しばらくして赤星くんは、「俺の用事をまずは済ませる。それから牛蛙を送る」と言って手を引っ込めた。



「用事ってなに?駅は反対だよ」
「こっちでいい」
「わかった。ついてく」



歩きながら、首を触った。
さっきまで怖くて苦しかったのに、ちゃんと生きている。
赤星くんが助けてくれたおかげだ。
また助けてくれたんだ。



「首、いてーの?」
「ううん。あの、助けてくれてありがとう」
「やだね」



ぶっきらぼうに言うけれど、照れ隠しなんだってわかる。
隠せてないけどね。



私は赤星くんのペースに合わせて、のたりのたりとついて歩いた。
しばらく沈黙の小夜風が流れ、ようやく赤星くんは口を開いてくれた。



「妹が入院してんだ」



妹がいたんだ。
しかも、入院してる妹さんが。
いくつ?どうして?
私はたまらなく質問したかった。
でも、赤星くんのひっそりした話し方に、「うん」と相槌を打つことしかできない。



「まだ小6でかわいんだ」



5つも下の妹さんなんだ。
その優しい表情からして、本当にかわいいんだろうな。



「うん」
「冬休みに事故に遭っちまって」
「うん」
「今日はその帰り。土日は必ず行かないと、すげー怒ってくるから」
「うん」
「さっき買った漫画、けっこう有名だろ?近所の書店にあると思ったらなくてよ。妹に泣かれた」
「うん」
「入院中は暇だからな。動けねぇし……」
「うん」



暇だからな、がかわいそうにって意味で聞えた。
動けない妹さんのかわりに、違う本屋に見にきてあげたんだね。
置いてあってよかった。



「城元駅にいたのは……、ひき逃げ犯を探してたからだ。駅の近くでひかれたから。さっきのクズみたいに、ライトが消えてたせいで、妹がよく見えなかったのかしんねぇけど、誰かしらはちゃんと見てたはずだ」



誰も見てないと思うなよクソが、とこぼした。



「うん」
「事故った日と同じ曜日の時間帯なら、いつかはあたんだろ」
「うん」


私は強く頷て見せた。
必ず目撃者はいるよ。



「ぜってー見つけだして、罪を償わせてやる。治療費とか慰謝料の問題じゃねぇ」



問題は、妹さんの尊厳を脅かしたことだろうか?
それとも、人道に反れた卑怯なまねをするクズを野放しにはできない、そんなのは神が赦しても俺が赦さない……。
ううん、尊厳よりも正義よりも、これはお兄ちゃんとしてのプライドだ。



「うん」
「罪は償ってもらう。じゃなきゃ、母さんも父さんも……。妹だけじゃねぇ」
「うん」



つらい、とは口に出さないんだね。
家族みんなで、やり場のない気持ちを抱えたまま過ごしているのに。
それは赤星くんも同じなのに。



3学期に入って隣の席の子が、冬休みにそんな心配や怒りを抱えたまま登校していたとは思いもしなかった。
私の冬休みといえば、お正月についたお餅できなこ餅を作ってほおばっていた。



「手術中、待合室で母さんが泣いて祈ってた。父さんなんか集中治療室にいるって聞いて、仕事早退してきてさ」



捻挫や打ち身の軽い怪我ではなかったんだ。
入院するくらいだから、きっともっと。
どのくらいの怪我をしたんだろう。
聞きたいような、聞きたくないような。
妹さんと面識のない私でも、怖いし悲しくなった。



「後から聞いた話じゃ、すごい痛みで起き上がれなくて、誰かが来てくれるのを持ってたらしい。妹は倒れてたんだ。置き去りにしやがって……」
「うん」
「警察から家に電話がかかってきてさ。妹が病院に搬送されましたって。母さんは車の中でもう泣き始めて、大丈夫かな、とか、痛い思いをしてないか、とか、泣いてないか、とか……。とにかく早く病院に行かねぇとって感じで」
「うん」
「ベッドの上でぐったりしてる姿は一生忘れられねぇ。……頭には包帯、耳には切り傷、首も肘も脚も固定されて、満身創痍って感じだった」
「うん」
「打撲で肌の色も青くて、……6回目。牛蛙ってよく泣くな」
「え?そのカウントって泣いた回数だったの?」
「いまさら?俺ハンカチ持ってねぇぞ」



私は自分のポケットからハンカチを出して涙をぬぐった。
赤星くんが頭の上に手を置いた。
寝かしつけるときにするポンポンみたいに、そっと何回も。



「私が泣いてどうするのって感じだね。泣きたいのは赤星くんなのに。ごめんね」
「やだね」
「妹さんが大怪我だったなんて……」
「軽い脳挫傷と右脚の大腿骨骨折だった。あとは打撲とか」
「とってもかわいそう……」
「犯人くらい見つけてやりてぇよ」



入院している妹さんの痛みと、その家族の痛み。
その行き場のない気持ちが、さっき男へのパンチとなって放たれたのかな。
妹の犯人への代理パンチ。
頭ごなしに怒られた男にしてみたら、飛び火もいいとこだけれど。



「背負い投げしてからの連続パンチの流れには驚いたけど、そんな事情があったんだね」
「パンチは何発かいれたけど、背負い投げはしてねーよ。脚をすくったら、あのクズが派手に転んだだけ。背負い投げなんか受け身がとれない素人にできるかよ。コンクリの上だぞ。頭打ったらどーすんだ」
「力まかせにみえて、きちんと手加減してたんだね。さすが柔道部」
「クズひとりのために少年院に入るつもりはねぇ」
「う~ん」



保身をはかることも必要だけど、思いやりもバランスよく持って戦ってほしいところだ。



「怖いとこ見せてわりぃな。道交法を守らないやつにすげー腹立つんだ」
「どうこうほう?」
「道路交通法」
「どうろこうつうほう、かぁ。あのサラリーマンはある意味警察に捕まったね。赤鬼警察官のお手柄だ」
「そ。いつもは角も牙も隠してんだけど、あんときは出ちまった」
「家族がそんな目に遭ったら、私だって鬼化しちゃうよ」
「つーわけで、牛尾田がちゃんと家まで帰ったってわかる方が安心すんだ」



そんな台詞を言うときに、牛尾田だなんて呼ばないで……。



お互いに黙りこくってしまった。
景色を眺めているふりをしていると、『安藤市立病院』と書かれた塔屋看板が見えた。



「用事って、漫画を渡しに行くってことだね?」
「そ。泣かれちゃ行くしかねぇだろ」



ヒーローだね。かっこいいじゃん。



「さっきはこの道を引き返して、わざわざ来てくれたんだ?ありがとう」
「やだね」
「もう。どうしてそういう言い方しかできないのかな?」
「天邪鬼だからな。鬼って字がつくだろ」
「もう。ほんとに、へそ曲がりというか、照屋さんなんだから」
「照れてねぇ!」
「赤星くんてさ……、大好きでしょう?」
「は?だれが牛蛙みたいな両生類を好きになるかよ。勘違いすんな」
「私?そっちこそ勘違いしてる。妹さんのことだよ」
「そっちかよ」
「お見舞いに1回、さっき漫画を届けに行きかけて1回、そして今の1回。計3回も往復してる。大切にしてるんだね」
「うっせーな」
「私ひとりっ子だから、もし兄弟がいたら赤星くんみたいなお兄ちゃんがほしいな」
「ほんとゲロゲロうっせーな。牛蛙の妹なんかほしくねぇよ」



赤鬼って怒りん坊で照れ屋さんだから赤色なのかもしれない。



「自転車って危ねぇんだぞ。スピードメーターついてねぇから、どんだけ自分がとばしてんのかわかってない。相手の前方不注意で突っ込まれてみろ。お互い軽い打ち身程度じゃすまねぇ」
「う、うん。歩行者もぼーっとして突っ込んだらいけないよね。気をつける」
「タイミング次第では、牛蛙だってそうなってたかもしんねぇ。自己転倒っつーオチだったけどよ」



さっきサラリーマンと衝突しそうになった曲がり角を思い起こしてみる。
ガッシャーン!と衝突する音がして、私が自転車の下敷きになり、サラリーマンも転び、自転車は地面の上を想像の端まで滑っていき、後輪が空回りする……カラカラカラカラ。



「……生きててよかった」
「無事でよかった」