――そこには、大きな桜の木が一本だけ立っていた。

 千鶴の身長十人分、優に五十尺(ごじゅっしゃく)は超えているだろうか。  

 (こけ)のみっしりついた太い胴体から伸びる(いびつ)な枝に、余すところなくついたほのかに透けるような薄紅の可憐な花。

 不格好な巨木と端麗(たんれい)な小花。

 一見すれば相反する二つのもの。

 しかし、ここまで大きな木でなければ、愛らしい花はたくさんの花を咲かせられず、一方で朴訥(ぼくとつ)な巨木も見目麗しい花がなければただの変木。

 どちらがかけてもこの美は成り立たない。

 それらが融合することで、えもいわれぬひとつの大きな花を形作っている。

 千鶴はその壮大な美しさを捉えた瞬間、世界からそこだけを切り取られたように、桜と自分の存在しか認識しなくなった。

 その気高く壮麗(そうれい)な花は、まるで自分がこの世のすべてだと言わんばかりに主張する。

 多くの花が最も美しく咲く春にあって、人々の視線を天高く一心(いっしん)に集め、地上の花々に心を移すことさえ許さない。

 この世界にある他の何かを見ようとしても見えないし、感じようとしても感じ取れない。

 それほどまでにこの花は、千鶴に自分の存在を押し付け、千鶴も不思議とそれを受け入れている。

 そんな麗しき女皇(じょこう)は、何の気まぐれか、腕を取れと言わんばかりに、千鶴の方に一本、枝をひときわ長く伸ばしていた。

 その先端にも可憐な女王の子どもたちが咲いている。

 千鶴がそろりと手を伸ばした瞬間、突風が吹き抜ける。

 気位の高い花の女王ではあるが、風が少しでも吹こうものなら、微塵(みじん)躊躇(ためら)いもなく、ますます美しく花を散らす。

 しかし、今日の桜吹雪が生み出したのは、巣をつつこうとして蜂の群れが襲ってくるような花弁の大群。

 まさに強襲(きょうしゅう)という表現が正しい、(すさ)まじい量の花びらが千鶴に向けられ、千鶴はそれらから守るように己の顔を手で覆った。

 わがままな女王は、他人が子に()れることを良しとしなかったのだろうか。

 しばらくすると風はおさまり、千鶴は様子を伺うように指を開く。

 手の隙間から見えたのは、薄墨(うすずみ)の着流しを上品に(まと)った、白皙(はくせき)の美しい青年。

 何ものも入って来ることができなかった、千鶴と桜の世界に彼はいつの間にか立っていた。

 その人は桜の群れが形作った精霊か、と思うほどに自然にそこになじんでいた。

 青年は千鶴の存在など気にも留めず、桜を一心に見つめている。

 先刻までの千鶴と同じ、桜と二人の世界にいるのだろうか。

 青年の様子が気になり、千鶴は顔をそっと覗き見る。

 青年は眉間に皺をよせ、端正な顔に怒りにも似た表情で、桜を(にら)んでいた。

 彼に千鶴は問いかける。

「桜がお好きですか」

 その表情からは好きといえる感情はおよそ見当たらない。

 けれども千鶴は、青年の険しい表情の中に、何か桜に対して複雑な想いがあるようで、そう尋ねてしまった。

 いや、単に桜が嫌いですかと聞いて、肯定されたくなかっただけかもしれない。

 青年は千鶴の声が聞こえていないのか、聞こえていて答えないのか、問いかけに反応すること無く、桜をじっと見つめている。

 千鶴はそんな青年の姿と背景にある桜にみとれてしまう。

 しばしの沈黙の後、青年は桜から視線を逸らすと、千鶴には一瞥(いちべつ)もくれず、桜と逆の方向に足を向ける。

 千鶴はなぜかその瞬間、青年が自分の視界から消えることにひどく恐怖を覚えた。

 虚構(きょこう)か、現実か、わからない存在の美しき青年が、ここに現れた時のように、桜の花びらと一緒にふっとどこかへ消えてしまいそうで、

 青年が消えたとたん、この美しい世界がパッとあっけなく崩れてしまいそうで、

 千鶴は思わず、青年の着物の(たもと)を掴んだ。

――千鶴が()れても柔らかな絹の感触はしっかりとあり、青年は消えずここにいた。

 桜も変わらずそこにある。

「なんだ」

 衣服を捕まれた青年は、不機嫌な表情を千鶴に向ける。

 その低く通った声は千鶴を現実世界に戻す音。

 千鶴はシャボン玉が眼前で割れたかのように目をしばたたかせる。

 とっさに袂を掴んでしまったが、いい理由が思いつかず、思ったことをそのまま口にする。

「貴方様が消えてしまいそうで」

 青年が千鶴の言葉に目を見張り、薄い唇から言葉を発そうとしたその時、

「ここにいたのか」

 後ろから聞こえた声に千鶴は振り返る。

 そこにいたのは南山だった。

 千鶴の視線が南山に向けられた隙に、青年は千鶴に握られた袂を振りほどく。

 南山は、千鶴の奥にいた青年にも気づき、

「おや、お前も一緒にいたのか。ちょうどいい」

 そう言って千鶴と青年の間に立つ。

「千鶴さん。紹介するよ。私の息子の南山桐秋(みなみやまきりあき)だ。

 そして桐秋、こちらが今日からお前の看護をしてくれる西野千鶴(にしのちづる)さんだ」

「西野千鶴と申します。よろしくお願いいたします。」

 南山の紹介とともに千鶴は桐秋に向かって深くお辞儀(じぎ)をする。

 桐秋は千鶴を一瞥すると、興味がなさそうにその場から去ろうとする。

 南山は呼び止めようとするが、桐秋はそれを無視し、歩みを止めないまま縁側(えんがわ)から離れの一室に入る。

 あそこが桐秋の療養している部屋だろうかと千鶴は思う。
 
 南向きのその部屋はどこも襖戸(ふすまど)が閉じられていて、中の様子はうかがい知れない。

 千鶴が部屋の様子を気にしていると、

「すまない」  

 と南山から謝罪の言葉が発せられた。

「病を得てからというものすっかりふさぎ込んでしまって、誰とも口をきこうともしないし、医者の言うことも聞かない。

 だから派出看護婦(はしゅつかんごふ)をお願いしても、みんなすぐに辞めてしまう」

 南山の言葉に千鶴は看護婦という仕事に就く女性の人間性について考える。

 看護婦は女性が就く職業の中でも、とりわけ高い教養が必要となる。
 
 女子の就学率があまり高くない今の時世であっても、看護婦養成所(かんごふようせいじょ)に入るには、

 高等小学校(こうとうしょうがっこう)の卒業、または女学校(じょがっこう)二年生以上の課程を就業する、などの条件がある。

 その後、養成所に二年以上就学し、卒業。試験に合格してやっと正看護婦になれるのだ。 

 千鶴も女学校を経て、看護婦養成所に通ったが、周りの同級生には、独立心旺盛で、大きな責任感をもった士族(しぞく)や、商家(しょうか)の子女が多かった。

 だからこそ彼女たちは、自分の行いが正しいのだと信じ切っている。

 そのような気位の高い彼女たちに、自分のことを聞かない患者の相手をしろ、といってもそれは難しいことかもしれない。

 それでも南山は諦めず、息子のために必死に看護婦を探し、千鶴にも声をかけてくれた。

 南山が桐秋を大切に想う気持ちは、初めて会った時から今まで、千鶴は痛いほど感じている。

 しかし千鶴はさきの桐秋の南山に対する態度に難しい親子関係も感じ取る。

「先に庭を見てもらったが、玄関から入って、離れを案内しよう」

 南山はそう言って、もと来た方向に歩き出す。千鶴も後をついて行く。

「ここに来る前もお願いしたが、桐秋は離れに人が入るのを嫌うから、看護だけではなく、奥向きのこともやってもらうことになるけど大丈夫かな」

 南山は歩きながら千鶴に確認する。

「大丈夫です。家でも奥向きのことと、診療所の仕事、両方をやっておりましたので」

 千鶴の答えに南山は安心したように頷く。

「君に頼んでよかった。

 実ははじめ違う看護婦に依頼をしていたんだが、君の方が優秀だと推薦されてね。

 引き受けてくれてよかった」

「もったいないお言葉です」

 その言葉に千鶴は俯き、頭を下げる。

「君の家との違いもあるだろうから、離れのことがわかる女中(じょちゅう)を待たせてある。

 その者に何でも聞いてくれ」

 千鶴は南山の気遣いに頷く。

 話しているうちに離れの玄関に戻ってくる。

 先ほどのことがあったからか、大きな玄関がさらに立派なものに見えてくる。

 南山はさらりと扉を開け、千鶴を招く。

 千鶴は目をつむり、胸に手をあて息を一つ吐くと、少しの緊張と大きな使命感をもって扉をくぐるのだった。