初めて治癒魔法を使ったのは、死にかけていたサルを助けた時だ。あの時はとにかく必死で、なんとしてもサルを助けたくて、藁にもすがる思いだった。

次に治癒魔法を使ったのは、人間に傷つけられた猪を癒した時。あの時の私は、どうすれば魔法が発動するかなんて考えることなく、何故か治癒魔法が使えると感じた。無意識とはいえ、自分がサルを癒したことを知っていたからなのかもしれない。

その後も治癒魔法を使う時は、心の中で『治れ』と念じるだけで魔法が発動している。

そういえば、通訳魔法が発動した時もそうだった。魔法は強く願ったり必要に迫られると発動するって、あの時気づいたんだよね。

なのに私はいつの間にか、元の世界と関連付けて魔法を発動させるようになっていた。

一度発動を成功させれば、あとは魔力量の調整に気を使うくらいで、発動自体はいつもスムーズに行えたし、科学の知識を使う方が発動しやすいように思えたのだ。

空間魔法や時間魔法は、どう頑張っても科学では説明ができない。

かといって、収納魔法は必要に迫られるようなものでもないし、強く願うといっても、一体何を?って感じだ。

あきら君は収納魔法を発動できてるんだから、絶対に不可能ではないはずなんだよなあ。

どうしたらいいんだろ、、

あきら君が『神様は文系』にヒントがあるって言ってたな。『嫌そうに』ってやつ、わざわざ強調してたから、むしろこっちがヒントかもしれない。

文系を嫌がるのがヒント、、いや別に嫌がってなんかないし。むしろ科学とは対にある魔法を、こよなく愛しちゃってるし。

いや待てよ?魔法は無限の可能性を秘めていて、それこそが魔法の魅力だ。なのに私は、証拠を必要とする科学という枠に、魔法を無理矢理はめこもうとしていなかっただろうか?

科学にも自由な発想は必要不可欠だが、発想を元にした仮説が正しいという証拠を見つけることに主軸があって、その作業は知的探究心を大いに満たしてくれる。

その点魔法は証拠を必要とせず、ただひたすら自由で、想像がそのまま現実になるおもしろさがある。

科学と魔法は似ているように感じていたけど、全く別の物だ。私は、そんなあまりにも当たり前なことを、見失っていたのかもしれない。

『想像がそのまま現実になる』

これこそが魔法の醍醐味だ。魔法には疑う余地がない。だって、魔法に不可能なんてないんだから。