今日は休業日だという、彼の働くバーへお邪魔する。地下へ降りる階段の先には、空のワインボトルや大樽がオブジェのようにドア付近に飾られていた。鍵を取り出し差し込むと彼が首を傾げる。どうやら既に開いていたようだ。

「オーナーが来てるのかな」

 ドアを開けて踏み込むと中は薄暗く、入った先の左側には七、八人ほどが座れるバーカウンター。右側にはテーブル席があった。更にその奥が小さなステージになっていて、グランドピアノが置かれていた。結構広いバーだ。あのピアノで涼音さんが演奏をするのだろう。オーナーは、何を弾くのかな。

「あれ。俊ちゃん。彼女と同伴?」

 カウンターの方から声がした。掛けられた声の方に視線を向けると、オーナーではなくパン屋で見かけた女性、涼音さんがいた。シンプルな薄い水色のワンピースを上品に着こなし、白いサンダルの踵をコツコツと鳴らして奥から出てくる。カウンター席の一つに手をかけると、彼女はからかうようにコロコロと綺麗な声音で笑った。

「涼音さんは?」

 同伴というところに何か言うでもなく、永峯君が訊き返している。夜のお仕事ジョークというやつだろうか。

「私は、お酒を頂きに」

 先ほどまでいたカウンター内から、彼女は琥珀色の飲み物を手に入れたらしい。しなやかな指にグラスが握られている。足を組んだ姿勢で腰かけると、琥珀のグラスを持ち上げ口にする。その姿は、とても素敵で絵になるものだった。

「俊ちゃんは? ここで彼女とイチャイチャでもしようと思った?」

 再びからかわれると、流石の永峯君もたじたじの様子だ。

「ここではしませんから。涼音さんがいるなら、遠慮しましたよ」

 ここではって。という私の突込みは、何とか喉元で押しとどめた。

「遠慮なんてしないでよぉ。ここは、俊ちゃんのおかげでもってるようなものなんだから」

 冗談のように笑っているけど、強ち違うとも言い切れないだろう。酒を扱う店舗の売り上げ減は、冗談では済まされないほど逼迫している。営業時間が元に戻ったとは言え、その負債を取り戻すのは容易ではない。文房具業界ですら、輸入に頼っている材料を仕入れられず、生産がおぼつかない商品が未だ多数あるのだから。

「あ、自己紹介がまだだったよね。私、澤木涼音。このバーのオーナーでマスターの姪っ子なの」
「高坂美月です」
「美月ちゃんね。ねえ、どこかで会ってない?」

 涼音さんは、パン屋で会ったことをおぼえていないようで、小首をかしげている。私は、商店街で見かけたことを話した。

「ああ。あの時の。お先に頂いちゃって、ごめんね」

 キュートな笑みを浮かべた涼音さんは、パン屋でトングを先に出したことを謝る。フルフルと首を横に振ると、永峯君の方を見て何か意味深な表情をした。隣に立つ彼を見ると、僅かに頷くような仕草をしている。二人だけにわかる何かがあるのだろうけれど、私には見当もつかない。

 涼音さんは、多分私と同じくらの年齢か少し上くらいだろう。落ち着いた大人の雰囲気の中に、可愛らしさも併せ持っていた。

「そうだ。俊ちゃんの恋がめでたく成就したお祝いに、一曲弾かせてよ」

 成就って。まるで以前から片想いでもしていたみたいな言い方だけれど、まさか酔った勢いから恋人になったとは思いもしないだろうな。とてもそんなこととは言えないけれど。

「いいんですか⁉」

 胸中で苦笑いをしていると、永峯君はとても驚いたように訊ね返した。

「お祝いだから」
「ありがとうございますっ」

 永峯君は勢い良く頭を下げる。二人のやり取りを見ていると、彼女のピアノが決して安くないと理解できた。

「俊ちゃんは、私の家族みたいなものだもん。弾かせてよ」

 涼音さんはグラスを手にしたまま、グランドピアノの方へ歩いて行った。永峯君は弾かれたようにカウンター内に入り、照明のスイッチを点けグランドピアノにスポットライトを当てる。

 照明の下に立った涼音さんは、ピアノの前にゆっくりと腰を下ろす。鍵盤蓋を上げて一度こちらに視線を寄越した後スッと呼吸を切り替えると瞳の色が変わった。彼女の表情がプロのそれに代わり、指が踊るように動き出す。第一音が鳴っただけでこの場の空気が一変した。一瞬で鳥肌が立つ。まるで大きなホールでのコンサートのような雰囲気に包まれた。

 彼女の弾くピアノは、躍動感があり。鍵盤に触れる指や流れるように動かす腕が、まるで一つの芸術作品のようだった。ジャズの曲は数多く知らないけれど、跳ねるように楽しそうに。それでいて語り掛けるような艶のある曲は、聴いてるこちらの気持ちを高揚させていく。何より、心に響いて目も耳も惹きつけられ、曲間に感想を呟くことさえできなかった。元々プロだったという彼女だからこそ奏でられる音なのだろう。

 彼女の演奏が終わり、あまりに素晴らしく放心したように余韻に浸っていると、永峯君が弾けるように拍手をした。つられるように手を叩き座っていた席から立ち上がる。グラスを持って戻ってきた涼音さんは、スタンディングオベーション貰っちゃったとキュートな笑みを見せた。

 あまりの素晴らしさに恍惚としていると、カウンターの奥から呼び出し音が聞こえてきた。どうやら店の電話が鳴っているようだ。永峯君が席を立ち、裏の方へ向かう。

「マスターかも。私がただ酒飲んでるの、バレちゃったかしら」

 涼音さんがクスクスと笑い、グラスに口をつける。

 永峯君がカウンターの奥へ引っ込むと、涼音さんがグラスを持ってカウンターに座る私の隣に腰かけた。

「漸くってところね」

 目をのぞき込むようにされたけれど、何のことかわからず小首をかしげた。

「これは、私の独り言だから気にしないでね」

 前置きをした彼女は、少しウエーブのかかった長い髪の毛を耳にかける。その仕種が様になっていて、セクシーで見惚れてしまった。

「どのくらい前だったかな。随分と前にね、電車内で女子中学生が痴漢に遭ったらしいの。偶然同じ車両に乗り合わせていた俊ちゃんはその事に気がつき、何とかして助けてあげたいって思ったんだって。けど、車内はとても混んでいて、その子との距離もあり、なかなか傍に行ってあげることが難しかったみたい。そしたらね、近くに立っていた女性が急に知り合いだと名乗り出て、女子中学生に親し気に声をかけたの。久しぶりに逢えたからお茶しようって、手を引き次の駅で降りたおかげで、女子中学生は痴漢の魔の手から逃れることができました。よかった。よかった」

 なんの話が始まったのか解らず、涼音さんの満足そうな顔を見ながら、わずかに首を傾げ話の続きを聞く。

「俊ちゃんも同じ駅で降りる予定だったから、女子中学生が助かったことにほっとしつつ。彼女たちのあとに続いてホームに出ると、涙声で感謝している女の子の姿が目に入ったの。知り合いの女性に会えて、痴漢から逃げられたことに安堵し泣いているのかと思ったら、どうやら違うみたいでね」

 どう違っていたと思う? というように、涼音さんが私を見るから、さあ。と首を捻ると苦笑いを浮かべた。

「その二人。知り合いでも何でもない、まったくの他人だったのよ」

 そこで涼音さんは、クスッと可笑しそうに私のことを覗き見るようにしてくる。

「知らない女性が、知らない女子中学生に知り合いのふりをして痴漢から遠ざけ救出した。今のご時世、下手に喧嘩腰になったら何をされるかわからないじゃない。けど、痴漢されている事にも気づかずにお茶に誘って下車したなら、後々何か問題が起きる可能性は低くなるでしょ。その話を聞いてね、なんてスマートで勇気のある助け方だろうって感心しちゃったのよね」

 本当に見事よね。と私のことをじっと見つめる。その顔に向かって、本当。すごい人ですね、その人。といって同意すると、彼女は目をぱちくりとさせたあと、弾かれたように笑いだした。私はその反応に驚いて目を丸くした。そこへ電話を終えた永峯君が戻ってきた。

「なになに。めちゃくちゃ楽しそうだね。僕も混ぜてよ」

 涼音さんの笑い声を聞いて、永峯君は興味津々の様子だ。

「だーめ。美月ちゃんとお近づきになった証のお話だから」

 涼音さんはクイッと顎を持ち上げて、俊ちゃんには内緒と綺麗な歯を見せて笑った。涼音さんが可笑しそうにしているわけはよく分からなかったけれど、スマートな痴漢救出話には私も感心していた。何より、まだあどけないだろう女の子が救われたことは本当によかったと思う。それでも、傷つかずに済んだとはいえないだろうから。トラウマになっていなければいいな。

「あ、そうだ。この前持ってきてくれた、桜の羊羹。美味しかったよ。叔父さんも喜んでた。ありがとね」

 さすが源太さんよね。と付け加えながら、涼音さんはグラスに口をつけてチビリと喉に流し込んでいる。

 あの時箱買いしていた羊羹は、涼音さんやマスターへのお土産だったんだ。合点がいった。

 まだしばらくバーでお酒を飲むという涼音さんに挨拶をして、私たちは再び外に出た。

「永峯君は、このお店で働いているんだね」

 階段を上り切った先で後ろを振り返り、再び前を向く。

「今度、華麗にシェイカーを振る姿を見せるね」

 並んで歩きだすと、彼は子供みたいにそんな冗談を言って笑った。得意気な顔が、やんちゃ坊主みたいだ。

 昼間のこの時間でも、裏通りの飲み屋街とは言え人通りは多い。二人で歩いていると、彼がいかにみんなから慕われているかを知ることとなった。

「あれ、俊ちゃん。今日は、休みじゃなかったかい?」

 向こうから歩いてきた女性が、気さくに声をかけてくる。

「こんにちは、喜代(きよ)さん」

 喜代さんと呼ばれた五十代後半くらいの女性は、エプロンを着けたまま買い出しにきたような格好で親しげに永峯君を見た。

「なんだい、私という女がありながら、そんな可愛らしい子を連れて歩いちゃって。焼けるじゃないのよ、まったく」

 喜代さんは豪快な感じで冗談を言い笑っている。

「僕の彼女の美月ちゃんです。可愛いでしょ」

 永峯君が誇らしげに紹介するから、照れくさくて控えめにお辞儀をした。

「ほんと。可愛らしい女性だね。宜しくね、美月ちゃん。あ、そうだ。うちは昔っからのおでん屋をやってるんだよ。今度商店街に来たら、寄って行ってよ」

 喜代さんは、たった今会ったばかりの私にも、永峯君と接するのと変わらないように屈託なく話しをしてくれた。

 今度二人でおでんを買いに行くことを告げて、喜代さんと別れる。更に歩いて行くと、次は和服を着た女性が声をかけてきた。しとやかで華麗な女性の手には、落ち着いた縮緬柄の風呂敷包みがある。女性は、和菓子屋の若奥さまというが、まさか。

「あれ、俊介君。もしかして、もしかすると」

 ふふっと興味津々の可愛らしい瞳を私に向けた和服の女性は「こんにちは」と丁寧にお辞儀をした。倣うように、ゆるゆると頭を下げる。

「祥子さん。僕の彼女の美月ちゃんです。宜しくお願いします」

 永峯君は、喜代さんへしたように祥子さんにも私を紹介してくれる。

「商店街で和菓子屋を営んでいるの。よかったら今度いらしてくださいね」

 思った通りだ。あの商店街に和菓子屋は一軒しかない。こんなに綺麗な人が、源太さんの奥さんとは。世の中、まだまだ未知の世界だ。

 とても失礼なことを考えていると、しなりしなりというように風呂敷包みを抱えた祥子さんは行ってしまった。

「源太さんの、奥さん?」

 一応確認のために訊ねると、満面の笑みで頷く。

 祥子さんは着付け教室の先生をしていたらしく、お茶のお師匠さんをしていた源太さんのお祖母ちゃんが間を取り持ち、結婚することになったという。あんなに厳つい雰囲気の人と結婚なんて、戸惑わなかったのだろうか。年だって、七つも離れているっていうし。

「初めは源太さんの方がベタ惚れだったみたい。けど、性格の良さが幸いして、今では祥子さんの方が源太さんに夢中みたいだよ」

 へぇ、そんなものなんだ。人は見た目じゃないとはよく言うけれど。中身って大事なのね。その点永峯君は、顔もいいのに性格もいいんだから驚きよ。こんなに素敵なのに、私みたいな頭の固い年上女が相手でいいのかな。

 考えると、憂鬱になるのは必須だ。どうやったら彼が私なんてものを好きになってくれたのか全く分からないし。その理由を考えたところで、答えなど出ない。唯一はっきりしているのは、私が大した女ではないという事実だけだ。現実を思えば落ち込む。