社に戻り、パソコンの前でキーボードを叩く。

「あの女性も年上だったなぁ。年上好きなのかなぁ。綺麗な人だったなぁ。私なんかよりも、ずっとお似合いだよねぇ。なんで血迷った感情なんて抱いちゃったんだろう……。バカバカバカ……」

 ブツブツと零しながら、バカのリズムに合わせてキーボードを叩いていると、真美ちゃんがにこやかな表情をしてやって来た。

「高坂さーん」

 弾むように傍に来て、弾むように話しかけてくる。

 今日も彼女はキラキラしていて、可愛らしい。永峯君の彼女も女子力の高いとても綺麗な人だった。素敵な人には、素敵な人がお似合いなのだろう。

 専務のコネで入社したといわれている彼女は、どこかお気楽なところがある。仕事は頑張っているけれど、それよりも女を磨くことに日々力を注いでいた。ショッピングは毎日の定型業務。ネイルもエステも美容院も、とても小まめに通っている。親のお金だからと嫌味を言う人もいるし、その部分は大きいと思う。けれどそれ以上に、彼女は彼女らしく。女というものに誇りを持って日々を生きている気がする。少しくらい爪がダメになっていてもいいということは絶対にないし。お肌のためにいいものを選んで口にしている。ヘアスタイルだって服装だって、毎日考えるのは大変だろう。そう思うのは、私の女子力が低すぎるせいだろうか。

 やめた。真美ちゃんと比べると、益々落ち込んでいく。

 可愛らしく話しかけてきた真美ちゃんの表情は、何か含みをもったように頬が緩み口角も上がっている。きっと、毎年恒例のあれがやって来たのだろう。

「もしかして」
「はい。流石、高坂さん。そのもしかして、です」

 語尾にふふふっとつけた真美ちゃんは、一枚の紙をデスクに置いた。用紙には「新入社員歓迎会‼」と銘打ち。本日業務終業後から、数駅先の居酒屋で軽い飲み会があることが書かれていた。予算は会社持ちだからいいのだけれど、お酒の飲めない私には苦痛な会だ。

「上の人たち、ホントこういうの好きだよね」
「部長は飲みたくて、うずうずしてますからね」

 真美ちゃんと苦笑いを浮かべたまま、チラリと部長の席を見る。飲み会が楽しみなのか、普段よりもワントーン高い声の部長が笑顔を見せている。

「高坂さんがお酒飲めないのは知っているんですけど。澤木さんや宮沢さんは遅れて来るらしいので。それまで部長の相手をしてほしいんです。よろしくお願いしますね」
「よろしくって。真美ちゃんは?」
「私は、エステの予約が入っているのでお断りしました」

 ニコリと笑みを向けられれば、何も言えない。真美ちゃんにとってエステは、最重要事項なのだ。

「了解だよ。でも、人数が揃ったら帰らせてもらうからね」
「どうぞ、どうぞ」

 こんな時に飲めない酒の席なんて、皮肉でしかない。酒って、飲む練習をすれば強くなるのだろうか。

 さして美味しいと思ったこともないビールの泡を思い浮かべてから、すぐにタルトケーキに映像をすり替える。飲み会をさっさと切り上げて、どこかでケーキでも買って帰ろ。

 アルコールに気持ちが傾くことなく、スイーツへの想いを真っすぐ抱え。仲睦まじかった二人の姿を思い返しては、また深い息を吐いた。


 指定された居酒屋に着き店内に入ると、奥の座敷に案内してくれた。

「お疲れ様でーす」

 堀になった大きなテーブルの周りには、既に十人ほどが集まっていた。営業二課に配属された新入社員の二名が部長の傍に坐っている。多分、半強制だろう。

「おお、高坂。待ってたぞ」

 部長はすでにいい気分になっているようで、ジョッキを掲げてみせる。先輩が来たらすぐにでも帰ることができるように、座敷の上がり框付近の席に着きながら、ノンアルカクテルを注文した。

「そうか、そうか。高坂は、下戸だったな。代わりに好きな物を好きなだけ頼めよ」

 部長は「食え食え」と楽しそうにデジタルのメニューパッドを渡す。
 テーブルには既にいくつもの料理が並んでいたので、デザートのタブを開いた。載っていたのは、バニラとチョコのアイスに杏仁豆腐。それと、プリンだけだった。

「これだけか」

 居酒屋にスイーツを期待するのは間違いか。諦めて、目の前の焼き鳥に手を伸ばし頬張った。少し冷えていて硬い。
 ジョッキを煽る部長は、かなりご満悦のようだ。両隣に座らされている新入社員は、部長の「営業たるは」という自慢話に真面目な顔をして相槌を打っている。

 心の中で「頑張って耐えろ~」と声援を送る中、さっき頼んだノンアルカクテルの他に、ビールや他の飲み物も一緒に届いた。

 テーブルに置かれた飲み物に、周りから次々と手が伸びグラスがはけていく。目の前に残った桃色のノンアルカクテルに手を伸ばし、一気に半分まで飲み干してからグワッと熱くなる喉と胸に慌てた。目を白黒させて周囲を見回すと、同じような色のカクテルを飲んでいる新入社員がグラスを掲げる。

「あの、これノンアルでした。誰かノンアルを頼みましたか?」

 斜め向かい側からした声に向かって目を丸くした私は眩暈を覚える。久しぶりに。しかも一気にグラスの半分も体内に流し込んだアルコールは脳を揺さぶり胃を攪拌していく。

「あ。もしかして、高坂さん……」

 隣に座っていた同じ営業課の男性社員が慌てだす。私がとろんとした目を向けるのと同時に「ヤバ……」と呟き「チェイサー」という叫びにも似た注文の声が上がった。

 アルコールに浸った脳内が、波に漂うような気分にさせていく。まるで宇宙にでも放り出されたようにフワフワとした心地だ。酔い心地の中、さっき見た永峯君と素敵彼女の衝撃が急激に蘇り。そっちのショックに気分が悪くなりそうだった。

 なによ、なによ。素敵な彼女がいるのに、甘い言葉をかけてきて。ふられて落ち込んでる女なんて、ちょろいとでも思った? 悪かったわね、いい気になって。あんなアイドル顔の子に優しくされちゃったら、ふらっと気持ちも傾くでしょうよ。わかってるよ。こんなんだから元彼にもふられちゃうって言いたいんでしょ。どーせ私なんて、ふざけたことを言いながら、頭の中じゃ真面目腐っていて面白みに欠けますよ。一緒にお酒も飲んであげられないから、つまらなかったでしょうしね。あんなに可愛い子と二股するなら、もっと早くにふってくれればいいじゃない。子供ができたから別れるなんて言って、傷つけることないじゃない。私だって、いつもヘラヘラしているわけじゃないんだから。これでも一丁前に傷つくんだから。

 正にふられた事と、永峯君のこととが混同して、頭の中はぐちゃぐちゃだ。そこへ澤木先輩がやってきた。

「お疲れ様です。あれ、美月。どうしたの?」

 座ってしまった私の目を見て、澤木先輩がもしかしてと渋い顔をする。

「あぁ、せんぱーい。やーっときてくれた。私、ひっさしぶりに飲んじゃいました」

 ニカッと歯を見せ笑うと、先輩は心配そうな目を向けてくる。

「誰よ、飲ませたの。もぉ、大丈夫、美月」

 私を介抱する先輩に、呂律のまわらない言葉を返す。

「先輩が来てくれたので、私の任務はここで終了となります。みなさん、おつかれっした」

 ふらりと立ち上がり、バッグを手にして座敷を降りる。

「ちょっと、美月。大丈夫」

 外に出ようとする私の体を澤木先輩が支える。

「平気ですって。久しぶりに飲んだから、ちょーっと酔っただけですから。先輩は、部長のお相手、よろしくですよ。ほら、新人君たち困っちゃってますから」

 定まらない指を部長の方へさすと、困り顔の新人二人が、部長の前で緊張しながら相手をしていた。澤木先輩は、やれやれという顔をする。

 部長の相手を澤木先輩にお願いし、ふらふらと店を出た。外は静かなもので、歩いている人は少なく。時折タクシーが大通りを過ぎていく。

 数歩行くうちに、大きなため息がこぼれ出る。アルコールのせいで呼吸しにくいのもあるけれど。何より、パン屋で目撃した光景に胸が痛い。

「なんか。付き合う前からふられた気分……」

 短期間で二度もふられるなんてレアな体験。

 調子に乗り過ぎたんだ。こんな私に、あんな素敵男子がホイホイと寄ってくるわけがない。ちょっと考えればわかるものを。失恋の痛手のせいか、正常な判断が下せなかった。バカバカ。

 でも、永峯君。ホント、可愛かったなぁ。笑い顔なんて、キュートだったし。スイーツ好きっていうのもいいよね。別の形で知り合って、お友達にだけでもなりたかったなぁ。そしたら先輩が言うように、スイーツ巡りだってできたかもしれないよね。いやいや、待て待て。その考えがダメなんだってば。ガッツリと未練たらしいじゃない。

 堂々巡りの脳内はどうやっても永峯君への想いが捨てきれない。そのくせ薬指には、未だに正からもらった指輪を付けたまま。どっちつかずの感情が自分自身を苦しめる。街灯に向かって手を上げ、小さな輝きの指輪を眺める。体の中にある未練を吐き出すように、大袈裟に息を吐く。

「指輪。はずさなきゃ……。永峯君のことも、忘れなきゃ……」

 泣きそうになりながら呟いていると、背後からトントンと肩を叩かれた。徐に振り返ると、脳内一杯に住みついていた永峯君本人が目の前にいた。

「こんばんは」
「ひっ」

 幽霊にでも会ったみたいな声が出たのは、あまりにリアルタイム過ぎたからだ。

「き、君は、どこにでも出没するね……」

 胸に手を当て激しく鳴りだした鼓動と動揺を抑えていると、彼はケタケタと笑いだす。

「美月ちゃん探知機が反応してるのかも」

 ニッと笑う顔に、可愛い。とつい素の顔で見惚れてしまう自分にハッとする。ダメダメ。うっとりしている場合ではない。いくら酔っているとは言え、彼女のいる相手にふらついちゃダメ。

 しかし、心がふらつかなくても体は正直だ。滅多に飲まないアルコールに、地面がゆらゆら揺れている。立ち話などしていたら、体がもたない。さっさとタクシーでも捕まえよう。

「ごめん。もう帰るから」

 永峯君から一歩後ずさり離れようとした時、足元が覚束なく体が傾いた。視界が斜めになり、倒れると思った瞬間に体を支えられた。

「大丈夫?」

 酔っているからとは言え、永峯君の腕の中に収まってしまったことに慌てた。

「だっ、大丈夫だからっ」

 彼の胸を押しのけ離れようとしたところで、私は限界を迎えていた。自分の体を支えることもできず、彼の胸にしなだれかかる。

「少しも大丈夫じゃないじゃん」

 アルコールに瞼を持ち上げることもできず、目を閉じた耳元に彼の声が届く。

「少し歩ける?」

 永峯君の優しい声を聞きながら、支えられて少し先の大通りまで出た。やって来たタクシーに私を乗せて彼も一緒に乗り込んでくる。

「家、どこ?」

 訊ねられていることは解るのだけれど、呂律が回らず言葉が出てこない。アルコール、おそるべし。永峯君の声を遠くに聞きながら、何か口にしたような気がするけれど、なにを言ったのか解らないまま、ストンと意識を手放し。