走った。
走ろうとした。
脛に何かが当たって、私は机と一緒に倒れた。
肋骨に机の角が当たって激痛が走る。
はやく立ち上がらなきゃ。



「うっ……」



苦痛に耐えようとすると身が縮こまり、動こうとすると「ああっ」と言わずにはいられない痛みが襲う。
じっとしているわけにはいかないのに。
首の後ろ側に冷たい棒のようなものが触れた。



「っひ!あっ……あっ……」



指だ。
指が後ろから喉に這ってきて、梨華先輩の腕が首に巻きついた。
黒光りしたヘアピンが目に真っ直ぐ振り下ろされるとき、恐怖が体と心を支配した。
声にならない悲鳴が涙に変わる。



ピーンポーンパーンポーン



『2年3組、赤星欣司さん。浜崎先生がお呼びですので、至急職員室までお越しください。
繰り返します。2年3組、赤星欣司さん。浜崎先生がお呼びですので、至急職員室までお越しください』



ピーンポーンパーンポーン



ヘアピンが目の前で止まった。
すぐに肋骨を押さえていた手でヘアピンをもぎ取る。
今度は抵抗がなかった。



「り、梨華……、なにも、なにもしてない!」



声を震るわせながら梨華先輩は教室から逃走した。



「刺さるかと思った……」



梨華先輩……腹黒すぎだ。
骨の髄まで黒そうだ。
次呼び出されても絶対に無視するぞ。



戻ってこないか心配で、私はしばらくヘアピンを握ったまま座り込んでいた。
でも、5分経っても、10分経っても、30分経っても、誰もこなかった。



その間にキリキリする鋭い痛みがしだいに鈍痛へと変わり、丸めていた手足を広げることができた。
楽な姿勢をさぐって、このまま床に伏せて安静にしていよう。



ふぅ……。



校内放送のおかげで助かった。
たしか赤星くんが呼び出されていたな。
職員室に呼び出しなんて、どうしたのかな?



きっと校内放送を聞いた人は、『赤星呼び出されてやんの。何か悪さしたんだろうな』なんて噂してるかもしれないけど、私はもう赤星くんを不良だとは思えなかった。
頼りがいのある優しいお兄ちゃん(ただし意地悪だ。口数が極端に少ないせいで知らない子も多いが、けっこういじってくる)だと思っている。



肋骨らへんを軽く押してみた。
今度はもう少し力を入れて押してみる。



「いたっ」



豆腐をツンツンするくらいの強さだと痛くないけど、揉んで白和えにするくらいの強さで押すと痛む。
でも骨は折れてないみたい。



私は立ち上がった。
そして、梨華先輩が使っていた机を腕力だけで「おりゃっ」と倒した。



ダァァン!



黒板まで滑っていった。
肋骨が「いったぁーい!!」と悲鳴を上げたけど、気分はスカっと爽快だ。
少々ダサいけど、それを自分で元の位置に戻して、他に倒れた机や椅子も直した。



動くとお腹が痛むなぁ。
梨華先輩の椅子に座ってちょこちょこタイムを食べた。
こんな日は全部食べてしまえ。
まだ半分以上は残っているそれを薬剤だと思って食べた。



いつ食べても美味しい。
飽きないな……ね、青先輩。
私はこのちょこちょこタイムのおかげで青先輩の目にとまったんだよね。



斜め後方にある席を眺めた。
こんなふうにして梨華先輩は青先輩を観察していたんだろうな。



青先輩の椅子に座ってみた。
でも、先輩は見てなかったんだよね。
姫として有名になれば彼の目にとまるって信じてたのかな。
姫としてつぶやくたびに、こんなにも好きだと発信しているのに見てもらえない、という不満が大きくなって心が蝕まれてしまったのかもしれない。



私も青先輩も、もうすぐで姫から物理的に離れられる。
ただ、姫は知らない。
私と青先輩ももうすぐそうなるってことを……。



机にペタっと上半身をつけた。



「いたっ。ふ~」



……まだ私のもの。
もうすぐ私のものじゃなくなる人。
しっかり私だけのものになったことなんて一回もなかったけれど……。



なのに、一年間ずっとこの机を青先輩が使っていたんだ、と思うだけで痛みが和らいでしまう。
人から愛された記憶は塗り薬のように優しく傷口を塞いでしまうんだ。
傷をつけた本人から薬を塗られたとしても……。