スノードロップと紫苑の花

☕️

この世界で時間を明確に計るものはない。

確かめられるのはこの左手の数字と空の色だけ。

これが“1”となり、点滅した後に肉体は消滅し、魂のみ天国へ行ける。

アキレアから教わったことが本当なら俺の家族はどっちにいるんだろう?

手がかりもないまま雲道を歩いていると、車椅子に乗った1人の女性がいた。

ニット帽を目深に被っているその人がなぜか気になり近づいていくと、そこには衝撃の人物がいた。

「梨紗⁉︎」

俺に気づいた彼女と目が合った。

「慶永⁉︎なんでここにいるの?」

それはこっちのセリフだ。

梨紗もこの世界にいるということは死んでいるってことだよな。

でもどうして?

「俺も死んだんだ」

「なんで?」

「誰かに刺された」

「殺されたってこと?」

「そうとも言うし、そうじゃないとも言えるし」

「相変わらず煮えない返事ね」

「ちゃんと思い出せないんだ。それより梨紗はなんで?」

「私、白血病だったの」

白血病?
あの元気な梨紗が?

「看護師になろうと思った矢先にだよ?ウケるよね」

いや、全然笑えないのだが。

「絶対に生きてやるって思ってたけど、入院してから簡単に死んじゃった。まだやりたいことたくさんあったのに」

家族のために自分の夢を追いかけようと思ったら病気になって亡くなるなんて残酷すぎるだろ。

「やりたかったことって?」

「ん〜、あげたらキリがないんだけどね。強いて言うなら……」

梨紗は真剣な表情で考えている。
それは紡ぎ出すというより消去法に近かったのかもしれない。

「普通の1日を過ごしたい」

梨紗のことだからてっきり大胆なことを言ってくるのかと思った。

「特別なことなんてしなくていいんだ。当たり前のことがいまはやりたいの。と言うより、当たり前のことが1番幸せだったんだと思う」

たしかにそうだ。
特別なことは当たり前のことがあってこそ成立する。

旅行、ボーナス、誕生日、記念日、結婚。

日常の中の非日常があってこそ人は生きていることを実感するもの。

喉が渇いたら水を飲み、お腹が空いたらご飯を食べ、眠たくなったら寝て、時間が経てば目が覚める。

そんな日常が生命をつなぎ、日々を組み立てていく。

「だからさ、私のわがまま聞いてくれる?」

こうして俺は梨紗と当たり前の1日をを過ごすことにした。

この世界にはネット以外なんでもある。

魂の浄化のために必要なものは何でも。

カフェやホテル、アミューズメントもテーマパークも。

死んだ認識がないと、普通に生活している感覚になり胡蝶(こちょう)の夢にも感じるくらいの楽園。

カフェで梨紗がカルボナーラをフォークでくるくると巻くところを見て昔のことを思い出した。

「そういえば梨紗っていっつもカルボナーラ頼んでたよな」

「慶永はミートソースの一点張りだったけどね」

お互い同じものばかり注文していたからよく覚えていた。

「なんか、付き合ってたころを思い出すね」

「懐かしいな」

「色んなカフェ巡ったよね」

「だな」

「慶永って見かけによらずオシャレなレストランとか夜景の綺麗なとこ知っててびっくりした」

あれは調べていただけなんだが。

「でもラーメンになると毎回揉めてたよな」

「だって慶永とんこつしか食べないんだもん。私はみそが食べたいのに」

お互い変なところが頑固でよく喧嘩になりかけていたからラーメン屋だけは一緒に行くのをやめた。
それもあってパスタやうどんが多かった。

「俺たちひたすら食べてひたすら飲んでたよな」

「そだね。付き合ってからちょっと太ったもん」

「俺のせい?」

「半分はね」

「ひどっ」

「冗談だよ」

悲しいかな、死んでからの方が気兼ねなく話せる自分がいる。

カフェを出て少し進むと広場を見つけた。

シートを敷いてピクニックをしている家族やベンチで本を読む人、一眼レフで景色を撮る人や犬の散歩をする人。

小鳥たちが(さえず)り、鳩が餌を求めて歩き回る。

1つの休日を切り取ったかのようなリアルな光景に一瞬死んだことを忘れた。

すると、
「そういえば、あの子とはどうなったの?」

「あの子って?」

「例の綺麗な子よ。花火大会のときに一緒だった子。なんて名前だっけ?」

ダメだ、思い出せない。

思い出そうとする度、激しい頭痛に襲われる。

あまりの痛さに車椅子のハンドルから手を離してしまった。

瞬時に梨紗が手でブレーキをかけたが、俺はその場に蹲った。

「ちょっと、大丈夫?」

この頭痛なんとかなんねぇのかよ。

「お水飲む?」

梨紗の持っていた水をもらい飲み干した。

「サンキュ。少し楽になった」

「まさか、何も覚えてないの?」

「あぁ、思い出そうとすると頭痛がする」

こればっかりはアキレアにも原因がわからないらしい。

もしかして思い出してはいけないことなのだろうか?

声も名前もちゃんと思い出せない。

顔にもずっと(もや)がかかっている。

「ねぇ、最後にひとつだけわがまま聞いてもらってもいい?」

「何?」

「抱きしめて」

「えっ?」

「お願い。一瞬でいいの。一瞬だけ」

予想していなかった角度からのお願いに戸惑ったが、その表情には大きな切なさを孕んでいて、何か覚悟めいたものを感じた。

「私ね、慶永と別れてから色々な人と出会って恋をしてきた。だけどね、どの人も本気にはなれなかった。慶永の優しさを超える人に出会えなかったの。身勝手なのはわかってる。でもこれが本当に最後なの」

その言葉の意味を左手の数字が証明していた。

“0“が点滅している。

そうか、今日がここでの最後の日なんだ。

すでに身体は色を失い透明に近くなっている。

「わかった」

そう言うと、梨紗は静かに目を閉じた。

俺は膝を落として梨紗の目の前で屈み、そっと抱きしめた。

それに応えるように俺の腰に手を回す。

死人同士でも伝わる肌の温もり。

人ってこんなにも温かいんだな。

どれくらい抱きしめていただろう。

一瞬という時間がものすごく長く感じた。

徐々に梨紗が消えていく。

足元から上半身へと少しずつ。

「ねぇ、慶永」

「ん?」

「ありがとう。最後に会えてよかった」

「うん」

その後の言葉を探している間に梨紗は笑顔で消えていった。

複雑な気持ちのまま俺の左手は“4”になっていた。