落ち着いた雰囲気のある喫茶店に到着した。静かに流れるクラシックと大人の客ばかりの店内は、重厚な雰囲気を醸し出している。今の私のテンションとは真逆の空間だ。先走る思考と上がり過ぎるテンションを落ち着かせなさいということかもしれない。

 深く息を吸い吐き出す。店員がお一人様ですかと訊ねてきた。

 一人? これから未来の旦那様と将来について語り合うのにそんなわけないじゃない。

 完璧に浮かれていた。ニヤニヤが止められないまま「待ち合わせです」と得意気な顔をする。

 店内を見まわし、奥の壁際に正の姿を捉えた。ゴールを見つけた選手の如く、ヒールを鳴らしテーブル席に足早に向かう。席に近づくと、どういうわけか正の隣には見知らぬ若い女性が俯き加減で座っていた。

 誰?

 僅かばかり逡巡したけれど、脳内お花畑の私は疑問を一瞬で払拭し、妄想の中で眩しく光るダイヤの輝きに目が眩んでいた。要するに、何も深く考えることなどしなかったのだ。

 あ、わかった。婚姻届けの証人欄に記入してくれる人かな。ふふ。

 色とりどりの花に囲まれた脳みそを抱えたまま、正と女性の座っている向かい側に腰を下ろした。すると、店内同様の静かな雰囲気を纏った正は、重苦しい表情で私のことを見る。

 今思い返しても馬鹿だった。頭がお花畑どころか、心は天国に行ってしまっていた。昇天よ。

 真剣な面持ちで、隣の女性と共に正が顔を上げた。

「美月。俺と別れて欲しい」

 告げられたのは、あまりに衝撃的な一言だった。左手の薬指に光るダイヤばかりを想像していた頭の中に、正からの言葉は異国の言語のように聞こえ、予想外過ぎてまったく理解できない。カクカクカク、という音を立てるみたいに私の首は段階を踏んで横に傾いた。

 え? なんの話?

「彼女のお腹に、子供ができてしまったんだ……」

 異国言語を話す正の口から聞き取れたのは、子供というワードだけだった。

 へぇ。子供。私も子供は欲しいと思っているのよ。一人? 二人? 三人は体力が持つかどうか。

 理解できないというよりも心が拒絶し、正の言葉がまともに届かない。

 三人の間に、えも言われぬ沈黙が下りた。クラシックが静かに流れている。目の前の正は、口をきつく引き結び。隣に座る女性は、肩を落とし俯いている。テーブルの下で二人の手がしっかりと握りあっていることが何故かわかった。同じ気持ちを共有し、まるで大きな敵に立ち向かうように、力を合わせ挑むような気持ちなのだろう。彼らにしてみたら、この大局を乗り越えて、更なる地へ向かうための私はラスボス扱いなのかもしれない。

 心のどこかではこの状況を理解しているはずなのに、口から出てくるのは稚拙な疑問の言葉だった。

「……こども? 誰の?」

 自分がこんなに頭の悪い返しをするなんて、思いもしなかった。だって、別れ話だなんて一ミリも考えていなかったわけだし。プロポーズだと思っていたのだから。そんな中で告げられた見知らぬ女性の妊娠話になど、まともに対応できるはずない。

 目の前の可愛らしい彼女が、小さくごめんなさいと呟き頭を下げた。正は、大丈夫、大丈夫と彼女の肩を抱き寄せる。

 今目の前で繰り広げられている光景は、一体何なのだろう。大丈夫とは、何がだろう。私は、どうして今こんなことになっているのだろう。私の彼だと思っていた目の前の男性は、隣の彼女の子供を作ったと声を震わせている。すまなそうに背を丸めた見知らぬ彼女の肩を守るようにして抱きしめている。まるで私が悪者みたいに、二人は心細い表情で赦しを乞うようにして怯えている。

 何をどう考えればいいのかわからなかった。プロポーズだと思っていたつい数分前からの急転直下だ。

 そのあとのことは、あまりよく覚えていない。正に何か言い返したい気持ちはあったけれど、どれもこれもうまく言葉にならなくて全て飲み込んでしまった。隣に座る彼女にも何か言いたかったけれど、お腹に子供がいることを思えば、汚い思いを口にするのは憚られた。お腹の子に罪はないし、私の言葉がストレスになって胎教に悪い事態になるかもしれない。怒り狂うでもなく、泣くでもなく。黙って何も言わず、私はバッグの取っ手をきつく握りしめていた。感情はあふれ出そうなほど波うち、激しく騒ぎ立てている。なのに店内のクラシックが宥めすかすように優しい音色を奏でているものだから、その波さえもうまく乗りこなさなくてはいけないような気になっていた。

 席を立つとき、突如にコーヒーを引っ掛けてやりたいと怒りに震えた。バッグを持つ手とは別の手をカップに伸ばそうとしながら、正の白いシャツと見たことのないネクタイに怒りが萎む。

 彼女からのプレゼントだろうか。コーヒーの染みって落ちにくいのよね。

 カップの中の真っ黒な液体を見て、情けなさに息がもれた。こんな時に染みのことを考えるなんて、どうかしている。現実的なことを考えてばかりで、怒りをぶつけることもできないなんて情けない。ただ。とにかくもう、二度と顔も見たくないと、結局そのまま店を出た。気がついたら自宅で。気がついたら、スーツを着たまま床に座り込み朝になっていた。丸められたティッシュの山が辺りに散らかっていた。

 どれだけ泣いたのか。それすらも、わからなくなっていた。