落ち込んだ気持ちを隠すことなく暗い顔でマンションに戻ると、エントランスに澤木先輩が立っていた。

「よかった、会えて。留守みたいだから、帰ろうかと思ってたのよ」

 澤木先輩は、スイーツの収まるクリーム色の箱をかかげて見せる。私はぎこちない笑みを浮かべ部屋に招き入れる。

 テーブルに、紅茶を淹れたティーポットを置く。ケーキは、目白にある有名なお店のものだった。クリーム・スポンジ・イチゴのバランスが絶妙で繊細な人気のショートケーキ。いつもなら目を輝かせ、声高に喜ぶところ。なのに、こんなに美味しそうなケーキを前にしても、心は少しも浮き上がらない。

「食べたくて並んじゃった」

 澤木先輩は、ふふっと笑うと美味しそうと目を輝かせる。

「今日は、どうしたんですか?」

 どうにかいつもの自分を取り繕うように訊ねる。

「なんて言うのかな。ピピっと、美月センサーが反応したの」
「なんですか、それ……」

 巧く笑えず頬が引き攣る。力なく零すと、先輩は得意気な顔で「私のこと呼んだでしょ?」と笑った。

 この人は、どうしてこんなに誰かのために行動ができるのだろう。訪ねてきてくれたことが嬉しいはずなのに、人としてのレベルが低い私はうまく笑うことさえできない。そう言えば、正にふられたあと。社の飲み会で酔っぱらってしまった時に、永峯君も同じようなことを言ってたっけ。私の周りには、よくできた人が多すぎる。なのに私と言えば……、情けない。

「何かあった?」
「どうしてですか?」
「いつもの美月じゃないなーって」

 誤魔化すように笑みを貼り付けてフォークを握る。柔らかなスポンジに刺したフォークだけで美味しそうだ。口に入れれば、思った通りの素晴らしい味。どんなに落ち込んでいても、甘いものには敵わない。正直な思いが顔に出て、少しだけ口角が上がる。

「その顔見られて、よかった」

 並んだ甲斐があったよ、と先輩もケーキの美味しさに頬を押さえている。

「アイドル顔の彼と何かあった?」

 訊ねられた瞬間、心の中にある感情がプワッとあふれ出る。

 永峯君に助けてもらったというのに、逃げるように去ってきた。頭や心の中にある悶々とした感情を吐き出すこともできずにいた。それが先輩の一言で刺激され、止めることができなくなってしまう。必死に抑えつけていた蓋が弾けて飛んでしまった。

 感情の制御きかなくなると、目からは大粒の涙がぽたぽたと零れ落ちた。慌てた先輩が、近くにあったティッシュを何枚も引き抜き私の目に当てた。

「大丈夫? よしよし」

 子供みたいにしゃくりあげて泣く背中に温かな手が触れる。背を撫でられ、ティッシュで涙を抑え、鳴き声で詰まりながら抑えつけていた思いを吐き出した。

「どうしようもなく嫌なところを……永峯君に見られちゃったんです。言い訳もできずに、……逃げてきちゃったんです」

 涙でつっかえつっかえ話すと、先輩は母親みたいに、うんうん。と頷く。喉の奥はキュッと締まり、込み上げてくる涙に顔が熱い。

 焦らせることなく優しく待ってくれる先輩に甘え、時間をかけて気持ちを落ち着かせる。そうしてから、先ほどまでのことを訥々と話していった。

「先輩は、私の真面目なところがいいって言ってくれましたけど。私は自分のそういうところが嫌でたまらないんです。人にはヘラヘラと平気な顔をしてるのに、心の中ではたくさんの汚い言葉や思いが湧き出てる。なのに、そんなこと微塵も思ってないみたいに平然とした顔をして。そのうちに頭の中で言い続ける不安な思いや愚痴に今度は落ち着かなくなる。次々と浮かんでくる不安を拭うために、石橋をたたき過ぎて割ってしまう。すると今度は、余計なことを口走ったり、考えなしの行動をしたり。もう、なにもかもうまくできないんです。情けなくなるくらい、ダメなんです」

 一旦黙ると、先輩はカップを持ち上げ私を見る。紅茶でも飲んで、気持ちを落ち着かせたら。そんな風にとれる表情だ。

 先輩に倣うようにしてカップを持ち一口飲むと、キュッと締まっていた喉を温かな紅茶がゆっくりと通り、内臓の奥まで広がり体の中に温かさが伝わっていく。

「正にふられた時だってそうです。急にお腹に子供がいる彼女を連れて来られて。あまりのことに驚いたし落ち込んだけど。本当は、はらわたが煮えくりかえるくらい頭にきていて。目の前にあるコーヒーを引っ掛けてやりたいって。なのに、常識ぶって真面目な自分を崩せなくて、結局何もできなかった。言い返すこともできないまま、物分かりのいいふりをして店を出てしまって。正からすれば文句も言わず、素直に身を引いてくれたって思うでしょうけど。実際は、腹が立って仕方なくて。挙句、酔った勢いでクダを巻いて、貰った指輪を投げ捨てちゃって」

 話を聞きながら、先輩は手にしていたカップを口元へ持っていく。すると、目をぱっと開いて満面の笑みを作った。

「この茶葉美味しいね。新しくしたの?」

 まるで今の話を聞いていなかったみたいに話を逸らした。

「オレンジペコーです。ていうか、……私の話聞いてましたか」

 とぼけたように話題を変えられて、荒んだ心が強い口調を作る。そんな自分がまた嫌になりため息を吐き俯いた。

「オレンジペコーってさ、紅茶の種類だと思ってなかった? ほら、ダージリンとか、セイロンとか。ああいうの。けどね、本当のところは、茶葉の等級なんだって。新芽の最先端から二番目の大型茶葉をオレンジペコーっていうの。ただね、イギリスの老舗がオレンジペコ―という商品名で売り出したことで、知る人ぞ知る美味しい紅茶って世に広まってるみたいよ」
「へぇ……。って、ですから。話逸れてますよ」

 得意気に語る先輩の紅茶豆知識に、つい突っ込みを入れてしまった。すると、先輩は、うんうん。と笑みを浮かべて頷く。

「よかった。まだ、いつもの元気が残ってる」
「わざとですか」

 恨めしい顔を向けると、先輩はとぼけた顔をしてから紅茶を口にして美味しいと頬を緩める。

 先輩には敵わないな。

「単純ですよね……」

 言いながら苦笑いが浮かぶ。

「いいんじゃない。私は、いいと思うよ。真面目な美月も美月だし。こうやって、美味しいものに頬を緩めたり、楽しいこと話して私に突っ込みをいれたり。それだって、ちゃんと美月だよ。それで顔を上げていられるなら、単純だって、真面目だっていいじゃない」

 もう一度頷くと、カップをソーサーに戻して私を真っすぐ見る。

「なんていうか、愚直よね。ほんと不器用な子」

 私が男なら、守ってあげたくなっちゃうよと付け加え。

「心の中なんて、誰にも見えないのよ。誰が何を考え思っているかなんて、その本人にしかわからないの。表面だけみて、この人真面目だな。怒ってばかりだな、ふざけてるな。くらいしかわからないのよ。けど、真面目だなんて思っていた人が、本当は手抜きして、人に物事押しつけてうまく生きている狡い人かもしれないし。怒ってばかりの人は関わり難いな、なんて感じていても。実際は情に厚くて、涙脆くて。哀しみの感情が強すぎて。それが怒りにかわっている人もいる。いつも笑ってふざけて、真面目に物事考えてるの? なんて疑うような人だって、着実に前に進んで成長している場合もある。そんな人たちの心の中だって、色んな感情が犇めき合ってるはずよ。悔しくて、自分に向かって文句を言っているかもしれない。ムカついて、相手の嫌なところをあげつらっているかもしれない。他人事みたいに冷めた目で、くだらないと舌打ちしているかもしれない。内面なんてそんなものだし。誰も強くなんてないんだよ。弱くたっていいじゃない。心の中くらい自由でいいじゃない。文句を言ったって、くだらないって舌打ちしたって。心の中でなら誰もわからないし、責めたりしないよ。それをバネにまっすぐ前を向いて生きられるなら、心の中で思う不平不満だって大事なことだよ。負の感情は、悪いことばかりじゃない。立ちはだかった物事を乗り越えられるよう頑張るための石ころみたいなものよ。跨いで先へ進むか、拾って端に避けるか。それを持って、元あった場所はどこだろうって探し続けるか。ムカつくーって遠くに投げ捨てるか。まー、口に出して投げつけて、ガラス割っちゃうような事が起きる場合もあるけどね」

 先輩は肩を竦める。

「なにを思ったって自由なんだよ。心の中まで抑えつけちゃったら、苦しくて息もできなくなっちゃうよ。元彼のこと、悪く思ったっていい。コーヒーを引っ掛けてやればよかったって後悔したっていい。自分を大事にできるなら、心の中くらい自由でいいよ」
「先輩……」

「私だったら、永峯君の止める手を振り払ってでも、その元彼殴ってたかも」
「え……」

「冗談よ。でも、そんな風に私だって考えるってこと。聖人君子じゃないんだから、心の中くらい文句たらたらでいいのよ。あー、でも。美月が悟りひらくなら、いいお寺を一緒に探してあげるよ」

 先輩の冗談に、さっきまで抱えていたモヤモヤする憤りが和らいでいく。

「けど私。永峯君に、ひどい顔も見せちゃって。正に殴り掛かろうとしたときの私の顔。きっと、とても醜くて。最低な顔をしていたと思います。それに……、永峯君にも嫌な顔をさせちゃたし」
「ほんと、優しいね。美月は」
「優しい……?」

 先輩は見守るような、穏やかな表情をする。

「うん。普通は、そんなことまで考えないよ。だって、みんな自分のことだけで精一杯だもん。それを一生懸命に相手のことまで必死になって考えてる。だから、美月はとっても優しい女性。それに、彼のことがとっても大好き」

 自分が相手のことを考えている優しい人間だなんて、露ほども思ったことはなくて驚いた。そして、最後の言葉には心が素直に反応する。永峯君の笑顔が一瞬で思い浮かぶ。

「人間臭くて、いいじゃない。素の顔でリアルに殴られる方がサイコパスっぽくて怖いでしょ。それに、永峯君が怒ったのは、美月のことが大好きだからだよ。彼の怒りのレベルは、あなたを想う気持ちに比例しているの。だから、彼を怒らせたって落ち込むんじゃなくて。彼の愛を知ることができた。こんなに愛されているのね、嬉しいって考えなさい」

 先輩は両手を胸の前で握り、嬉しさを表現している。そして、我ながらいいことを言ったと笑うのだから敵わない。

 真面目過ぎる硬い頭は、曲がったことを忌み嫌う。なのに心の中ではどうしても慨嘆(がいたん)が湧き上がる。そんな自分が赦せなくて、また落ち込んで。同じ場所をグルグルと性懲りもなく回り続ける。けど、先輩はそれでいいと言ってくれる。人間臭くてもいいと肯定してくれる。優しいと言ってくれる。

 先輩のような人が居てくれてよかった。この場所から、抜け出せるように声をかけてくれる人がいるだけで、こんなにも救われ生きやすくなる。

「ありがとうございます」
「美月には元気でいて欲しいからね。じゃないと、ほら。美味しいケーキを前に一緒にテンションを上げる相手がいなくなっちゃうよ」

 先輩は、残りのケーキを美味しそうに頬張り。次はどんなケーキがいいかな。なんて楽しげに笑ってくれるのだった。