妻の本音を覗き見た気がして亜久里は気落ちしたが、それよりひとこと言っておかなくてはと顔を引き締めた。


「明日香、それ、地元の人の前で言うなよ。丘の向こうは九大のキャンパスだ」

以前は街中にキャンパスがあったが、老朽化が進んだため、郊外の広い敷地に移転した。


「キュウダイのキャンパス? あぁ、大学って敷地が広いから、新しいキャンパスは郊外にしか建てられないんだね、きっと。

私大ってことは地元の人が通ってるんだ。うん、わかった。気をつける」


「九大ってのは九州大学、九州の最難関大学だよ。旧帝大、聞いたことあるだろう」


「東大、京大、一橋とか?」


「東大、京大、北大、東北大、名大、阪大、そして、九大。一橋は旧帝大じゃないよ」


明日香の出身高校で九州の大学に進学する生徒は皆無、進学先は関東近辺がほとんどで、明日香も都内の女子大が第一志望だったため、地方大学の情報を得ようとは思わなかった。

明日香とおなじく関東出身の亜久里から、地方への無関心や無知を指摘されたようで面白くない。


「名古屋でも、名大出身者は一目置かれていただろう。あれと同じだよ。

九州では、東大、京大、その次が九大だ。あした挨拶に行く博多工場の工場長も九大出身だから、覚えておいて」


「はい……」


亜久里の言うことはもっともで、地方には地方の基準がある。

明日香の口から出た迂闊な言葉が、相手を不快にさせるかもしれないのだ。

さすがグリさん、優秀な営業マンは違うわね、と気を取り直した明日香が夫を見直していると、団地らしき建物が見えてきた。


「こんなところに団地があるんだ。相当古いんじゃない? 昭和って感じが漂ってる。

この辺、買い物とか不便そう。あっ、引っ越し屋さんのトラックが止まってるよ。こんな古い団地に引っ越してくる人、いるんだね。

ねぇ、私たちの社宅まで、あとどれくらい?」


「もうすぐ着くよ……」


えっ? と返した明日香は 『目的地周辺です』 と知らせるナビの音声に、再び 「えっ」 ともらした。

古い団地の前から後ろに回り、真新しい校舎の小学校の正門と向かい合わせにある、古びた門の中に車は進み、ほどなく停車した。


「約束は11時だったよな。あのトラックはうちの荷物じゃない。今日はほかにも引っ越しの家族がいるんだな」


それだけいうと、亜久里はシートベルトを外して車を降りて、社宅の住人らしき人へ 「おはようございます」 と元気に挨拶をした。

明日香も車を降りて、目の前に並ぶ三棟の古い建物をあらためて見た。

四階建ての各棟の背面には、手前から 『小野棟』 『早見棟』 『川崎棟』、とあり、それぞれの上に 『梅ケ谷社宅』 と書かれていた。

あぁ、やっぱりここか……と深いため息が漏れた。

この中のどこかに自分たちの部屋がある。

外観はどれも似たり寄ったりの古さだが、住宅建材の会社の社宅だから室内は案外最新式かもしれない。

九大のスタイリッシュな寮とは比べ物にならない古い団地がこれからの住まいとわかっても、まだ希望を捨てきれず、明日香はひび割れた住宅棟の壁面を眺めながら都合の良い空想をしていた。


「明日香、管理室、こっちだって」


どう見てもエレベーターはなさそうで、そうなると階段ののぼりおりが日課になりそうだ。

一階は外からの視線が気になるので避けたい、四階は屋上の日差しで暑そうだし、住むなら二階か三階がいい。

そして、室内は最新式でありますように……と祈る思いを胸に、明日香は夫のあとを追いかけた。