して、おぼつかない足取りの私を支えながらバーの外に出た。
バーの階段を上がって、大通りまで出る。

「家はどこだ?」

そう聞かれたが私は答えなかった。
変わりに下を向いて小さく首を横に振る。

「おい? 大丈夫か?」

顔が真っ青になった私に、男性は少し焦ったような声を出す。
その声が遠く聞こえた。
ちょっと飲み過ぎたかな……。
体の揺れと外の雨上がりの独特な匂いが夜風に運ばれてきて、なんだか……。

「気持ち悪い……」

そう思った時には遅かった。
頭上から男性の「うわぁぁぁ!」という悲痛な叫びが聞こえ、私は記憶を手放した。