桐秋は襖の枠にもたれ掛かり、濃い緑の茂る木を、何をするでもなく眺めていた。

 一月前に見た木と本当に同じものだったのだろうかと思うほどに、そこに絶佳(ぜっか)の美の面影(おもかげ)はない。

 そんな季節の過ぎゆくことさえ認識していなかった桐秋の頭を今、支配するのは、この一月、誰より自分の側にいた彼女の、決壊寸前の潤んだ瞳。

 もう昼を過ぎるが、今日は一度も見かけていないし、声も聞いていない。

 いつもなら、その存在を所々でありありと感じるのに。

 それでも朝、昼の食事の膳は変わらず、部屋の前に置いてあった。

 桐秋は昨日、誠心誠意尽くしてくれている彼女に、お門違(かどちが)いの怒りを向けてしまった。

 自分は病人だ。それは紛れもない事実なのに、話の流れから指摘され、受け入れられず、彼女にあたってしまった。

 これまでの看護婦たちは高慢(こうまん)なところがあり、自分がみな正しいのだと桐秋に病人の在り方を強制してきた。

 桐秋が無視すると父に言いつけ、それでも聞かないとなると辞めていった。

 その点、千鶴は違っていた。

 自分の意見を通すのではなく、桐秋がどう思っているのか、感じているのか、ずっと聞いてくれようとしていた。

 問いかけてくれていたのだ。

 桐秋が反発して取り合わなかっただけで。

 また他の看護婦と比べれば、この一月は随分と桐秋の気持ちを(おもんばか)って、様子を見てくれたようにも思う。

 そんな彼女が昨日踏み込んできたのは、よほど思うところがあったからだろう。

 冷静になればわかることだ。

 わかっていたのに。

 それでも、離れを清潔に保ち、病人食を完璧に作り、あまつさえ風呂の温度も加減する。

 病人の自分に尽くすことが、使命だと言わんばかりの彼女の有様に、なおのこと自分が何もできない人間だと感じられてしまい、いらついてしまっていた。

 そして、大事な研究資料を破られたことで、それが爆発したのだ。

 悪いのは片づけをしようとしてくれた彼女ではなく、そこに放っておいた自分なのに。

 今しがたまで、研究の続きをやろうと本を読んだり、少し睡眠を取ろうとベッドに横になったりしていた。

 が、昨日のことがまざまざと思い出され、自己を嫌悪する気持ちがどうしようもなくなった。

 今は冷静になろうと風にあたってはいるが、春の温かい風は、桐秋の身体を優しく包むばかりで、頭を冷やしてはくれない。

 それが余計に己のしたことの悪しさを身にしみさせる。

 何かに頼るのではなく、自分で解決しなければならないのだ。

 桐秋が必死に頭を悩ませていると、部屋の前でドスっという音がした。

 逡巡(しゅんじゅん)していた思考が、唐突に止まり、桐秋は音のした方向に顔を向ける。

 にわかに襖が空き、現れたのは、たった今、自分が考えていた彼女。

 けれどその顔は、今の今まで思い浮かべていた、胸のつまるような顔ではない。

 季節を過ぎた桜が、再び咲いたかと勘違いするようなパッとはじけた明るい笑みだ。

 桐秋がその表情に驚いていると、千鶴は襖を開けるために置いたのだろう、重い音がした根源を両手に持ち、桐秋に見えるようにおもいきり前面に突き出す。

 厚い本を(ひも)で縛った分厚い本の束。

 見覚えのある洋書が含まれている。

「南山教授から、桐秋様が桜病の研究を続ける許可をいただきました。

 直接研究所での研究を行うことはできませんが、桐秋様が続けられていました、文献による研究は行ってよいとのことです」

 千鶴の言葉に桐秋は目を見開く。

「また、南山教授が算段をつけてくださって、帝国大学の下平(しもひら)さんとおっしゃる方が、桐秋様の実験を代わりに行ってくださるそうです」

 続けて千鶴が発した言葉に、桐秋はまたも驚かされる。

「下平が」

 下平は、堅物な桐秋の数少ない友人だった。

 桐秋とは正反対の明るく社交的な性格だったが、不思議と馬があった。

 大学の研究室にいた時も、桜病の研究を手伝ってくれていた。

 桐秋が会えなくなって寂しさを感じた友でもあった。

「はい。実施したい実験があれば、詳しい方法を記した指示書を送ってほしいと」

 そういい終わると、千鶴は母屋から運んできたと思われるたくさんの本の束を、桐秋の寝室から続く、小さな小部屋に次から次へと運んでいく。

 千鶴から告げられた、父からの研究の許可と友からの協力の申し出。

 予想外のことが多く起き、桐秋の頭は処理が追いつかない。

 桐秋が唖然(あぜん)としていると、千鶴は突如(とつじょ)として本を運びこむことをやめ、桐秋の前に座った。

 互いに膝を突き合わせるような格好になる。

「でも、無理をなさってはいけません。

 お医者様の診察も必ず受けていただきます。

 きちんと三食食べること。

 きちんと休憩を取ること。

 明るい喚起の行き届いた部屋で研究なさること。

 私の言葉にも少し、耳を傾けてくださること」

 千鶴が顔の横に指を立てて桐秋に言う様は、病人というより、小さな子どもに言い聞かせているようだ。

「よろしいでしょうか」

 最後にずいっと澄んだ(まなこ)で迫る千鶴に、桐秋は思わず気圧され、頷いた。

 桐秋の返事に満足し、笑みを浮かべる千鶴だったが、一転、しゅんとして

「昨日は、桐秋様のお心を傷つけてしまい、申し訳ありませんでした」

 と頭を下げた。

 その姿に桐秋はまたも呆気にとられる。

 が、次の瞬間には吹き出してしまい、声をだして笑ってしまった。

 桐秋の頭がやっと目の前の現実に追いつく。

――なんという娘だろう。

 昨日、自分からあれだけ理不尽に攻められたのに、反論するどころか、自分の研究を認めさせるため、父に直談判に行くとは。

 いや、昨日、ここを出た時の彼女の表情を思い返すと、打ちのめされたのかもしれない。

 それでも彼女は桐秋のためを思って心に(むち)を打ち、父の元に頼みにいってくれたのだ。

 桐秋でさえ諦めてしまった父に、何度もぶつかって互いに歩み寄れなかった父に。

 だから、桐秋は誰にも知られないように独り、閉じこもって研究していた。

 しかし、彼女は父に認めさせた。

 彼女のまっすぐに人を思う心が、強い意志を宿すまなざしが、父を動かしたのだろう。

 桐秋の心を慮り、とことん真摯にむきあってくれる。

 そのためなら誰とでも戦う。千鶴の在り方が、桐秋の冷え切った心に小さな灯りをともす。

 久しぶりに心が温かくなる。

 そして現在、そんな強い彼女からは一転、自身の言動が桐秋を傷つけたと泣きそうになりながら謝罪している。

 その落差に桐秋は驚き、呆れ、それでも終いには笑みが浮かんだ。

 明るい感情が桐秋の心を埋め尽くしたのだ。

 あんなにも今まで、暗い感情が胸の内を支配していたのに。

――ああ、まったくなんという娘だろう。

 笑い続ける桐秋の姿に千鶴は戸惑い、どうしてよいかわからず、慌てている。

 桐秋はひとしきり笑い、それが収まると、自身も千鶴にまっすぐに居直り、昨日のことを頭を下げて謝罪する。

 それから病になってはじめて、頬を上げ、感謝の言葉を述べた。

「ありがとう」

 千鶴は、桐秋から自分に向けられたいっとう整った柔らかな笑みに、少し照れて赤くなりながらも、どういたしまして、とはにかむ花の笑顔で答えた。