「こんにちは」
「いらっしゃい」

 さっきまでひと睨みで人を殺せそうな顔をしていた店主は、彼が声をかけた瞬間に表情を柔らかなものに変えた。彼が話しかける相手は、みんな笑顔になるような気がする。

「源太さん。顔、気を付けた方がいいですよっていつも言ってるじゃないですか。お客さん、逃げちゃいますからね」

 かなり親し気に話しかけると、私の手を握ったまま、ねぇ。と同意を求めてくる。それに、微かな頷きを返すと、すまんすまん。というように店主は眉尻を下げて頬を緩めた。

「二人は、知り合いかい?」
「どしてですか?」

 源太さんの質問に彼が問い返すと、視線が繋がれた手へと向かう。彼は、源太さんに問われれても手を放す気などなく、ただ嬉しそうに笑みを浮かべているだけだ。

「今月の推しはどれですか?」

 源太さんの質問には応えず、彼がショーケースの前に進んでしゃがみ込む。手を繋いだままの私も、つられて同じような動きをした。

「今月は、桜餅が定番だ。あとは桜をイメージした羊羹だな。中に浮かぶ桜の花が特徴で、もっちりとした食感になってる」
「いいですねぇ」

 桜の羊羹は、見た目にも綺麗で。羊羹なのに、もっちりとした食感とはどんなだろうという興味を抱かせた。

 彼は、源太さんという店主に薦められた桜の羊羹を箱買いする。そんなにたくさん買うんだ。という感想以上に、支払いの際に繋いでいた手が離れたことに名残惜しさを抱く私はどうかしているのだろう。結婚さえ考えていた相手にふられてから、まだたったの二日だ。なのに、ちょっと親しげに擦り寄られたからと言って、なんと自分は簡単すぎるのだろう。自らの甘さに。だから、二股をかけられても気がつきもしないのだと呆れてしまう。

 私のお人好し。バカバカバカ。

「お嬢さんは、何にしますか?」

 脳内で自分自身を叱っているところへ源太さんに声をかけられ、反射的にびくっと体が反応する。

「驚き過ぎだから」

 私の様子に彼がクスクスと笑うと、源太さんは参ったなぁと今度は後ろ頭をかいた。どうやら、私が未だに源太さんに対して恐怖を抱いていると思ったようだ。それならそれでいい。店主の源太さんには申し訳ないけれど、簡単に心がフラフラしているなんて尻軽女には見られたくない。

 あれ。私、彼のこと、気にしてる。

 自然と沸いた感情に戸惑いを覚えた。

「彼女には、この店の推しを食べてもらいましょうよ」

 店主の源太さんよりも張り切った様子で、彼がショーケースを指さした。

「まずは、フワフワでもっちもちの鶯餅と。あとは、練り切りはこれかな」

 鶯餅は、正に鶯のようにふわっふわの緑色した粉がまぶされていて。可愛らしく美味しそうだ。練り切りは、手毬を模した柔らかなピンク色のもので、中にはこし餡が入っているという。

「どら焼きも捨てがたいんだよなぁ。十勝の小豆を使ってるんだけど、餡を作る火加減が素晴らしくて、小豆本来のミルクみたいな味わいにほっぺた落ちるからね」

 想像しただけでとろけるというように、彼がうっとりとした目で私を見るものだからドキッとしてしまった。さっき軽率な心を叱責したばかりだというのに、舌の根の乾かないうちにとは正にこのことか。けれど、昨日のように心はふわふわっとしていて、くすぐったいし心地いい。

 結局、彼に薦められるまま、種類ごとに一つずつ購入した。店を出ると。彼がニコニコとあとをついてくる。まるで、これから一緒にどこかへ出かける用事でもあるみたいだ。

 あ、そうだ。

「借りたままのハンカチだけど」

 立て続けに逢えるとも思っていなくて、返さなくちゃと洗ったハンカチはまだ部屋の中に干されたままだ。

「ああ。あれは、いつでもいいよ」

 いつでもと言われても、また次に会う機会などない気もする。今新しいものを買って返した方がいいだろうか。それとも、ここへ来ればまた会えるのだろうか。

「この辺。よく来るの?」

 駅に向かって歩いて行くと、彼も横に並んだ。

 彼がこの辺りによく来るのであれば、また会える可能性はあるだろうか。それなら、返すこともできるかな。

「そうだね。よく出没してる」

 何がおかしいのか、笑みを零して私を見た。

 なら、おきつ文房具店に来るときには、ハンカチを鞄に忍ばせておくとしよう。

「私、商店街のはずれにある文房具店によく来てるの。だから、もしまた会える時があったら、ハンカチ返すね」
「へぇ、あの文房具店に……。知らなかった……。うん。じゃね、楽しみにしてる」

 知らなかったという感想は、会ってまだ二度目の彼にしてはおかしくて少し面白い。天然なのだろうか。それに、ハンカチを返されることが楽しみだなんて変なの。思わずクスッと笑みを漏らすと、彼はニコリと笑顔を返してくる。

 なんだろう、この笑顔の数々は。次から次へと笑い顔を向けられると、自然と彼に向かって心が開けていく。例えば仕事で落ち込んだ時や、理不尽なことに怒りを抱え心が頑なになっていたとしても。彼がこうやって笑ってくれたら、心は一瞬で解けていく気がする。これが癒し系男子というものなのか。こういう人がそばにいてくれたら、幸せなんだろうなあ。

 気がつけば、昨夜のようにあっとい合う間に心を許してしまっていた。

「君もこっちに用事?」
「そうと言えば、そう」

 訊ねたことに曖昧な返事をするということは、触れられたくないのかもしれない。

 営業を続けていると、人の顔色を窺うことが癖のようになる。相手が何を考え、何を思っているのか。気分を害さないように自社の商品を勧めなくてはならないからだ。それに、私自身の性格上。石橋を叩いて渡るこの性格から、プライベートでも気を遣うのは常だった。ただ、時折脳内の(たが)が外れて、調子に乗ってしまうことがある。特に、慣れてきた間柄や、親密な関係になっていくと、考えるよりも先に口から言葉が出てしまうのだ。そんな風に油断した心が招くのは、いつも後悔ばかりだった。今回の失恋話がいい例だ。彼になら、素の自分を見せても嫌われたりしないと思い込んでいた。けれど、正にしてみれば、嫌悪にすら感じていたかもしれない。

 正とのことを再び思い出し、一気に気分が沈んでいく。

「僕たち、とっても気が合うと思うんだよね。ほら、この和菓子もそうだけど。甘いの好き同士って、いいコンビだと思わない?」

 失恋に落ち込み、軽い女に見られないよう気をつけなければいけないと心の中をセーブしているところへ満面の笑みを向けられた。瞬間的に、心が浮足立ってしまう。油断禁物だというのに、彼の言動は侮れない。

 コンビというワードから脳内に浮かんだのはお笑い芸人だった。舞台袖から「どぉもぉ~」と自ら拍手をしながら現れる場面が一番に浮かんだ。そんな想像力の稚拙さに、おかしくて笑ってしまう。

「どうしたの?」

 彼が不思議そうな顔を向けてくる。

「コンビと言ったら、お笑い芸人みたいだなって思ったらおかしくて」

 説明しすると、また笑いが込み上げてきてしまう。そんな私の発想が変だったのだろう彼もまた笑った。

 結婚間近だと思っていた彼にふられ、つい昨日までどん底だったけど。考えてみたら、彼と話していると、その瞬間だけは元気を貰うことができた。彼が言うように、甘いもの好きの私たちは気が合うのだろうか。彼の笑顔を見ながら話していれば、心は明るい方へ向いていく。こういう人のそばにいられたなら、日常は穏やかに過ぎていくのだろう。

「この後も仕事?」

 私のスーツ姿を改めて見てから、彼が問いかける。

「そう。このあとは、また別のところへ行く予定」
「なーんだ。残念。一緒に、これ食べられたらよかったのにな」

 彼は、さっき和菓子屋で箱買いした桜餅の入った袋を少し持ち上げる。

 まさか、二人で食べるためにこんなにたくさん買ったの? まさかね。いくら二人でも、ひと箱っていうのは多すぎる。それにしても、一緒にって。どこで食べるつもりでいたのだろう。この辺りに、買ったものを持ち込んで食べられるような場所などあるのだろうか。まさか、彼の家に……。なんてことはないよね。

 年下相手に何を考えているんだ。見境なさ過ぎでしょ。

 痛い妄想を振り払っているうちに駅前に辿り着いてしまった。

「僕、俊介っていうんだ。永峯俊介」

 自分の名前を名乗った彼の顔が、私の名前も教えてよと言っている。

「私は、高坂美月」
「美月ちゃんかー。いい名前だね」

「いや、あの。ちゃんづけっていうのは……」
「え、どうして?」

「私、君よりもずっと年上だよ。しかも、もうすぐ三十歳だし」
「僕から見たら、美月ちゃんっていうイメージだもん」

 だもん、て。まいったなぁ。三十にもなるのに、年下から今更ちゃん付けで呼ばれることになろうとは思いもしなかった。けど、イヤな気がしない。この子、不思議。

 永峯君は、にこやかに改札前で立ち止まる。

「じゃあ、またね。美月ちゃん」

 改札を潜る私を見送る永峯君は、昨夜カフェの外から二階のカウンター席に向かってした時と同じように「ばいばーい」と明るく手を振り続けていた。

 そんな彼に向かって自然と笑みを浮かべて手を振り返す。たった二度しか会ったことのない相手とは思えないくらい、親しげな行動をしている自分がまた可笑しくなった。

 電車のシートに座って時刻を確認してから、商店街でお昼ご飯を食べようと思っていたことを今更ながらに思い出した。
 手にしている和菓子の袋を見て、ちょっと吹き出し笑ってしまった。