険しい双眸を雅憲に向けた悠司は言葉を継いだ。
「きみが紗英を階段から突き飛ばすのを、俺は見た。彼女は大怪我をするところだったんだぞ」
「オレは突き飛ばしてない! その女が勝手に転んだんだ」
 おもしろくなさそうに唇を尖らせた雅憲は、きょろきょろと辺りを見回す。
 誰もいないはずだが、誰かが助けてくれると思っているのだろうか。それとも、自分が窮地に立たされたこの場から逃げたいという心理の表れなのかもしれない。
「では、警察へ行ってそう証言したらいい。俺も同行して、見たままを語ろう」
「け、警察……⁉ それは困る!」
 慌てた雅憲は、ふたりを突き飛ばすようにして横を通り抜け、階段を駆け下りていった。警察沙汰になったらまずいことでも抱えているのだろう。
 雅憲が道路の向こうに去っていったことを確認した悠司は、紗英に目を向ける。その双眸には心配そうな色が含まれていた。
「怪我はない?」
「ええ……平気です。守ってくれて、ありがとうございました」
「無事でよかった。あいつはとんでもないクズ男だな」
 悠司は床に叩きつけられて、ひしゃげた紙袋を拾い上げる。
 それを紗英に差し出した。
「この荷物は?」
「あ……私がさっき購入した茶葉とか、マグカップです。壊されてしまいました」
「なんてやつだ。アパート下にも声が響いていたが、よりを戻せと迫られたのか?」
「そういうことですね。ただ、よりを戻そうとは言わず、あなたが可哀想だからよりを戻しましょうと私のほうから優しくするのを待っていたのに、私がそう言わないから怒ったみたいです」
 それを聞いた悠司は深い溜息を吐いて、額に手を当てた。
 彼にとっては、成人男性とは思えない信じがたい依存思考だろう。
「きみをここに置いておくわけにはいかない。あいつが戻ってきたら困る。今夜は俺のマンションに泊まるんだ。いいね?」
「わかりました……」
 紗英としても、ひとりでアパートの部屋で過ごすのは心細かった。今夜だけでも、悠司の傍にいたい。
 手をつないで階段を下りると、道路脇には悠司の車が停車していた。
 紗英が先に帰ったので、アパートまで来てくれたのだ。もし悠司が追ってきてくれなかったら、階段を転げ落ちて大怪我をしていたことだろう。
 ぶるりと身を震わせた紗英を安心させるように、悠司は両肩にそっと手を添える。
 助手席のドアを開けた彼は、紗英が座席に乗り込むのを確認すると、ドアを閉めた。
 周囲を警戒するように見回した悠司は、運転席に乗ると、車を発進させる。
 車内で紗英は、ぼろぼろになった紙袋を、ぎゅっと握りしめた。
「ショックを受けただろう。遠慮なく泣いていいんだよ」
「いえ……彼には未練なんてありませんから。もうとっくに別れてますし。階段から落とそうとしたのも、ちょっと怪我をしたら私が言うことを聞くとでも思ったんじゃないでしょうか」
「今まできみにクズ男と言われてもピンとこなかったけど、実際に目にするとかなりひどいものだな。ああいう男ときみはこれまで付き合っていたわけなのか?」
「そうですね……。考えてみれば母親もああいうタイプで、子どもっぽい思考で、依存性が強いんです。でも私は、もう振り回されないと決めました」
 強い意思を持つことができたのも、悠司のおかげだ。
 彼と接した日々がなければ、きっと今も依存されて、利用されるばかりの女でいただろう。
 悠司を好きになったからこそ、元カレにきっぱりと断ることができたのだ。
 街の明かりが次々に通り過ぎる。
 ハンドルを握った悠司は、力強い声でひとこと放った。
「俺が、きみを守る」
「悠司さん……」
 でも、彼は叔父の勧めた見合い相手がいるはずだ。婚約したなら、もう紗英との関係を続けることはできないだろう。
 うつむいた紗英は、小さな声で問いかけた。
「どうして、私のところに来てくれたんですか……? 叔父さんが勧める令嬢と顔合わせがあったんじゃないんですか?」
「俺がきみを放って、ほかの女性と会うわけがないだろう」
「でも、悠司さんは令嬢と結婚する未来がありますよね? 私とはかりそめの恋人なんだし……」
「それについてなんだが、マンションに戻ったら、きちんと話をしよう」
「……わかりました」
 依存するクズ男を撥ねのけることができたように、悠司とのことについても、きちんと向き合わなければならないと、紗英は心に決めた。
 もう、『強い子』の仮面を被ったままの弱い自分ではないから。