先輩に励まされ心の回復をはかれたものの勇気が足りない。彼から来る連絡に返事をすることも、会いに行くこともできないまま。

 正に手を上げた時、醜くく鬼のような狂気に満ちた顔をしていたに違いない。その瞬間を見られていたと思うと、私をどんな風に思っているのか、考えただけで怖くてたまらなかった。

 鬱々とした気分からすっぱりと抜けきることができないまま、おきつ文具店へ行く営業日がやって来た。興津さんのところへ行くということは、ときわ商店街の人たちや永峯君に会う可能性があるということだ。和菓子屋の源太さん。精肉店の増田さん。おでん屋の喜代さん。みんなに助けてもらったというのにお礼の挨拶もしていない。

 心の準備が整わないままやってきた商店街周辺で、こそこそと辺りを窺いながら興津さんのところへ向かった。

 声をかけて中に入ると、いつも通り興津さんがレジ傍の椅子に座っていた。

「やあ、高坂さん。いらっしゃい」

 お客さん同様に、興津さんは営業に来ている私にもそう声をかけてくれる。

「この前の筆箱。子供たちにいい反響だよ。男の子受けするかと思ったが、女の子の方が売れ行きがいいよ」
「ありがとうございます。近々新色を出す予定なので、デザイン見本持ってきました」

 カラー見本の載った書類を渡すと、興津さんがじっと私のことを見てきた。

「なんだか、少し元気がないようだけれど。何かあったのかい?」

 興津さんの鋭い観察力に慌てて取り繕う。

「そ、そんなことないですよ」

 興津さんに気を遣わせるなんて、何をやってるのよ。もお。

 空元気でも何でもいいと、無駄に声を上げて笑ってみせる。そこへ、出入り口が開いて一人のお客が入ってきた。

「いらっしゃい」

 スタスタと中に入ってきたのは、以前商店街で永峯君のことを大好きだと公言していた女子高生の詩織ちゃんだった。彼女は、レジ傍の丸椅子に腰かけている私のもとへ来る。

「SAKURAってカフェ、知ってる?」

 憮然とした態度で唐突に問われたことに慌ててしまい、一瞬で脳内がパニックになった。とっ散らかった頭の中でも、SAKURAという名前には聞き覚えがあった。正ともめた後、永峯君に連れて行かれたカフェだ。

「そこで待ってるから来て」

 有無も言わさずそれだけを告げると、彼女は風を切るように踵を返し行ってしまった。知り合いかい? そう問う興津さんへ曖昧に頷いた。

 興津さんのところで諸々の所用を済ませてから、SAKURAへ向かった。辿り着くまでの道すがら、詩織ちゃんがどうして私を呼び出したのかを考えていた。突然呼び出される理由など、永峯君絡みしか思いつかない。敵意剥き出しで睨みつけていた彼女を思い出すと憂鬱でしかたない。

 重い足取りで辿り着いたカフェSAKURAは、昼間のせいか以前訪れた時よりもさらに爽やかで素敵な雰囲気を醸し出していた。今の私とは大違いだ。甲板を上がり、ドアに手をかけるとカウベルが鳴る。

「いらっしゃい」

 迎えてくれた店員さんを見て、今更ながらチャイに手も付けずに飛び出したことを思い出し心苦しくなる。

「あの、この前はすみませんでした」

 招き入れられて直ぐに頭を垂れると「気にしないで。また来てくれて嬉しい」と屈託なく返され救われる。奥のテーブル席には、待ちくたびれたというように詩織ちゃんが座っていた。

「おっそい」

 席の傍に立つと、開口一番叱られた。カフェラテを前にして待っていた彼女のカップの中身は半分以下だ。

「ご、ごめんね」

 詩織ちゃんの勢いに、オドオドと立ち尽くす。

「座ったら」

 薄い目で私を見ながら、詩織ちゃんは自分の前の椅子を勧める。どちらが年上なのかわからない。

 促されるままに席に着くと、先ほどの店員さんが注文を訊きに来た。

「あ、あの。チャイを……」

 あの時、カップに手を付けることもしなかったチャイを注文した。永峯君が勧めてくれたくらいだ、きっと美味しいに違いない。

「あっ、それから。マフィンを二つ」

 申し訳なさも手伝い、詩織ちゃんにと。それから自分の分も一緒に頼んだ。すると。

「私、チョコレートケーキがいい。あと、カフェラテおかわり」

 遠慮の欠片もない彼女によって、マフィンの一つがケーキへと変更される。

 飲み物とケーキが届いても、私を呼び出した詩織ちゃんは何も語らない。それどころか、運ばれてきたチョコレートケーキを美味しそうに味わっている。

 呼び出した理由はなんだろう。まさか先日の正とのことではないよね。

 何も知らないはずの彼女を前にして、目の前に鎮座しているマフィンに目をやった。詩織ちゃんは、依然美味しそうにケーキを食べ続けているの。甘い匂いの誘惑に駆られて、同じようにマフィンに手を伸ばす。

「なにやってんのっ」

 突如叱られて、伸びていた手を慌てて引っ込めた。まるで、いただきますもせずに食べちゃダメでしょ。と母親から叱られた子供みたいに肩を竦めて恐る恐る彼女を見た。

「随分と暢気なんだね。俊介君のこと、私に譲る気にでもなった? 別に、それならそれで構わないけど」

 挑むような視線で睨みつけてくる彼女は、あからさまに嘆息する。

 詩織ちゃんが永峯君のことを好きな気持ちは知っている。だからと言って、どうして譲るという話になるのかわからない。言葉に詰まって黙っていると、彼女はもう一度深く息を吐き出し私を見据えた。

「だってそうでしょ。俊介君からの連絡、ガン無視だっていうじゃん。それって、もう必要ないってことじゃないの? だったら私に譲ってよ。私の方が、ずっと俊介君のこと好きだし」
「そっ、それはっ。いろいろ事情があって……。それに私だって……」

 言葉が尻すぼみになったのは、正とのことがあったからだ。永峯君の前で正を殴ろうと手を挙げた自分。普段穏やかで、怒りとは無縁の永峯君にあんな怖い顔をさせてしまったこと。それらが私の想いを喉元で止める。

「何が事情よ。そんなの詩織に関係ないし。だいたい、私だって何? どうしてはっきり言わないの? あの時みたいにどうして堂々としてないのよ」

 あの時……。

 情けないと吐き捨てた詩織ちゃんの言葉に心がひっかかる。薄ぼんやりとする記憶の欠片。詩織ちゃんの言葉と、カフェで初めて会った時から親しげに接してくれた永峯君の態度。涼音さんの含みを持った話し方とパン屋の幸代さんが言っていた成就。なにかが引っかかるのに、うまくつながらない。

「私は、あんただから黙って我慢してたのっ。あんただったら、きっと俊介君のこと大事にしてくれるって思ったから、邪魔しないようにしようって大人しくしてたのっ。なのに、何。なんでそんな平気な顔してマフィン食べようとしてるの。そんなことしてるくらいなら、俊介君に逢いにいきなよっ」

 詩織ちゃんはキリキリとフォークを固く握り、今にも飛び掛かって来そうな怖い顔で睨みつけている。店内には、当然他にもお客がいて。周囲はザワザワと私たちのことを見て噂するように視線を向けている。

「あの。迷惑になるから……」
「はっ? 迷惑って、あんたの行動の方がよっぽど迷惑っ」

 何を言っても取り付く島もない。困って眉尻を下げていると、店員さんがやって来た。

「詩織ちゃん。クールダウン、クールダウン」

 穏やかに制されると、詩織ちゃんは不満顔をしながらも深呼吸をしてドカッと背もたれに寄りかかった。

「ここにして正解。櫻子さんに止められなかったら、私アンタのこと殴ってたかも。ホント、ムカつく」

 腕を組んでイライラを隠しもせず、私のことを鋭い目で睨んだままの彼女は、おかわりしたカフェラテのカップに口をつけてから、もう一度深く呼吸をして気持ちを整えている。

「涼音さんに聞いたけど、全然覚えてないんだってね」

 なんのことだかわからないのに、霧の向こうにシルエットだけは見えるような、そんな心地で彼女の話を聞いていた。

「あんなに、カッコよかったのに……」

 詩織ちゃんは、最後の言葉は不本意だというようにぼそぼそっと呟いた。

「私がまだ中学一年の、電車通学に慣れていなとき。帰宅ラッシュで混雑してる中、どこに立っていればいいのか自分の居場所も確保できなくてオドオドしてた。周りはサラリーマンばかりで、背伸びしながら空いてる吊革につかまるのが精いっぱいだった。そんな時、気持ちの悪い息遣いがすぐそばでし始めて……。それが段々荒くなって、手が伸びてきて……。今思い出しただけでも吐き気がする。逃げ出したいし、助けて欲しいのに、怖くて身動きもできなくて。こんなに怖い思いをしてるのに、誰も気がついてくれないし、こみ上がる涙を必死に堪えるのに精いっぱいだった。電車の揺れに乗じて触れてくる手の感触は、今も夢に見るくらいだよ。ほんと悪夢」

 詩織ちゃんはその時のことを思い出したように、苦々しい表情をしながら悔しそうに顔を歪めた。

「誰にも助けを求められなくて、兎に角その息遣いがなくなるのを泣きそうになりながら我慢して時に、突然明るい声で「久しぶりじゃない」って声をかけてきた女の人がいた。私は怖くて声も出せなかったから、その人のことを見るだけで精いっぱいだった。女の人はやたら親しげな顔をしてるけど、全くの知らない人だった。重そうなビジネスバッグを肩からぶら下げて、パンツスーツ姿の女の人は混んでる人波をグイグイかき分けて私の傍に来たの。知ってか知らずか、荒い息遣いの男と私の間に立つとペラペラと元気に話し出した。そのおかげで、痴漢との距離ができた。女の人は一人饒舌で「あんまり久しぶり過ぎて、暫くわからなかった」だとか。「ここで逢えたのは奇跡ね」とか。「そうだ、ちょっとお茶しようよ」とか。とにかく電車が動いている間中、私に話しかけてた。それで次に電車のドアが開いた時には、私の手を引いて降りてくれた。電車が行ってしまうまで、女の人は私の手をしっかりと握って、ニコニコと知り合いのふりをし続けて。電車が行ってホームの人が減ったところで、ほっとしたように手を放して、大丈夫だった? って私に訊いてくれたの。ああ、この人。私が痴漢に遭っていたのわかってて、助けてくれたんだって。味方がいたことにすごくほっとしたし、助け出してくれたことが嬉しくて泣きだしたくなるほど感謝した。女の人は、重そうなビジネスバッグの中から、あったかいカフェオレの缶を取り出して「さっき買ったばかりなの」って笑顔付きで私に持たせるの。それで「平気?」「怪我はしてない?」「一人で帰れる?」って心配してくれた。本当に受け叱った。そこへ、俊介君も慌ててやって来て。私と知り合いだから、自分が家まで送っていくということ。助けてくれてありがとうっていうことを女の人に告げたの。そうしていると、彼女は急に仕事の途中だったことを思い出したみたいで、慌てて次に来た電車に飛び乗っていなくなっちゃった」

 そこまで聞いて、記憶の蓋が一気にはずれた。それは、新しい顧客に急に呼び出されてでかけた途中の出来事だった。丁度帰宅ラッシュ時で、実際に手にしてみたいというサンプルの数々を鞄の中に沢山詰め込んでいて、その重さと嵩張り具合に辟易としていたんだ。

「本当にすごいと思った。あんな風に機転が利いて、勇気のある行動をとれる人のカッコよさに憧れた。なのに、今のアンタは何? 情けなさ過ぎでしょ、ウジウジしすぎでしょ。放っておかれてる俊介君が可哀相だよ」

 捲し立てるように勢いよく話すと、詩織ちゃんの瞳には涙が滲んでいた。

 もう四年も前になるのか。何度も肩からずり落ちるバッグをかけなおしていたところで、気分の悪そうな女子中学生に気がついたんだ。まだまだ成長途中なのか、背もそれほど高くなくて、吊革につかまり電車の揺れに必死に耐えていた。困ったような苦しそうな顔は、ラッシュに慣れていないからなのだろうと思っていたけれど、徐々に青ざめていく顔色と泣き出しそうな瞳に何かおかしいなと気がついた。顔を俯かせた中年サラリーマンが、やけに彼女にピタリとはりついてることにピンときたんだ。彼女は今にも倒れてしまうくらいに蒼白な顔色で、私は何も考えずに無理矢理人波をかき分け彼女の傍に行った。混んでいたから他の乗客には随分と嫌な顔をされたけど、それどころじゃない。誰も彼女の置かれている状況に気がつかないし。もしかしたら気がついていても、知らぬふりをしているのかもしれない。助けたいっ。頭に浮かんだのは、それだけだった。知人のふりをして彼女と痴漢の間に割り込んで、無駄口をペラペラたたいて、どうにか手を引き次の駅で降りて、痴漢男が一緒に降りてきた形跡がなかったことにほっとした。私もちょっと怖かったんだ。そうか、あの時の女子中学生は、詩織ちゃんだったのか。まだあどけなさの残る幼い顔の記憶しかなかったから、今の彼女に会っても気がつかなかった。

「やっと思い出したんだ」

 私の表情を見て取る詩織ちゃんにコクリと頷いた。そして、あの時の気持ちを口にした。

「夢中だったんだよね。今にも気を失うんじゃないかってくらい顔色が悪く見えたし。何より、そばには男性ばかりで、きっとそれだけでも怖いだろうなって。気がついたら、詩織ちゃんの手を握って電車から降りてた」
「なにそれ」

 考えなしなんて呆れると、彼女が頬を緩めた。私は少しはにかむ。

「俊介君。その時からアンタのこと気になってたんだよ。一目惚れだって。しかも、僕のヒーローなんて言うんだから。それを言うならヒロインだし。呆れちゃったよ」

 だからあの日カフェの二階で会った時に、少し驚いたような顔をしていたんだ。とても親し気に話しかけられたのには、こんな理由があったんだね。なのに私ったら、少しも永峯君のことを覚えてなかったよ。四年も前に彼と出会っていたのにね。

「俊介君はね、人懐っこくて、めちゃくちゃ可愛くて、男前でカッコよくて。私は、ずっとずっと前から好きだったんだからね。だから、今のアンタじゃ赦せないのっ。俊介君と一緒に居たいなら、あの時みたいに堂々とカッコよくいてよ。そうじゃないなら、私が俊介君取っちゃうから」

 一回りも年の離れた高校生にカツを入れられてしまった。頭の中であれこれと悪い方にばかり考え過ぎて、何もしないうちから怯えて逃げだして。自分のウジウジとした性格には、心底嫌気がさす。彼女を見ていて思った。もっと単純でいいのかもしれない。目の前にいる詩織ちゃんのように、好きなものは好き。その想いだけで突き進むことだって時には大事だ。

「永峯君の素敵なところ、沢山あげてくれてありがとう。こんなに素敵な人なのに、ホント罰が当たるよね」

 彼と過ごした時間を振り返る。まだほんの短い月日だというのに、彼が私にくれたものは計り知れないほどの幸せだ。正にふられて落ち込んでいた私を救ってくれただけじゃなく。たくさんの笑顔をくれて、幸せな気持ちにしてくれた。

 しっかりしなさいよ。そういう年下の女子高生の目を真っすぐ見つめる。

「詩織ちゃん。私も永峯君のこと好きだよ。詩織ちゃんよりも、ずっと永峯君のことが好き。だから、譲れない」

 はっきりと言い切る私に、一瞬面食らったような顔をした詩織ちゃんは、ムカつくと言ったあとにクスッと笑う。

「あ。言っとくけど。俊介君があんたより先に私を助けられなかったのは、痴漢相手にひよったからじゃないからね。あんたが声をかけるほんの少し後に、俊介君も私の名前を呼んでそばに来てくれようとしてたんだから。だけど、あんたがデカイ声で話しかけ続けて私を助け出してくれたから、余計なことをしなかっただけ。もしもアンタで太刀打ちできなかった時は、自分が出るつもりでいたんだからね」

 必死に永峯君をフォローするところが可愛らしくて。この子は、本当に彼のことが好きなんだろうと思えた。

 一度大きく息を吸い吐き出す。自分の中に溜まっていた澱を、すべて出し尽くすみたいに深呼吸をする。

 会計を済ませ、詩織ちゃんを真っすぐ見た。

「私、行くね」

 年下の女の子にすっかりと励まされた私は、気持ちを固める。

「永峯君のところに、行ってくる」

 背中に声がかかる。

「万が一玉砕したら、すぐに言って。速攻で彼女に立候補するから」