『じゃあな。もう電話するなよ』
「……はあ?」
 プツッ、ツーツー……
 出勤途中の海東(かいとう)紗英(さえ)は呆然として、握りしめていたスマホを耳から離した。
 途端に、駅の構内のざわめきがよみがえるのを感じる。
 こうして慌ただしい時刻に彼氏の大類(おおるい)雅憲(まさのり)と電話していたのは、なにも好き好んでのことではない。
 向こうから一方的に別れ話の電話をかけてきたのだ。
 事の始まりはこうだった。
 昨夜、会社帰りの紗英がいつも通りアパートに入ると、雅憲と見知らぬ女がベッドで致している真っ最中だった。
 硬直するしかない紗英だったが、女は顔をしかめると、悪びれもせずに服を着て出ていった。気まずげにベッドサイドに腰かけた雅憲は頭をかくと、「煙草を買ってくる」と言い置いて、紗英の脇を通り過ぎていった。それきり帰ってくることはなく、彼からの謝罪はいっさいなかった。
 半同棲のような状態になっていて、合い鍵を渡していたが、まさか浮気に使われているとは思わなかった。
 というより、雅憲は紗英にバレてもどうにでもなるくらいにしか考えていなかったのだろう。向こうから言い寄られて付き合いが始まったのだが、いいように利用されているという懸念はあった。彼はろくに仕事もせず、紗英に金を貸してくれとせびり、まるでヒモのようだったから。
 紗英はそんな雅憲を好きというより、情だけで付き合いが続いているような状態だった。
 これが正しい恋人関係なんていえるのかどうか、疑問はあった。
 その曖昧な関係に決着がついただけのこと。
 ぽつん、とアパートの部屋に残された紗英は、そう割り切ろうとした。
 だが、さすがに浮気に使われたベッドでそのまま寝る気にはなれず、床で寝たのは惨めさを覚えた。
 どうして私が、こんな目に――?
 床を涙で濡らしたのは言うまでもない。
 しかも翌朝の電話で雅憲から伝えられたのは、『おまえが悪い』という紗英を責める内容だった。彼はいつも自分は悪くなく、紗英のせいにするという幼稚なところがある。
 どうやら彼は浮気相手のほうに本気になったので、紗英のことは捨てるつもりらしい。もちろんこれまでに貸した金を返す気は、雅憲にはない。以前、「返して」と言ったら逆ギレされたからだ。
 極めつけは最後に、「もう電話するなよ」という捨て台詞である。
 電話をかけてきたのは、そちらだが……。
 まるで紗英が未練たらたらだとでも言いたげな横柄な態度だ。偉そうに言うのは、自分に後ろめたいことがあるときの雅憲の特徴である。
 未練があるといえば貸した金のことだが、合計十五万円ほどなので、諦めるしかないだろう。
 関係が終わると、自分がいかにクズ男と付き合っていたかがよくわかる。
 このやるせなさと憤りを、爽やかな朝の出勤時間にどう昇華すればよいのか。
「私って、とことん男運がないのね……」
 深い溜息を吐いて、スマホをバッグにしまう。
 セミロングの髪に、凡庸な顔立ち。スタイルもごくふつう。スーツを着ている紗英は、どこから見ても一般的な会社員であり、どこにでもいるような女だ。
 そして駅で彼氏と別れ話の電話をするのも、どこにでも転がっているようなことなのだろう。
 自分の男運の悪さを呪いながら改札を通って電車に乗り込む。
 紗英はさほど恋愛経験が多いわけではないが、なぜかクズな男ばかりに引っかかってしまう。
 目的の駅に到着すると、駅を出てすぐ傍にある会社の玄関をくぐる。
 入社四年目の紗英は、介護施設運営会社の本社で営業を担当している。
 キリシマ・ホールディングスの傘下である『ベストシニアライフ』は業界大手で、介護施設事業を全国展開していた。営業の仕事は地道な営業活動や、度重なるお客様との面談と契約など大変なことも多いが、やりがいがあるので仕事は好きだった。
 仕事は順調なのだが、紗英のプライベートは充実からはほど遠い。
 二十六歳になっても結婚どころか、クズ男に引っかかり、泣きながら床で寝るという有様である。
 また深い溜息を吐きつつ、営業部のフロアに入った紗英は自分のデスクに着いた。
 あまりにも落胆が濃かったためか、デスクに置いたバッグがよろけて、床に落ちる。どさどさと中の荷物がフロアの床に散らばった。
「あああ……」
 不幸の連続に嘆きの声を上げる。
 腰を屈め、スマホやポーチをかき集める。まだ始業時刻前なので、フロアにはそれほど人がいなかったのが唯一の救いだ。これで笑われでもしたら、泣いてしまう。
 そのとき、床に視線を落としている紗英の前に、上等な革靴が現れた。
 つと、拾い上げたファイルを差し出されたので、顔を上げる。