スノードロップと紫苑の花

☕️

冷たい風が鳴りを潜め、温かい風が姿を現す。

前日にはソメイヨシノに早く咲けと急かしているかの如く催花雨(さいかう)が降っていた。

あと数日もすれば標本木に桜が咲くだろう。

日中にはコートやジャケットを脱いでも過ごしやすい時期になった。

待ち合わせの時間よりも早く着いたので、駅前のベンチに腰かけ、この前買った小説を読んで待つことにした。

数分後、後ろからパンプスの音が聞こえてくる。

不思議なもので、何度か会っていくうちにその音が彼女だということが感覚でわかってくる。

「早いね」

「目が覚めたから」

そっか。
と言いながら俺の持っている本に目をやった。

「何読んどると?」

「紫苑はさ、死後の世界ってあると思う?」

「死後の世界?」

ジャケットには『ラストカタルシス』と書かれている。

この本によると、一部の死者は天国や地獄へ行く前にまず『煉獄』と呼ばれる世界で肉体を燃やし、条件を満たしたものはその後『縁国』と呼ばれる世界で魂を浄化させることで天国へ行けるという話らしい。

「この本には死んでからの世界が描かれているんだけど、天国と地獄以外にも死後の世界が存在するらしいよ」

タイトルとルビ、何とも形容しがたい意匠(いしょう)に惹かれてジャケット買いした。

「なんか難しそうな本やね」

「紫苑、あんま小説読まないもんな」

「うん。文字ばっかやと眠くなるもん」

たしかにそれはわかる。

俺もたまに読みながら寝落ちして何度かページを戻すことがある。

小説な文字だけでその世界に入り込める。

人の心を動かし、様々な観点からの捉え方でできる魅力がある。

ルーフレットを挟んだ小説をジーンズのバックポケットに入れ、少し街をぶらぶらした後カフェに入る。

コーヒーを1杯飲むと彼女が質問してきた。

「前から気になってたことがあるっちゃけど」

珍しく探り探りの様子で聞いてくる。

「何?」

「前にビールフェス行ったやん?あのときのこと覚えとる?」

もちろん覚えている。

付き合う前だろうと彼女とのデートを忘れるはずがない。

「もちろん覚えてるよ」

「あのときにけいくんのお父さんのこと聞いたやん?」

黄砂が来る前に聞かれたが、あのときはまだ付き合っていなかったし、初めて彼女から誘われたデートだから空気を汚したくなかった。

でももう話しても良いと思った。

「俺さ、家族いないんだ」

目を(しばたたか)せながら驚いた様子でこっちを見ている。

「聞いても、いいと?」

予想外の答えだったのか、少し遠慮気味だった。

俺は静かに首肯し、家族のことを話した。

お見合い結婚の両親。

裕福な家庭だったわけではなく、長男と長女ということで親戚の熱量が異常だったらしい。

共働きの両親と2つ歳上の兄さん。

我が家は少し『普通』からは遠い家庭だった。

大きな身体に反して身体の弱かった父さん。
熱が出ても具合が悪くても家族のために無理に働こうとしていたのを心配していた母さん。

(くだん)で喧嘩が絶えない両親。

8畳ほどの小さな家では毎日怒号が飛び交い、たまにフライパンや椅子が飛ぶこともあった。

また幼かった俺と兄さんは怯えながら外に逃げていた。

家族団欒(だんらん)という瞬間は記憶にある限り数えるくらいしかなかったと思うが、たまに行く家族旅行はすごく楽しかったし、誕生日やクリスマス、年越しは家族揃って毎年祝っていたので幸せだった。

しかし、そんな家族4人での時間は長くなかった。

ある日父さんが亡くなった。

梗塞(こうそく)だった。

お通夜とか葬式とかの意味もよくわからないまま喪服を着た大人たちに囲まれ、葬儀場で火葬された父さんの骨を箸でつまんだとき、

「父さん、もういないんだ」

亡くなったことを実感して泪が止まらなかった。

その日を境に兄さんがおかしくなった。

テレビに映るタレントを見て、
「俺の方をずっと見てくる」

と言ったり、

ヘリコプターが通ると、
「迎えにきた」

と言った虚言をするようになった。

病院で診てもらった結果、パラノイアという統合失調病の一種らしい。

尊敬していた当時の兄さんの姿はどこにもなく、そこからというもの、家庭は1999年にテレビ放送された金八先生の兼末 雄一郎のようになっていった。

リビングはゴミ屋敷となり家族で食卓を囲むことはなかった。

俺は居場所がなくなり、(ふすま)を挟んだ四畳半の部屋で怯えるように過ごしていた。

兄さんが部屋から出ることはなく、1日中家でゲーム。

イヤなことがあるとすぐ母さんのせいにして暴力を振るい、母さんは三畳の小さな部屋で毎晩泣いていた。

ある日バイトから家に帰ると、いつも点いているはずの電気が点いていなかった。

最初は数年ぶりに外に出たのかなくらいにしか思わなかったが、数日経っても兄さんが帰ってくることはなかった。

捜索願を出すとなったとき、正直俺は乗り気じゃなかった。

もし兄さんが帰ってきたらまた母さんの泪を見なければならなかった。

だったらこのまま母さんと2人で生きていく方が幸せなんじゃないかとさえ思えた。

しかし、家族にそんなことするわけにもいかず捜索願を提出したが、それから何の手がかりも見つからないまま母さんは他界した。

「……辛い経験してきたんやね」

彼女の目元は少し涙ぐんでいた。

「親は選べないからね」

それでも両親を恨んだことはない。

親ガチャという言葉が広まったときでも気持ちが変わることはなかった。

仮に違う家に生まれてきていたらって思うことはあった。

でも、あの家で生まれ育ったことでいまの俺のがある。

「なんか、けいくんが優しい理由がわかったかも」

「俺は紫苑にしか優しくないよ」

「そんなことないよ」

店の扉が開く度に訪れる生温かい風は、しめやかになった俺と彼女の心を温めてくれた。

「なんか、しんみりしちゃったな。アイスでも食べる?」

「うん」