一気に興醒めだ。結局、私という女は、その程度にしか見られていないというこか。レベルの低い、軽い女だってことなのだ。馬鹿みたいに素直に悩みを打ち明けて、涙なんか見せちゃって。好きなスイーツのことに話を合わせて貰ったことにも気がつかずに調子に乗って。挙句、借りたハンカチを返さなくちゃ、なんて律義を建前に浮足立って商店街をウロウロしちゃって。バカみたい……。情けなさに涙が込み上げてくる。

「帰る」

 急激に冷めていく思考。部屋の隅に置かれている服をつかみ取る。さっきまで気にしていた視線など無視でさっさと着替えた。

「ま、待ってよ、美月ちゃん。僕何か怒らせるようなことした? 昨日のこと、本当は嫌だった?」

 慌ててそばに来る永峯君を見て静かに返した。

「ごめんね。上手く騙されてあげられなくて」
「騙すって……。ちょっと待って、なんか色々誤解があると思う。話ししよう。ねっ」

 さっきまでカースト上位くらいの余裕をかましていた彼が、今度はこの場を取り繕うように必死になる。

 私は冷静になり、彼の前に正座をして今自分が思っていることを話すことにした。彼も倣うようにきっちり正座する。パン屋で見かけた彼女のことを滔々と語ると、事の流れを話し終えたあと彼はホッとした顔で息を吐き「よかったぁ」と口にした。
 何もいいことなんかないでしょ。酔った勢いで、恋人のいる相手となんて。自分が情けなくて早くこの場から立ち去りたい。

「誤解だよ、美月ちゃん。僕に彼女はいません」
「そう。彼女はいないのね。あんな素敵な女性が彼女で……。えっ⁉ 彼女はいないの? だって、とても仲良さそうにパン屋さんのところから並んで歩いて行ったじゃない」

 この期に及んで、まだ騙そうとするのかという考えよりも。彼女がいないという言葉に対し、ただ純粋に驚いてしまった。

「うん。仲はいいよ。けど、彼女じゃない。いたなら声かけてくれたらよかったのに」

 とても残念そうに言われても、あの時の私は挨拶なんてできる心境じゃなかった。

 じゃあ、あの女性は一体誰なの?

「彼女は、僕の仕事場でピアノを弾いている人なんだよ。オーナーの姪っ子さんで涼音さんていうんだ。元々は、プロのピアニストだったんだ。僕は、その店でバーテンダーとして働いていて、一緒に買い出しへ向かっていただけ」
「ピアニスト? バーテンダー? ちょっと待って。永峯君て、大学生じゃないの?」

 色んな驚きが重なって、何から手を付けていいやら。

「おおっ。僕って、未だにそんなに若く見られるんだ。これでも二十六歳だよ。年のこと気にしていたみたいだけど、美月ちゃん僕と三つしか違わないからね」

 永峯君は、ニコニコとしながら三本の指を立てているが、三つでも十分離れてると感じてしまうのは彼が童顔のせいだろうか。

「というわけで。慌てて帰る必要はなくなったよね?」

 まっすぐな瞳の奥に優しさを湛え見つめられ、思わず素直にうなずいてしまった。正座した膝に乗せられた自分の手に視線をやり、帰らなくてもよくなったんだ。そうぼんやり思った瞬間に目が見開く。

「ない」
「ん? 何が」

 納得したかと思ったら、次には不安な顔で呟くものだから、彼は困惑している。

 正に貰った右手の薬指にあったはずの指輪が忽然と消えていた。

「ああ。それも憶えてないんだ」

 永峯君は、苦笑いを交えて私を見る。

「タクシーを降りて、僕のマンションに着いた時に、叫びながら投げ捨ててたよ」

 うそでしょ……。

 引き攣る顔のまま、それは事実なのかという顔を向けると、彼は可笑しそうに教えてくれた。

 昨夜。家の住所を何度訊ねても応えてもらえず、このマンションに連れ帰った。タクシーを降りエントランスへ足を向けようとしたところで私が突然叫んだらしい。

「こんなやっすい指輪で騙され続けた自分のバカヤローーーーっ!」と。

 近所迷惑さながらの大声と共に、私は大通りに向かって指輪を投げ捨てたという。

 伝えられた出来事に、開いた口が塞がらない。クツクツと肩を揺らす彼は、昨夜の状況を思い出しているのか本当に可笑しそうだ。

 なかなか捨てきれずにいた未練たっぷりの指輪を、酔った勢いとはいえ投げ捨てたとは。自分自身のことなのに、想像するとたまらなく笑える。外せなくてウジウジしていたというのに、なんて簡単なことだったのだろう。指に残る指輪のあとを見れば、まだチクリと心に痛みは走るけれど。捨てきれずにいた未練を断ち切れたことに、清々しい気持ちにもなっていた。

 消失した指輪の謎が解けヤレヤレというように息を吐くと、話はついたとばかりに彼が立ち上がる。

「じゃあ、一緒にモーニング食べようよ。僕チャチャっと作るからさ。あ、あと。覚えていないみたいだから、一応もう一回言っておくね」

 ダイニングの椅子を引き私に座るよう促すと、瞳をのぞき込むようにして告げる。

「初めて逢った時から好きでした。僕とお付き合いしてください」

 笑みを見せた彼に向かって「はい」と緊張しながら頷くと、唇と唇がそっと触れた。

 記憶のない昨夜のうちに、私には素敵な彼氏ができていた。これはアルコールのおかげか。だとしたら、何か辛いことがあっときは酔ってみるのもいいのかもしれない。

 永峯君はキッチンへ向かうと、鼻歌まじりで立派な冷蔵庫から食材を出し料理をし始めた。

 ジワジワと込み上げてくる嬉しさに頬を緩め、香り立つ朝食が出来上がってくるのを待っていた。