冷徹御曹司は想い続けた傷心部下を激愛で囲って離さない

「……」

 上司を名前呼びするという不遜さに耐えて言ったものの、反応がないので不安になってくる。
 気分を害しただろうかと、あさひは助手席から身を乗りだした。

「凌士さん、で……いかがですか? これなら仕事から離れられます?」
「……くるものがあるな」
「はい?」
「それで頼む。仕事が頭から飛んだ」
「あとで叱責なさらないでくださいね……」
「碓井こそ、パワハラだと訴えるなよ。年々、社内統制が厳しくなっているからな。君のひと言で、俺の首が飛ぶ」
「訴えませんよ! むしろ、統括に」
「凌士」
「……凌士さんに碓井と呼ばれると、わたしも仕事から離れられないというか。ちなみに、凌士さんはわたしの下の名前は――」
「あさひだろう」

 知っているかと尋ねるまもなく名前を呼ばれ、あさひは口ごもった。

 遅れてじわりと頬に熱が上り、心臓が予想もしない暴れかたを始める。

(名前を呼ばれたくらいで? うそ……)

 景にだって、プライベートでは名前を呼ばれていた。けれど、自分とは世界が違うと思っていた相手から呼ばれるのは、それとはまた意味合いが違う。

 いきなり相手が下界に落ちてきて、距離を一気に詰め寄られた気分だ。

 凌士の横に座るというこの状況も信じがたいのに、名前呼びまでされては、動揺もする。

「やっぱり碓井でお願いします、踏みこんではならない領域をまたいでしまいました……」
「ひとを魔境のように言うな。少し待て」

 なにを、と首をかしげていたら、次のカーブに差しかかったとき「あさひ」とふたたび呼ばれた。あさひはとっさに両手で顔を覆う。頬が熱くなったところなんて、上司には見られたくない。

 指の隙間から凌士をうかがうと、凌士は苦虫を噛み潰したような顔でハンドルを握っていた。けれど、どうも不機嫌とは違う感じがする。強いていえば、あえて渋面を作っているような。

「凌士さん、碓井に戻してください……」
「あさひも仕事から離れたいと言っただろう」
「そうなんですけど、なんかこれは予想と違うというか……軟弱ですみません」

 言ってから自分の台詞にまた赤面してしまう。自分で自分の発言に爆死した気分だ。なんだか凌士の前では、変なところばかり見せている気がする。
 きっと、凌士の低音がひたすら優しく耳から胸にまで染みこんでくるせいだ。