離れているから、不安になって大切な人に冷たい態度を取ってしまう。
離れているから、不安で大切な人に対して疑心暗鬼になってしまう。
離れていても、楽しくて幸せな日々を思い出し大切な人への想いで溢れていく。
離れていても、大切な人を思いやる気持ちが大事だと気づく。



 初夏の日差しが眩しい頃、海外赴任の話が突然舞い降りてきた。
 いずれいつかは、海外勤務の経験も必要だと思っていた。海外でビジネス経験を積めるのは、自身のビジネスキャリアにおいて糧になるのは間違いないだろう。以前より希望は出していたものの、なかなか出番が回ってこなかった。それが、赴任先の担当者が自己の都合で急遽帰国することになり、その代わりにと、自分に白羽の矢が立つことになった。

 辞令を受けた直後、興奮冷めやらぬままに彼女にメッセージを送った。

 『今晩、どこか外で食事しない?』

 彼女から直ぐに『いいよー』と、返信がきたので、お店の場所と待ち合わせ時刻を彼女に送った。
 定時になると、直ぐにオフィスを出て、彼女待ち合わせのお店に向かう。待ち合わせ時刻まで十分余裕あるのに、興奮しているせいか、何故か急ぎ足でお店に向かう自分がいる。
 案の定、予定時刻よりも随分と前に着いてしまった。店員に予約を取っている者だと告げると、予約よりも早い時刻にもかかわらず、開店時間直後だったことと、予約していた時間差は30分くらいだったこともあり、まだお客様もいないことからということで、早々にテーブルへ案内してくれた。
 
 “とりあえず、一足先にビールでも注文して飲んでいるか”
 注文して早々に届いたビールジョッキを、自分にカンパーイ!と、心の中で呟いてグラス半分くらいまで一気に流し込んだ。
 
 “夏前なのに蒸し暑い今宵、キンキンに冷えたビールは、格別に美味い!”

彼女が来るまで時間がまだ少しあるので、携帯を鞄から取り出しビールを飲みつつ海外赴任地の情報を調べることにした。海外赴任地の情報をネットで検索し、基本的な情報を頭に叩き込む。“それと、現地の文化習慣てきなところも抑えておかないとな“楽しくて仕方がない。そうこうしているうちに、待ち合わせ時刻ちょっと前に彼女がやって来た。 
 「真一、お疲れさま。早かったのね?」
 「お疲れ様。うん、早く着いたから、先に飲んでた」
 「かまわないよー、っていうか、何か良いことでもあった?」
 「分かる?」一呼吸入れて、グラスに残っていたビールを飲みほした。
 「海外転勤が決まってさ、これから忙しくなるかなって」
 そう言うと、ニヤリとした。
 「え?こんな時期に転勤?いつから?どれくらいの期間なの?」
 「まま、ゆっくり、これから話すからさ、先ずは何か頼もうよ」テーブル脇にあったメニューを京子に渡した。
 頼んだ料理とお酒がテーブルに次々と並んでいく。京子が「今日は、何だか景気よさそうね」と、並べられた料理を見ながら言った。
 「今日も、遠慮なく食べて」京子に取り皿と箸を渡した。
 「今日も、って。いつもそんな食べてる?」そう言って京子は笑う。 
 「そっか。でも、良かったね、海外行ってキャリア積みたいって言ってたもんね」
 「ありがと。ウチの会社だと海外キャリアあるかないかで将来異なるしね」新たに届いたビールを飲みながら京子に海外転勤について話し始めた。京子は、いつから行くのか、どれくらいの期間なのかが気になるみたいだった。
「一か月以内、かな?現地赴任に就くの。その前に、事前に一回くらいは出張で行くかも。赴任期間は分からないけど、今までの事例通りなら2,3年。長くても5年はくらいだと思うけど」
 「そっか・・・」と、メニューに目を落とし素っ気ない返事をする彼女の姿が、少し気になった。
 まあ、そうだよなって思う。彼女にしてみたら、嬉しいお知らせというより悲報になるのかもしれない。付き合っている恋人が、突然遠くへ行ってしまうのだから。
 「京子大丈夫?何か心配している?」一応気になって聞いてみる。
 「大丈夫だよ」と答えた彼女は強がっている様にも見える。まあでも、別れるわけでもないし、遠距離恋愛になるが自分達なら大丈夫だろうと、その時は思っていた。それよりも今は、待ちに待ったチャンス到来の海外赴任の日が待ち遠しくてたまらない。
 あまりにも自分と京子の温度差があるので、やはり京子のことが気になった。
 「もしかして、自分たちのことを心配していたりする?」
 「うん・・・・」
 彼女に、何も心配することなんて無いよ、と直ぐに付け加えた。出来る限り何も不安なんてないからという意味を込めて、彼女を元気づけるように。

 そんな感じで、海外赴任の辞令を受けたその日は、その嬉しさの興奮醒めやらぬまま直ぐに彼女と会って、キャリアアップ出来るチャンスだと一方的に自分のことばかり夢中に話したことを覚えている。
 その当時は、自分の実力を発揮し仕事で実績を出して、自分と言う存在価値を社会の中で獲得して行くことに意気込んでいた。社内でも仕事ができる方だと自負していたからこそ、必ず結果が出せると自分を過信していたこともあったのだと思う。
 自分の周囲も同じ様な輩が多かった。会社勤めをして10年くらいの時期は、仕事も回せるようになり、それなりの仕事も任せられ、そんな仕事の話を友人とすることで、少なからずとも男としての見栄もあったりした。

 京子に海外赴任を告げたあの晩からの数日後、高校からの友人である今井俊介と互いの近況報告会を臨時で行った。まあ、平たく言えば、単なる飲みであるが、それでも仕事のモチベーションを上げる機会になるので、有意義な時間だと実感していた。
 先に洒落た居酒屋に着いた自分は、書店で購入した現地語の本を読んでいた。すると、ふすまの向こう側に誰かがやって来た気配がする。
 「こちらで、御座います」店員が、ここの個室まで誰かを案内した声が聞こえた。
 ふすまが開くと、友人の今井が顔を覗かせる。
 「久しぶり!元気でやってる?」そう言って、個室の入口から覗く友人を中に誘った。
 「久しぶり。まあまあかな。そっちはどうなの?」
 「元気でやってるよ」
 そんな感じで、お互いの近況報告から始まるのが、この飲み会の常だった。
 「まじか、海外転勤決まったんだ。以前から海外で挑戦してみたいって言っていたもんなあ」
 「海外で行われるプロジェクトの経験が積めれば、今後のビジネスの視点がグローバルになれるかと思うんだよ」そう言うと、グラスの酒を一気に飲み干した。
 「今井の方は、どうなの?以前から転職も考えているって言ってだけど?」
 「どうかな、今一つ」そう言うと、グラスをテーブルに置いて、焼酎が注がれたグラスの中の氷をマドラーでかき回した。
 「どうした?なんか元気ないけど?」
 「今の仕事というより、やりたい仕事になかなか結びつかなくてさ。それと・・・」
 「それと?何?」
 「いや、別に何でもない。今の仕事では情熱は持てなくて、って言おうとしただけだよ」タブレットに注文を入力しながら、友人は浮かない顔で返事をした。
 恐らく詮索されたくないのだろう。彼は優秀な部類だ。それは、高校の時からずっと見てきているから、よく知っている。自分も一時期仕事で燻っていた時期があった。仕事をしていれば、それは付き物だ。
 「そっか」これ以上は聞かない方がよさそうだ。
 「とりあえず、先ずは新井の新たな門出に乾杯しようぜ」今井が新しく酒を注いだグラスを手に持った。
 「そそ、今日は飲もうぜ!」全てが順風満帆に進んでいるわけではない。心のどこかで京子のことが気になっていた。
 「ところで、新井の言う“今後のビジネスの視点がグローバルになれる”って、具体的に何なの?」
 「えっ、そこ分からずに、今までこの飲み会にやっていたの?!」
 もちろん、そんな事をわざわざ聞いてくるのは、彼なりの配慮なのだと察した。
 「じゃあ、改めて説明させてもらいましょうか。長いよー」
 うわ、マジかーっと、今井はおどけて笑った。

 「じゃあな、新井。自分もさ、負けてはいられないから」
 「勝ち負けじゃないから」今井の肩をポンッと叩いて、笑った。
 「でも、今井ならできるよ」そう言うと、今井は“任せておけ!じゃあな”と言って地下鉄の駅に向かって行った。
 JRの駅に向かう道は人で賑わっていた。路面店のレストらの窓を何気に見ると、恋人同士だろうか、楽しそうに食事をしている。そんな姿を見ていると、つい先日の京子と食事をしたことを思い出した。
 あの時の彼女は、笑顔で祝福してくれてはいたものの、何故だか時折ふと寂しい表情をしていた。今、冷静にあの時のことを振り返ると、自分の話を笑顔で聞いてくれていた彼女は、一生懸命に笑顔を作って悲しい気持ちを抑えていたのだ。そんな彼女の気持ちを気付いていても気づかぬふりをして、有頂天になって話をしていた自分は彼女を傷つけていたのだろう。
今更だが、時間が巻き戻せるなら、あの晩をもう一度やり直したい。あの時の彼女の表情を思い出す度に心が痛んだ。


 「友人のインスタで、イチョウの街路樹が綺麗な写真を見たの。行ってみたいなあ」そんな理由で、彼女からイチョウの街路樹が綺麗だから見に行こうと誘われた。
 海外赴任の日程が近づくにつれて忙しかったこともあり、休日くらいはゆっくりとしていたかったのだが、数週間後には離れ離れになってしまう彼女の事を考えると、行かざるを得ないと思った。
 申し訳なさそうに、「ごめんね、忙しいのに何だか無理言っちゃったかな」と言う彼女に、気にするなよと笑った。
 晴れた青い空の下、黄金色に染まった銀杏並木の下を彼女と歩いていると、何でもない普段の休日を久しぶりに思い出し、不思議と穏やかな気持ちになれた。
 「なんかいいね。綺麗だし」そう言って一緒に歩いている彼女を見ると、彼女がニコッと笑ってこちらを見つめ直す。
 「でしょ?綺麗でしょ。なんか今日は気分良いみたいだね。連れ出してよかった」
そう言いながら、今日ここに来て一番満足そうなのは彼女の方だった。
ここ数週間の慌ただしさが嘘のように、今は穏やかな時間を過ごしている。
横を歩いている彼女も何だか今日は、いつもより可愛く見えてしまう。
 秋のそよ風に舞う彼女の髪を、太陽の陽ざしがキラキラと輝かせる。
 “やっぱり、彼女は可愛い“そう思ったら、自然と彼女の手を握っていた。
 
「あのさ京子、これからもずっと一緒にいような」
 
ふと、口からこんな言葉がこぼれ、横にいた彼女が一瞬驚いた顔をして、「それって、プロポーズ?」
と、真顔で聞いてきたので、笑ながら、そういう意味じゃないよって答えると、彼女は「なーんだ、違うのか」と言って、冗談だって分かっていながら、わざと残念そうな演技をしておどけていた。
 そんな彼女を見ていると、結婚も意識してしまう。だが今は、まだ踏み切れない。


 それから色々と準備やらで、慌ただしい日々過ごした。今の住んでいるマンションの退去手配や、現地で必要なものなど揃えたりして、そんな感じであっという間に現地に向かう日を迎えた。
 身の回りの物は既に現地に送ってはあるものの、赴任した暫くは最低限生活に必要となる身の回りの物が必要なので、それらは大きめのスーツケースに詰め込み、ハンドキャリーで持っていくことにした。
 渡航の当日まで、部屋は借りていた。すべて身の回りの物が片付いてすっきりとした部屋を玄関から眺めると、“こんなに部屋って大きかったっけ?”と不思議に思った。最後に玄関の鍵を閉めると、“暫くは日本ともお別れなんだな”と実感がわいてくる。

電車を幾つか乗り継ぎ、空港に向かうエアポートエクスプレスのホームへと向かっていた。
 ホームで待ち合わせの約束をしていた京子が先に待っていた。
 「おはよう。今日も暑いね。結構、荷物多いね?」 
「おはよう。暫くは荷物片付かないから、それで必要最低限の物はハンドキャリーで持って行こうと思って。そしたら、思いのほか沢山あって」夏はとっくに終わっているのに、今日はとても暑く、大きなスーツケースを引きながら歩くのは苦労していた。
「その手に持っているバッグ持ってあげる」
「じゃあお願い」彼女にタブレットが入ったバッグを手渡すと、京子は「結構重いね」ニコッと笑いながら、肩に担いだ。今日の為に彼女は会社を休んで見送りに来てくれている。
「あ、あと、コレ。家の鍵。悪いね、退去の手伝いさせちゃって。おかげで今日までマンションに居られたから助かったよ」鍵をポケットから出して京子に渡した。
 
 京子と特急列車に乗り込むと、なんだか旅行に行く気持ちになる。
 「なんかさ、旅行に行くみたいだよね」京子は楽しそうに窓から景色を見ていた。
 「そうだよね、自分もそう思っていた」彼女の横顔を見つめる。
あと数時間後には、簡単に会えなくなる実感がまだわかない。
 
 列車が空港駅に到着すると、そのまま航空会社のカウンターに向かった。
カウンターで必要な手続きを済ませ、搭乗券を貰い荷物を預ける。搭乗時刻を確認し時計を見ると、まだ搭乗時間まで十分余裕があった。
 「京子、まだ搭乗時間まで時間あるから、お茶でもしようか?」
 うん、と返事をする彼女は、自分の手に持っている航空券を見て寂しそうに小さくうなずいた。
 
 空港内にあるカフェは、混雑していた。
 「あ、あそこに席が空いているから、先に座っていて待っていてくれる? 飲み物はカフェラテだよね?」京子は大抵いつもカフェでカフェラテを頼む。
 「うん、お願い」そう言うと、開いているテーブル席に向かった。
カフェのカウンターで二人分の飲物を注文し、席で待っている彼女に二人分頼んだことを目で合図した。注文した飲物を受渡カウンターで待つ間、新天地に向かうこれからの期待感があるものの、彼女の寂しい気持ちも分かるので複雑な感情の整理をしていた。

 「お待たせ、はいカフェラテ」右手に持つカフェラテを彼女に渡した。カフェでの会話は、何てことない日常のあれこれで、これからのことについては自分も彼女も敢えて話そうともせず、すこしぎこちない空気が二人を包んでいた。
 腕時計に目をやると、カフェを出なければならない時間に近づく。
 「そろそろ時間かな」
 そう言って、飲み終えたグラスを返却口に持って行こうと席を立った時に、彼女の目から涙が零れた。

 「行ってほしくないなあ」

 彼女は、顔を自分から背け溢れ出てくる涙を指でそっと拭った。

 ごめん、そう言って京子は、飲み終わったグラスを自分に「これもお願い」と言って、渡した。グラスを受け取る時、彼女の手に触れた。その途端、彼女の目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちてきた。

 「なんでかな、泣かないって決めていたのに」

 うつむく彼女の頭をそっと撫でた。何も言えなかった。
 出国口に向かう為にバッグを持って席を立つと、彼女が出国口まで自分のバッグを持ってあげると言って、やや強引に取り上げて肩にかけた。
カフェから出国口までの間、彼女は先ほどまで見せていた表情とは打って変わって気持ちを取り直し、一生懸命の作り笑顔で、“健康に気を付けてね”とか、“何かあったら直ぐに連絡頂戴”とか、“休みには遊びに行こうかな”とか、寂しさを紛らわすためだろうか、とにかく横で沢山喋っていた。
 出国口に着き、手に持っている航空券とパスポートを確認する。見送ってくれた彼女とは、ここまでだ。少し胸がチクンとしたが、これからの仕事や生活を考えると、気持ちが前向きになる。
 「バッグ持ってくれてありがとう」そう言って、彼女からバッグを受取ろうと手を差し出した時、彼女がそのバッグを持って二、三歩後ずさりをした。

 「あげないよ、このバッグ」

 持っていたバッグを胸元でギュッと抱きしめる。
 
 「いやだ、やっぱり行ってほしくない」

 普段のしっかりした彼女からは、想像できない行動だった。それくらい、彼女の気持ちが痛い程伝わって来た。直ぐに彼女は、冗談だよ、と笑いながらバッグ返してくれたが、本心は返したくなかったのだろう。事実、バッグを渡す時の彼女の手は、持っていたバッグを離したくなさそうだった。

 別れを惜しむ彼女を気にしないふりして、行ってくるね、と手を振って荷物検査場に向かうと、ふと、この先の未来、彼女は自分から去って行くのではないか、これで自分達の関係は終わるのではないか、という思いが浮かんだ。そして、それならそれで仕方ないと思う自分もいた。そう思う自分がクールを装い、見送る彼女の方に振り向くことなく、真っすぐに前を向いたまま検査場の中に向かわせた。
 ただその時、背中越しに自分の姿が見えなくなるまで彼女が見つめていたことに気づいてはいた。


 赴任したばかりの頃は、新しい環境の中で目まぐるしい日々を過ごしていた。毎日が新鮮で目の前のことに夢中になっていた。ただ慣れない環境もあって、キツイなって思う事も多かった。
 そんな時に来た彼女からのメッセージは、彼女の同僚と一緒に行ったカフェで美味しかったスイーツの写メや、日常でこんな面白いことがあったとか、彼女も楽しく過ごしているのだろうと思われるメッセージばかりいつも送られてきた。そんなメッセージを読んでいると、自分がいなくても楽しそうにやっているのだと思い少し寂しくもあったが、自分が大変な時に何のんきなことやっているのだろうと思うと癪に障り、こちらも楽しく過ごしていると怒り任せに適当な返信していた。
 そんな遣り取りが数か月も続くと、本当に彼女は、自分のことをどうでもいいくらいの存在としか思っていないのだろうと決めつけていた。


 更に数か月が経ち、こちらでの仕事に慣れてくると、現地スタッフとの摩擦や習慣的なところの嫌な面が沢山見えてきて、そんなことがあって思う様にプロジェクトが進まず、一体自分はここで何をしているのか分からなくなっていた時期もあった。そいう時は、精神的に支えてくれる人が恋しく思い、無性に彼女と連絡を取りたくなったが、“そんなの自分に都合良すぎだろ”との思いから、余計に連絡を入れにくくさせていた。一人で思い苦しんでいる時、彼女に甘えたい気持ちで一杯なのに頑なに拒んで、彼女を遠ざけている自分がいた。


 何度か彼女から会いに行きたいとメッセージが来ていたが、何だかんだ理由をつけては断っていた。本当は会いたい気持ちで募っているのに、何故か彼女の顔を見たくなかった。


 こちらに来てから一年が経とうとしていた。
 雲一つない青い空の下で鮮やかな黄金色の葉をまとった銀杏の街路樹を見上げると、去年の今頃、銀杏の樹を見に行こうと彼女とせがまれて、今と同じ様な街路樹の下を一緒に歩いた穏やかな日のことを思い出した。
 あの日、一緒に歩いて無邪気に喜んでいた彼女の笑顔を思い出すと、胸が締め付けられた。

 取引先との会食で、いかにも彼女が好みそうな料理が出された時、ふと、仕事が終わった後に彼女とよく食事行った時のことを思い出した。素敵なお店や美味しい料理を見つけると喜んでいたな。この食事も彼女が喜びそうな料理だなどと考えていると、取引先との会話に集中が出来なかった。
 
 週末の黄昏時、気晴らしに外出したら、偶然にも夜景の綺麗な場所を発見できた。そんな景色は、自分の中だけに留めておくには勿体なくて、彼女に見せてあげたくなる。
 本当は、彼女のことをよく思い出し、心が彼女で埋め尽くされつつあるのに、何故か彼女を遠ざけてしまっているそんな自分の態度は、自己欺瞞のなにものでなく、そして今更何をどうすればいいのか分からなくなっていた。

 “何がしたいんだろう自分・・・”

 仕事帰り、大きな月が美しく宙に輝くその夜空が、あまりにも広大で思わずふと立ち止まり、その宙に浮かぶ月を眺めていると、綺麗な月が滲んでよく見えなくなった。
 何故だろう、急に涙が頬を伝わり落ちた。
 
 “東京は今、夜中の1時か・・・”

 無性に彼女の声を聞きたくなった。彼女とは、久しく電話もしていない。携帯電話を手に持つと、
彼女に電話をするかどうか迷ったあげく、思い切って彼女に電話してみた。電話は、数回のコール音で繋がった。

 何を言えばいいのか、何も言葉がでてこない。ほんの僅かだが、無言の状態になってしまった。
とにかく、出来る限りの明るい声で、忙しくてなかなか連絡とれずに・・・と、言おうとしたが、我ながら白々しいと思った。だが、それ以外に言葉が見つからなかった。

 「もしもし?」

 いつもの聞き慣れた彼女の声だった。

 「ごめん、こんな時間に電話して」 

 何となく気まずい沈黙が続いたが、ほんの少し間をおいて返ってきた彼女の声が聞こえた。

 「寂しかった・・・・」

 彼女からの返答は、寂しかった・・・の一言だけだった。

 涙が沢山溢れでた。

 電話口の向こう側で、彼女も泣いているのが分かった。

 なんて自分は愚かでバカだったのだろう、彼女にこんな思いをさせてまって。そう思った途端、 急に胸が締め付けられ、辛くて苦しくていたたまれない気持ちになった。
 「なんか、ごめん・・・・・」それしか言えなかった。


 その日以来、彼女とは頻繁に連絡を取り合う様になった。
 彼女とのメッセージは、過去の履歴を読み返すことが出来ないくらいの沢山の思いやる文字で埋め尽くされている。お互いに遠慮なく電話もする様になった。
 離れていても、もう二度と彼女を不安にさせない。

「もしもし、あのさ、今度の日曜日に帰国するけど、帰国してから、次にいつ会うかだけど・・・」

「迎えに行くよ、空港まで!」