「あ、お前、もういらねぇわ」

 ……あっけない一言だった。『あ、ボタンがとれそう』とか『あ、消しゴム落とした』とか言うときと、まるきり同じ言い方だった。

 真冬野瑚雪(まふゆのこゆき)は小さく目を見開いて、それからすぐ元の表情に戻った。戻ろうとした。

「……アサヒ様。それは、」

「ごめんなさぃ、真冬野せんぱい。せんぱいは姫じゃなくなったんです。わたしが姫なの。ごめんなさい、怒らないで……」

 答えたのは黒竜会総長・黒川アサヒではなく、舌っ足らずに喋る少女だった。

 佐倉(さくら)ゆりあ。花千代学園の一年生。まだ入学してきたばかりで、しかし多くの視線を集める娘。

 ミルクティーみたいに甘い色の髪をゆるくカールさせ、大きな二重の瞳を無垢にぱちぱちさせている。頬は桜のようにうっすら色づき、笑うたび華奢な肩が跳ねる。

 そんな夢みたいに可愛い新入生に、男子生徒のほとんどが釘付けになっていた。

 ――瑚雪の婚約者、アサヒもまたその一人である。

「そういうわけだ。お前はもういらない。俺の姫はユリア。つまり婚約も破棄。いいな?」

 アサヒはスマホを見ながら言った。瑚雪には目もくれなかった。ゆりあがその腕に絡みついている。申し訳なさそうな顔をしているが、唇に隠しきれない笑みが張り付いていた。

「……承知いたしました」

 一言落としたきり、瑚雪は動かない。

「何突っ立ってるんですか。さっさと出て行きなさい」

 副長の水野颯(みずのはやて)が眼鏡を直しながら言った。他の幹部は皆、ユリアの周りにデロッと集まって、何やら話しかけたりしていた。

「ご、ごめんなさい、怒ってるんですよね。おねがいです、ひどいことしないで。せんぱいの家と違って、わたしの家、普通のおうちなんです」

 黙っている瑚雪に、ユリアがビクッと震え、哀れっぽい泣き声を出した。

「おい、ユリアちゃんが怖がってんだろ! いじめんなよ!」

 一ノ木虎丸(いちのきとらまる)が怒鳴った。彼は声が大きかった。しかし、瑚雪はぴくりとも肩を揺らさない。

 一歩、踏み出す。

「――アサヒ様。私を殴ってくださいまし」

 豪華なソファーに座っているアサヒに、近づいた瑚雪の影が落ちる。

「はぁ?」

 アサヒはさすがに顔を上げて、眉をひそめた。

「何言ってんだ、お前。フラれたショックで頭イカれたか?」

「いいえ。真の心で申しております。私を殴ってくださいまし」

 雪のようにしっとりと淑やかな声だった。その顔からは何も読み取れない。相変わらず人形のように面白味のない表情をしていたから、アサヒは少しだけ苛立った。

「ダル。それで被害者ヅラすんの? 誰かに泣きつく?」
「いいえ。そんなこと決していたしません。真冬野の名に誓って」

 そこまで言うなら、とアサヒは瑚雪を殴った。陰気で無口な女と何年も連れ添わされたストレスもあって、思い切り力を込めて殴った。

 拳を受けた瑚雪はよろめいたが、倒れなかった。

「気は済んだか? じゃあもう出てけ」

 再びスマホに顔を落としたアサヒが手を振った瞬間、瑚雪はカツカツ歩み寄ってバヂンッッと彼を殴った。平手だったが、ものすごい音がしてアサヒはソファーから落ちる。ユリアが悲鳴を上げた。

「ええ。長らくお世話になりました。これにて失礼申し上げます」

 幹部たちは想定外のことに動けず、また瑚雪に掴みかかろうとした者も、既に頬を腫らして氷のような目をしている彼女に、手を出せなかったのである。

 瑚雪はしずしずと集会室を出て行った。

 一度も振り返らなかった。